234人が本棚に入れています
本棚に追加
「おかえり、杏南」
彼は何食わぬ顔で、エプロン姿で台所に立ち、野菜を切っている。
「無言で帰ってくんな、挨拶ぐらいは……」
「あのさぁ、聞いてないよ……何で居るのよ!」
口を尖らせ冷たく言い放つ私に、彼はあっさりと当たり前のようにこう言った。
「当たり前でしょ、今日ぐらいは帰ってくるよ」
淡々とした彼の言葉。
その言葉は火傷のように、じりじりと胸を締め付ける。
「……何処行ってたの?」
「あそこ」
彼が鍋をかき混ぜながら指した場所には、イーゼルの上にスケッチブックが置かれてある。
手にしてページを捲ると──そこには広がる蒼い海、オレンジの屋根が連なる美しい港街の光景が広がっていた。
「どこ?ここ」
「クロアチア。今度友好都市になるから、役所に飾る絵の依頼なんだ」
彼はまた包丁で何かを切りながら、この描かれている街について語りだす。
強固な城壁が見事だったこと。色々な文化の影響を受けて独自に進化し、様々な時代の歴史的建造物がひしめいていること。吹き抜ける潮風が、気持ち良かったこと。
私は話し半分に聞きながら、ページを捲っていく。
話を聞かなくても、このスケッチからでも充分に街の美しさが伝わってくる。
まるで綺麗なものだけを切り出して、私に伝えているようだった。
最初のコメントを投稿しよう!