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キーボードのカタカタ言う音にうっすらと目を開けると、ベッドの横に置いてある希彦のデスクの上の灯りが落とされていて、ぼんやりと長い背中が見えた。
時々右の方に置いてある何かを覗きこんでは、またキーボードを打ち込んでいる。そう言えば論文の締め切りが近いと言っていた。きっとそれをやっているのだろう。それにしてもさっきまで―
ベッドで身じろぎしたのが聞こえたようで、希彦が振り向いた。
「ごめん、起こした?」
「あ、ううん、全然大丈夫。今、何時?」
掠れ声しか出ない。希彦と抱きあった後はいつもこうだ。全然客観的になんかなれないから自分がどれくらいの声を上げているのかなんて、さっぱりわからない。でもリッツのあの夜、
「絵梨花さんの声、凄いセクシー。もっといくらでも聞きたい」と言われて死にそうに恥ずかしかった。
「三時過ぎ。水、欲しい?」
「ううん、大丈夫、自分で。」
仕事の邪魔は死んでもしたくないし、自分の面倒くらい自分でみたい。ベッドの下に落ちているワンピースを手早く身につけた。変だけど仕方ない。今手の届くところにあるのはこれしかないから。
視線を感じて目を上げると、面白そうにこちらを見ている瞳とかち合った。
「何?」
「いや。」
そう言いながらも口角が上がっている。
「何よ?」
「絵梨花は絵梨花だなと思って。」
「何それ。」
「自分のことは自分で。あと日常に戻るのが異様に早い。」
「日常って…」
人差し指を左右に振ってからかうようにワンピースを指さしている。
「違うよ、これは―」
これは何なんだろう、言葉が続かない。これでも着ないとキッチンに行かれないから、行けなきゃ水を飲めないから。そうでなく希彦に頼めばすんなりと私はベッドで水を飲ませてもらえて、まだまだ甘い空気の中でじゃれあったり出来たかもしれない。
私にはそうした可愛さが圧倒的に足りない。それは貴久の時のみならず、どの恋愛でもそうだった。手をつなぐのはいいけど、肩を抱かれるのはイヤ。軽かったり小さかったりする荷物を持ってもらうのはイヤ。ましてや自分のバッグを持ってもらうなんてありえない。自分で出来ることをやってもらうのもイヤ。だから甘えるということが出来ない。
ここで上目遣いでもすれば、ごめんと折れれば、腕に身を寄せれば、涙を一粒こぼせば。思いつきはするのに、でも出来ない。そのうちタフな彼女ということになり、ぞんざいに扱われるか放っておかれるか、きちんと可愛い他の女性への踏み台にされるか。いずれかの末路を辿ることになる。
希彦とはどの末路になるんだろう?いつだって注目を浴びる彼だから、差し詰めきちんと可愛い女の子だな。わかってるのに、何で甘えられないんだろう。今だってもう未来が見えてしまった気になって寒々としているというのに。
とっくにデスクに向き直ったその背中を見ながら、そっとキッチンに行く。飲み物だらけの冷蔵庫。浄水器を使えばいいのに、面倒くさそうにミネラルウォーターのボトルが幾つも入っている。そのうちの既に開いている一本を取り出し、グラスに注いで飲み干す。荒れた喉に冷たい水が美味しい。
やっと人心地ついてさっき浮かんだことを改めて思ってみる。あの希彦の切り替え様。さっきまで熱い吐息をついていたのに、今はもう仕事なんて。
よく「男は本を読むように恋愛をし、女は音楽を聴くように恋愛をする」と言うけど、言い当てた人は天才だと思う。常に気怠く恋愛に身を浸して、宝箱を覗くようにあれこれを思い出す女と、あっという間に恋愛を切り離して、何食わぬ顔で次の課題に取り組む男と。まさに今の私たちだ。それでいい。仕事には集中しなくてはならないし、自由になる時間なんて私たちにはわずかしかないんだから。そう思う端から、でもその鮮やかな切り替え方が淋しく思える。そうして淋しく思う自分に仰天する。デスクに向き直るスピードにがっかりしている。何だこれは?この寄りかかりようったら。
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