2. 過去の恋愛話

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2. 過去の恋愛話

何でそんな話になったんだろう。不毛過ぎる話題なのにどうしてもその誘惑に勝てない“相手の過去の恋愛話”。 「希彦が山ほど付き合ってきたのは知ってるけど。最長の人はどれくらい?」 オフが重なった土曜日の遅い昼下がり、恵比寿の駅ビルのCAFEでBGMに流れるジャズに心地よく身を任せていたはずなのに、つい口走った。言った瞬間、しまった誘惑に落ちたと動揺して、慌ててソイカフェに顔を埋めた。 「はは、最長か。」 向かいの男は笑いながら“本日のおすすめ”をブラックでごぶりと飲んだ。目を上げなくてもわかる、どういう顔をしているのか。目尻が少し落ちてその代わりに口角が上がって面白そうに鼻で笑っているはず。 「絵梨花は?と、知ってるか、俺。」 そこへ行くか。 「私のことはいいから。」 そう促すとちょっと首を傾げて答えた。 「一年半。」 …訊くんじゃなかった。思っていたよりもずっと長い。この男が一年以上もつき合った相手がいたなんて想像だにしなかった。いって一年、そう軽く見ていた。自分で訊いたはずなのにもう胸が苦しくなっている。なのに。 「でも別れてからまたしばらくして戻ったから、トータルで三年行くかいかないか。」 え?息が止まりそうになった。別れたのにまた付き合ったの?その後一年以上も?この次から次へと渡り歩く(はず)の男が。でもそれは私の勝手なイメージだったのかもしれない。実は私はこの人のことを何も知らないのかもしれない。 「それ…医者になってから?」 何とか平静を保って問いを重ねる。 「いや。商社の時。相手は同期。」 希彦には一般大学を出て一般企業に就職していた頃がある。何の想像も及ばない日々。その時に一緒に働いていた人とずっとか…。 ぼんやりと哀愁をおびたトランペットの音が耳に入ってきた。頼むよ、ここは陽気なカルテットでお願いしたいのに。気持ちを扱いあぐねてソイカフェをごくごく飲む。 「なに、興味持ってきた、俺に?」 ニヤリと笑っている。悔しい、ただ悔しいけど、でもここまできたら皿まで、だ。 「何で別れたの?」 間違っている方向へとどんどん突っ込んで行っている自覚はある。 「普通にすれ違い。俺が会社辞めて医大入って忙しくなったから。」 「でもやけぼっくいなんでしょ?」 やけぼっくい?久しぶりに聞いたって言うか、会話で聞くの初めてかもとクックッと笑っている。 「俺らの同期仲良くて、今も交流あるんだけど。年に一、二回とか飲み会あって。そこで再会してまた始まったって感じ。」 今も交流?再会してまた始まったの? 「よっぽど気が合う二人だったんだね。」 早口になってまたソイカフェに逃げた。良かったエクストララージにしておいて。 「まあそうかも。一番長く一緒にいたし。」 一言一言が胸に刺さる。この人、そんな恋愛出来たんだ。エッホエッホなだけじゃなくて。ちゃんと再燃までさせられるような。 「へえ。」 もう何も言えなくなって、とりあえずの言葉を口にのせた。 「…まあでも、結局またダメだったし。」 少し間が開いてから希彦が息を吐きながら言った。 「今度は何で?」 「同じ理由。結局一緒にいられなくて淋しいって泣かれて。」 そんなの一番解決する問題じゃない。一緒にいられさえすればいいんだから。しかもその根本には、ただ好きだから一緒にいたい、というシンプルで可愛い気持ちがある。 訊くんじゃなかった。本当に訊くんじゃなかった。 「じゃあさ、」 調子っぱずれなほど元気な声だったからだろう、ん?と希彦が目を細めた。 「今なら上手く行くかもね。希彦も仕事に慣れてきたし、救急は頑張れば時間のやりくり出来るから。」 ね?と思いっきりの笑顔を向けると細めた目のままじっと視線を当てられる。耐えられなくなって目を逸らした。Fly me to the moon。今それか。 「自分は、」 低い声が響いた。 「自分はどうなんですか。七年も一緒にいて、お互い独身のままで、会えば仲良さそうに。連絡とって未だに二人で会ってるし。復縁の可能性、高いんじゃないんですか?」 丁寧語になっている。 「え?」 「俺が邪魔ですか。」 「邪魔?え、何で?」 「体よく追い払おうとしてるから。」 追い払おうとなんてしてない。 「どうしたの?」 「何が。」 「急に怒ったみたいに。」 「みたい、じゃないですよ。怒ってるんです。」 「丁寧語になってるし。」 「距離があるんで。」 そう言うと、今度は希彦がマグを掴んで乱暴に飲み始めた。距離?何で?希彦のいう事がさっぱりわからない。わかるのはただ私がバカな誘惑に負けて、過去の恋愛をほじくり返したことだ。希彦は至って正直に答えてくれただけなのに。 「あの、なんかごめん。」 「何に対して?」 「えっと、怒ってるから?」 「情けない理由で適当な謝罪とか、勘弁してください。」 あ、切られた。鋭いナイフで心をすっぱり。痛い、すごく、すごく痛い。本当に信じられないことに鼻がツンとしてきた。慌てて席を立つ。 「トイレ。」 それだけ言って店外のトイレに小走りで向かう。明るくてキラキラしたモールの空間には陽気なBGMが流れ、楽しそうに笑う女子組やニコニコしているカップルが山ほど歩いていた。バカだから、私は。安く、今はあなただけですよ、とか言ってもらいたくて。まだ気持ちが残ってるなら傷が深まる前に向こうに行ってほしくて。ただ怖くて。一度は思い切ったのにまた戻る恋情の前になんてとても立てないから。どれだけの強いきずなが二人の間に残っているのか、どれだけ沢山の想い出が二人の心にしまわれているのか、全然わからないから。 怖い、やっぱり希彦との恋愛は。 そしてそんな恐怖を私は死んでも口には出来ない。
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