79人が本棚に入れています
本棚に追加
3. 羊
「…一昨日の今日って、何なんですか?」
だから、そっちこそ何で立ちふさがるのか。食堂近くの廊下で看護部長室に急いでいたら突然影が差した。
「あのね、由良先生、私の連絡先ご存知ですよね?だからもうこんな事しなくてもよくありません?お疲れでしょうし。」
お馴染みのオペ着と白衣の組み合わせに言葉をかけると、
「ふうん、そう来ますか。」
腕組みをして全くどく気配がない。
「仲ほんとに良いですよね、毎回。」
「え?誰と?」
「言わせるってところがまた。センター長ですよ、センター長。」
「ああ…え、もしかしてさっきのあの廊下でのこと?」
深く頷いている。わざとらしく。
「あれはたまたますれ違って。知ってるでしょ?なんかおたくの設備投資の件で院長に直訴しに行ったって。」
「ああ、聞いてますけど。」
「その話をしてただけだって。ほんとにそれだけだし、偶然だったし。」
「偶然、よくありますよね。もう運命じゃないですか?」
「はあ?そっちみたいじゃないし、全然。」
「そっち?」
首を傾げている。
「そう。こっちはやけぼっくいとかあり得ないから。」
何となく失言したようなうすら寒い気になって見上げれば、案の定口角がゆっくり上がった。
「やっぱり妬いたんですか。」
「…」
希彦のせいで前には進めないから、仕方なく横に伸びる通路に向きを変えた。早足でずんずん進む。
「答え、聞いてませんよ?妬いたんですよね。一昨日、あの後様子ヘンだったし。」
本気を出せばすぐ追いつけるくせに、わざと半歩遅れてついてくる。
「そっちどんどん暗くなりますけど。もしかして、俺誘われてますかね?」
脳天気な声がさえずっている。
「ついて来なくていいって。」
息が切れてきたところを腕をグッと引かれてつんのめった。
「絵梨花さん、」
「…」
「結構浮かれたいし、お誘い、やぶさかじゃあないんですが、」
「誘ってない。」
「仕事まだ残ってるんで、これで勘弁して下さい。」
希彦の香水が近くなり、額に温かくて柔らかな唇を感じた。
「バッ、」
はは、お疲れ様ですと笑って、あっという間にもと来た道を戻って行く。
その嬉しそうな背中を見送っていると、
「なんだ、アツアツじゃありませんか。」
と暗闇から声がしてギョッとした。慌てて振り返ると、薄暗い中でも煌めく瞳が微笑んでいた。
「げ…」
何でたまたま一瞬福岡から戻ってきたやつがこのタイミングでここに現れるのか。
「すみません。エレベーターがなかなか来ないんで、院長室から階段降りてきたんです。」
そう言いながら非常階段のドアの方を親指で指している。
「でも、出るに出られなかったって言うか。いや、由良が早めに切り上げてくれて助かりましたよ。」
さつきが心配していたけれど、全然大丈夫じゃないですか、とまたニッコリする。
「さつきが?ほんとに?」
親友の優しい顔が浮かんで心が温かくなる。
「十分アツアツだったって伝えときますね。」
そう言うと、この人もまたものすごいスピードで去って行った。アツアツって、大地、あんた語彙がさつき化してるよ。まずいよ、天下の上郡がそれじゃ。
二人見送った。長身の後ろ姿を二人。大地はいい、王道をまっしぐらで。きっと前の彼女とどうとかでこっちの気持ちを波立たせるようなことはしないだろう。「一度に一人ですよ」とか、全然言う必要がなさそうだ。それに引き換え由良はなあ…ぐったり疲れた。よし、今日は飲もう。おでんもそろそろ食べたいし。めちゃくちゃオヤジっぽい場所でグレたい、ひとりで。
最初のコメントを投稿しよう!