幻影の終焉

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 十八年も生きていると、一つや二つ、一生思い出したくない思い出があるものだ。  客観的に見れば、平凡の範疇に属するに違いない人生を送ってきた僕も、その御多分に漏れない。  中学一年生の時、その年初めてとなるプールの授業を、僕は見学することに決め、保険体育科を担当する男性教師にその旨を告げた。  教師は「おお、そうか」と応じ、見学する理由について尋ねてきた。  それに対して沈黙を返したところ、教師は眉間にあからさまに皺を寄せ、「そんな態度では世間に通用しないぞ」と苦言を呈した。  僕の中でその思い出は、一生思い出したくない思い出ワーストワンの座に、長らくの間君臨してきた。  当時、保険体育科を受け持っていたのは、若くはないが中年でもない、たまに着てくるスーツが恐ろしく似合わない男性教師。文章に変換したならば、当該箇所に傍点がついているに違いない、人の神経を逆撫でするような言い方だった。  どうやら男性教師は、質問に沈黙で答えるという僕の対応が、反抗的だと感じたらしい。  では、なぜそう感じたのだろう? プールの授業以前の僕に対する言動を判断材料にした限り、彼はどうやら、僕を至って真面目な生徒だと認識していたらしい。体育の授業を見学した理由を尋ねれば、正直に、なおかつ、見学するのも仕方がないと質問者が納得できる回答を示す生徒。そう思い込んでいた節がある。  プール以外の授業での僕の態度を見れば、僕をそのような生徒だと見なすのも無理はないかもしれない。  しかし、実際の僕は怠惰で不真面目だ。やりたくないプールの授業を、「やりたくないから」という、ただそれだけの理由で平気でサボタージュする人間だ。しかも、ひとたび自分に不都合な方向に話が流れると、沈黙で逃げる狡さを併せ持っている。清いか屑かで分類するならば、明らかに後者。  要するに、男性教師は僕の幻影を見ていたわけだ。 『そんな態度では世間に通用しないぞ』  彼が定義するところの「反抗的な態度」に該当する態度を取った僕に対して、男性教師がそう苦言を呈したのは、心の底から「そんな態度では世間に通用しない」と思い、「世間では通用しない態度」を是正する必要を感じたから、ではないはずだ。今まで僕を清い人間だと勘違いしていたのが決まり悪く、屑だと気づけなかった己の無能力が恥ずかしかった。その二つの感情を解消するために、本来ならば口にする予定のなかった一言を付け加えることにした。恐らく、それが真相だろう。 『そんな態度では世間に通用しないぞ』  そうですか。世間に通用しませんか。流石、先生は人生の先輩です。何年かは知りませんが、僕よりも長い間生きているだけありますね。わざわざご忠告ありがとうございます。  でも先生、お言葉ですが、本当の僕を見抜けなかった先生も、相当アホですよ? 僕が生真面目な優等生だと、何を勝手に決めつけているんですか? アホなんですか? ていうかアホでしょ、先生。アホ以外の何者でもないですよ。  ああ、すみません。つい汚い言葉遣いをしてしまいました。まだ十八年しか生きていないので、語彙が貧しいのです。軽蔑するべき人間にかける言葉は、アホの二文字しか思い浮かばないのです。  ていうか、先生も水くさいな。教師と生徒の関係ではないですか。本当の僕を勘違いしていたことに物申したかったのなら、正直におっしゃってくれればよかったのに。 『私は、私が受け持つクラスに所属する生徒である湯川健次にプールの授業を休んだ理由を尋ねたが、沈黙という、私が反抗的と考える態度を取ったことに腹立たしさを覚えると共に、湯川健次がそのような反抗的な態度を取る生徒だということに、そのような反抗的な態度を湯川健次が取るまで見抜けなかった己を不甲斐なく思い、その感情を円満に処理するために、本来ならばプールの授業を休んだ理由を答えなかったことを注意するだけに留めるべきところを、プールの授業を休んだ理由を答えなかったことを注意した後で、「そんな態度では世間に通用しないぞ」という一言を付け加えた』  そう正直におっしゃってくれればよかったのに。本当にアホだなぁ、先生は。  世間に通用しない? 教師風情が他人の未来を決めるなよ、アホが。他人がちょっと気に入らない態度を取っただけで、世間に通用しないだって? 世間はお前を基準に回ってないんだよ、アホ。むかつくんだよ。  死ね! 死んでしまえ!  歩行者信号は人工的な赤い光を放っている。歩道の最前線で足を止め、精神を落ち着かせるために深く息を吸い、長く吐く。  夕方から夜へと移行する時間帯。日中に蓄積されたぬるい空気は天地の間に健在で、夕陽が没した後も居座り続けそうな気配を漂わせている。そんな些事にはお構いなしに、行き交う人々の足取りは全体的に軽快で、疎外感に気が滅入りそうだ。 『そんな態度では世間に通用しないぞ』  男性教師からそう言われた思い出は、一生思い出したくない思い出ワーストワンの座に、僕の生命が終焉を迎えるまで君臨し続けるものと思っていた。  それが、まさか、たった五年後に覆されるとは。  思い出しても苛立つだけだから、徹底的に無視しよう。  一生思い出したくない思い出ワーストワンが更新された直後に、そう自らに強く言い聞かせた。なのに、いつの間にかその出来事のことを思い返している。  夕食を摂るために入ったハンバーガーショップで、購入した商品に問題があったためクレームを入れたが、不誠実な対応をされて憤慨し、商品を一口も食べず、支払った代金の返還も求めずに店を去った――という出来事を。  入店したのは、食事をするには少し早い時間だった。  だからこそ、僕はあのような目に遭ったのだろうか? 今回の件の諸悪の根源は、乱暴な言い方をするならば、僕の異常性にあるのだろうか?  思案が危うい方向に流れる予感を抱いた直後、歩行者信号の色が青に変わった。人間が一から作らなければ表現できない、緑色に極めて近い青色。進めの合図。  ああ、分かったよ。進めばいいんだろう、進めば。  再び、今度は小さく息を吐き、僕は歩き出した。  手前から五番目の白線の左端に、牛乳瓶を思わせる形状の硝子製の小瓶が置かれている。ラベルが貼られていて分かりづらいが、中身が僅かばかり残っている。  通り過ぎざまに蹴飛ばすと、横転した小瓶の口から、赤とピンクの中間のような色合いの液体が流れ出した。アスファルトの表面を粘っこく広がり、桜花にも似た上品な芳香を周囲に拡散する。  渡り切った直後、歩行者信号が赤に変わった。信号待ちをしていた黒のセダンが動き出し、水溜まりの上を走り抜ける。刹那、右手の甲に冷たさを感じた。問題の部位へと目を転じると、スプレーで吹いたかのように、赤ともピンクともつかない色の斑点が無数に散っている。 「……くそっ」  舌打ちをし、カーブミラーの支柱に右手の甲をなすりつける。入念に拭ったつもりだが、汚れは依然として微かながらも残っている。再び舌打ちをしそうになったが、頭を振って歩き出す。  この国のどこに、自分が買ったフライドポテトの容器に芋虫を入れる馬鹿がいるんだ? あの芋虫は、絶対に提供される以前に混入したものだ。それなのに、あいつら、僕の自作自演だって? 「……ふざけやがって」  スーパーマーケット『エンブリオ』の入口に、四・五歳くらいの女児が、大型犬用の首輪と鎖で繋がれている。その小さな手には、一輪の花が大事そうに握られている。蒲公英だ。  女児は蒲公英にしきりに息を吹きかけているが、綿毛ではなく花の状態なので、小さな卵色の花弁がそよぐばかりだ。  眼前の光景の意味について考えそうになったが、咄嗟に待ったをかける。  意味不明な人物や事象や物事は、世の中に掃いて捨てるほどある。いちいち足を止めていてはきりがない。自分と直接関係があるならば話は別だが、この子は僕にとって赤の他人だ。  思い出せ、湯川健次。僕が『エンブリオ』まで来た目的はなんだ? 夕食を買うことだ。意味不明な行動を取る人物の相手をすることではない。無関係の他人は放っておいて、さっさと店に入ろう。……よし、結論は出た。  店頭に山積された、銀鼠色のショッピングバスケットを手に自動ドアを潜る。直行したのはいつものごとく、弁当コーナー。  豊富とも貧層ともつかないラインナップ。その中から、税込み三百九十円のカツ丼弁当を取ろうとして、苦笑をこぼすと共に頭を振る。丼物の弁当は一見ボリュームが多いように見えて、僕のように質より量を重視する者の目には魅力的に映るが、上げ底をしてあるので、実際の量は見た目ほどではないのだ。 「凡庸な詐欺師は同一人物を二度騙せない……。経験が何よりも人を強くさせる……」  カツ丼弁当の隣の幕の内弁当を手に取り、ショッピングバスケットに入れる。  陳列棚の前から離れた途端、通路の端でショッピングカートに寄りかかっていた老婆が、待っていましたとばかりに動き出した。先程まで僕が立っていた場所に直行し、骨董品の鑑定士さながらの真剣な眼差しで弁当を選び始める。 「せいぜい満足がいく弁当を選ぶがいい」  過ちを未然に防いだ高揚感に任せて、他の客から怪訝な目で見られるのも厭わずに、独り言を呟く。 「あんたの人生、ゴールテープがもう目の前に見えている。それを切ったらどうなる? 死だ。虚無だ。一巻の終わりだ。復活も再誕も二巻もない」  レジへ向かう途中、パン売り場に隣接する和菓子売り場が目に留まった。何か甘いものを買っておこう、という考えが芽生えた。和菓子はあまり好きではない。和菓子売り場に背を向け、スナック菓子やチョコレート菓子の売り場へ。  チョコレート類が陳列されている棚の前に、少女が佇んでいる。  小柄で痩せ型。肩までの長さの黒髪からは艶が感じられない。僕よりも少し年下――十五・六歳だろうか。美人でも不美人でもなく、化粧気のない顔には無表情が貼りついている。着ているのは、上は純白のタンクトップ、下は穴だらけのブルージーンズ。胸部の膨らみは豊かでも貧しくもない。  少女の右隣で足を止め、横目に窺う。  タンクトップの生地越しに、うっすらと透けて見えているものを認識した瞬間、電流が体を駆け抜けた。  ノーブラ。  店内を流れていた楽天的なBGMがミュートされ、視界が少女の胸部とごく僅かな周囲のみに狭まり、心拍数が生命の危機を覚えるレベルまで急上昇する。それでいて、僕は僕の心臓が破裂することなんて心底どうでもよくて。  ……何だ。何なんだ、これは。  混乱の中、対象を一層注視するべく、目を凝らす。  刹那、目の端に銀色がちらついた。ショッピングバスケットの銀鼠色とは似て非なる、黒というよりは白に近い、冷ややかな銀色。  反射的に視線を転じて、僕は琥珀の中の昆虫のようにフリーズする。  銀色の正体は、少女の右手に握られた一本の縫い針。  少女の焦げ茶色の瞳は、彼女の前方、自らの胸の高さに陳列されたチョコレートに注がれている。商品名、ソックリマンチョコ。  棚の最も前に陳列されているソックリマンチョコの袋を、少女は左手で上から軽く押さえ、 「ソックリマンチョコ、ソックリマンチョコ、ソックリマンチョコ……」  躊躇なく、右側面に縫い針を突き刺した。 「ソックリマンチョ、ソックリマンチョ、ソックリマンチョ……」  鋭利な銀の刃は、極めて遅い速度で、音もなくソックリマンチョコに埋もれていく。 「クリマンチョ、クリマンチョ、クリマンチョ……」  ほどなくして、縫い針は完全に袋に埋没した。  少女の左手がソックリマンチョコを棚から掴み出す。体を九十度右に回し、僕の顔を一瞥し、手にしているものをショッピングバスケットへと投げ入れる。僕に背を向け、速くも遅くもない足取りでその場から去った。  幕の内弁当の上のソックリマンチョコをつまみ上げる。  縫い針が突き刺さった箇所は覚えていたので、穴は容易に発見できた。直径は極めて小さく、少女が針を刺した事実を知らなければ、よほど勘が鋭くない限り気がつかないだろう。鼻を近づけると、仄かに甘い匂いがした。  ソックリマンチョコをショッピングバスケットに戻し、レジへ向かう。  そこはかとなく水商売の雰囲気をまとった若い女性の店員は、案の定、チョコレート菓子に細工が施された事実には気がつかなかった。支払いは千円以内に収まった。言うまでもなく、釣り銭の受け取りは拒絶した。 「募金箱にでも入れておいてください」  そう伝えれば、誰もが僕の小さな異常を受け入れる。  店を出ると、鎖に繋がれていた少女の姿は消えていた。  僕の心は、その事実について思案する方向に流れるのではなく、帰途に就くことを速やかに選択する。  景色が透けて見えるほど薄手のレジ袋に商品を詰めている間も、帰宅している間も、僕の心臓は期待と興奮に動悸していた。心拍数が平常に復するには、アパート三階の自室に帰り着いた後、しばらく経って空腹を自覚し、意識が夕食に向かうまで待たなければならなかった。  駐車場からいつもの男性の声が聞こえてきたのは、自室のフローリング張りの床に直に尻を下ろし、幕の内弁当を食べている最中のこと。 「殺してやる!」  直後、若い女性の甲高い悲鳴が響き渡ったのも、いつもと同じだ。  男性の「殺してやる!」という声。それに続く、女性の叫び声。僕が現在のアパートに引っ越してきた日の夜以来、その二つはワンセットとなって、毎日欠かさず聞こえてくる。  その声が、一日一回、午後六時から午前零時の間のどこかで聞こえてくるものだと把握するまで、その声自体というよりも、声がいつ聞こえてくるか分からないことに怯えたものだ。もっとも、そんな過去が微笑ましく思えるくらいに、今ではすっかり慣れた。  弁当を平らげ、ソックリマンチョコの袋を開封する。内部に沈んだ縫い針の硬さと鋭利さを意識しながら食べ進めると、やがて銀色の一端がチョコレートから覗いた。 「ソックリマンチョ、ソックリマンチョ……」  つまんで引き抜き、子細に観察する。何の変哲もない縫い針だ。夥しく付着しているチョコレートは、少女の瞳と同じ色をしている。  チョコレートを食べる。  左手で縫い針を玩ぶ。  偶然が引き合わせた少女の、純白の薄手の衣服の下に秘められた、大きくも小さくもない膨らみの全容を想像する。  三つの作業を並行して行い、同時に終わらせた。
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