幻影の終焉

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 空間の左右の端に長方形の白い枠が無数に描かれ、一枠につき一台の自動車が駐車している。広さ的には、空間の中央にも駐車スペースを設けても差し支えなさそうだが、設けられていないため、幅広の通路が奥へ向かって展開している恰好だ。  視野に入る場所に設けられた駐車スペースは全て埋まっている。中型から大型の、荷物を多く積み込めそうな車が多い。それらを横目に、一直線に続く道を直進すれば、駐車場から出られるはずだ。  市民プール内にいた時は、市民プールから出ることを目的にしていたが、いざ市民プールから駐車場に出ると、今度は駐車場から出ることが目的になる。ベアトリーチェという目的を持たずに現在の状況に置かれていたならば、精神的な自壊に直結する虚無感に襲われていたかもしれない。  ベアトリーチェ。本当に、本当に、私にとって大きな存在だ。大きいという形容では不充分なほどに大きな存在だ。  駐車場内を走行している車は認められないが、本来は車が通行するべき場所を歩く後ろめたさから、空間の右端を進む。駐車場の両側には松林が広がっていて、断続的に吹き抜ける風に枝葉がざわめく。林を突き切った先に何があるのかは不明だ。突き止めたいとは特に思わない。  風は淡く潮の香りを運搬してくる。磯の香りとも海の匂いとも形容される、あの匂いだ。プールの駐車場で海の匂いを感じるのは違和感があるが、海の近くだからといってプールが存在してはならない法はない。白砂青松という言葉もあるくらいだ。海を連想させる匂いが漂ってきたのではなく、実際に近くに海があるのかもしれない。市民プールを利用する老若男女の歓声に相殺されていると考えれば、波音が一切聞こえてこない謎の説明もつく。  八台目の車の前を通り過ぎようとして、初めて人の姿を発見した。  黒色の軽自動車。左側の後部座席のドアの外側で、小学校低学年と思われる女児がスクール水着の袖に腕を通そうとしている。サイズが小さいらしく、窮屈そうで、本来は愛らしいと想像される顔が醜く歪んでいる。元の顔は知らないが、その年齢の女児が表現し得る限界を超えた醜さに思える。それ故に、ベアトリーチェが変身した姿ではない、と一目で分かった。ワゴン車の中にも周囲にも、女児の家族らしき人物は見当たらない。  施設内にある更衣室ではなく、駐車場で着替えているのは、いかなる理由からなのだろう。女性は男性と比べて隠すべき部分が多い。まだ性に目覚めていない年齢とはいえ、公共の場で着替えを行うにあたっては、もっと注意を払ってもよさそうだが。  そこまで考えたところで、着替えの最中にもかかわらず、女性の一挙手一投足を見守る愚行を働いていることに気がつき、慌てて目を逸らした。広い空間にたった一人で堂々と着替えを行っている姿には、ある種神的なものを感じないでもない。しかし、ベアトリーチェとは全く無関係の人物だ、という認識は揺るぎないため、注目を外すにあたり、未練に類する感情は生じなかった。  女児の他にも気がかりなことが一点ある。駐車場に人気が全くないのだ。私と先程の女児を除けば誰もいないし、動いている車も見かけない。広大な空間を一人で歩くのは心が落ち着かないという意味でも、早くここから出てしまいたい。  ベアトリーチェに一刻も早く到達したい気持ちが最も強いと、私自身は考えていたが、どうやら現時点では、不快感から早期に逃れたい気持ちの方が勝っているようだ。所詮は最大瞬間風速の問題に過ぎないのだろうが、彼女を希求する気持ちを上回る感情が生じたというのは、不可解なことであり、驚くべきことであり、申し訳ないことだと思う。  強く意識することこそなかったが、私は市民プールにいる間、市民プールから早期に抜け出したいと願っていた。  駐車場から逃れたら逃れたで、新たに足を踏み入れた空間から早く脱したい、と私は願うのだろう。  目的を達成すれば新たな目的が生まれ、目的地に辿り着けば新たなる目的地が生まれる――際限がない。  ベアトリーチェに到達することでしか、この呪いは解けない。そう思うと、彼女に到達したい気持ちが、駐車場から脱したい気持ちを上回った実感を抱いた。  告白しよう。その瞬間、深い安堵感を覚えたことを。  感情は逆転こそしたが、寂然とした広大な空間を一人歩む不安感も、それに起因する、一刻も早く出口に辿り着きたい欲求も、サイズを大きく変えることなく健在だ。これまでに訪れた場所は、湖があった山は人気がなく、市民プールは人で溢れているといった具合に、その場所に見合った人出だったので何とも思わなかった。しかし現在地は、自動車という、現時点での科学技術力では、基本的には人間の搭乗が不可分な代物が無数に停まっているにもかかわらず、先程の女児を除けば無人だから、違和感があるし、不気味だ。「不気味」という表現はいささか強すぎる気もするが、ニュアンスとしては極めて近い。  駐車場から出たい。心の安寧を奪う感情に淡く苛まれている状態から、可能な限り早期に脱したい。  されども、出口は一向に見えてこない。  ベアトリーチェに至る道は一本だけとは限らないはずだ。駐車場を歩き続けるのがどうしても嫌ならば、市民プールに引き返すという手もあるにはあるが、率直に言って気乗りがしない。分析してみるに、既に通った道を再び歩くのは遠回りをしているようで嫌だ、ということらしい。  急がば回れという諺を失念してしまったわけではないが、今は引き返したくない。引き返すのは、駐車場の出口がどうしても見つからなかった時でいい。どうせ引き返すならば早いうちに、という考え方も可能だが、ひとまず気分を優先させるとしよう。  車が停まっているからには、車が入ってきた入口がどこかに存在するはずだ。諦めずに進み続けろ。そう自らに言い聞かせながら、風に乗って運ばれてくる潮の香りを嗅ぎながら、愚直に歩き続ける。  いっそのこと、松林の中を突っ切って脱出を試みようか。  ひたすら歩き続けることに精神的に疲れ、投げやりな気持ちになり始めた頃、進行方向に出口が見えた。ゲートに該当する設備はなく、左右に伸びた道路に直接繋がっている。警備員などの姿もない。  渡りに船のようなこの発見により、気力を取り戻すことができた。歩調を変えることなく真っ直ぐに歩き続け、道に出た。  片側一車線。歩道は狭く感じられるが、人一人が通るには充分な幅が確保されている。道を横断した先にあるのは、一メートルほどの高さのコンクリートの壁。さらにその先では、道路に沿って川が流れている。幅は車道よりも遥かに広く、十メートルを超えているだろうか。流れは緩やかで、水質は汚いとまではいかないが、湖やプールと比べると見劣りする。向こう岸には、同じくコンクリートの壁があり、その外側には住宅が建ち並んでいる。日本中どこででも見られるような、平々凡々な平屋や二階建ての住宅たちで、ベアトリーチェの住まいがありそうな雰囲気ではない。  体を九十度右に向け、歩道を進み始める。  路面は駐車場から引き続きアスファルトで、古びていて荒れた印象だ。所々に裂け目が生じ、生命力を誇示するかのように雑草が顔を覗かせている。小さいものは指頭大から、大きいものは拳大まで、大小様々な石が至るところに散らばっている。黒系統の色のものが多い。路面から剥離したアスファルトの破片が、種々の外圧によって長い歳月をかけて摩耗し、丸みを帯びたもののように見える。  荒廃した印象ではあるものの、不思議とゴミの類は落ちていない。歩き続けていればいずれ見かけるかもしれないが、数十歩歩いた時点では皆無だ。雑草の根本などを注視すれば、煙草の吸殻の一本くらい発見できるかもしれないが、そうしてまでゴミが落ちていないことを証明しようという意欲は湧かない。  道は緩やかな左カーブを描いている。ちょうど湖へと向かう山道と同じような軌道だ。あちらは獣道、こちらは人の手が加わった道という明確な差異があるが、相似性を意識しないと言えば嘘になる。この道を進んだ先に、ベアトリーチェが待ち受けている。そう信じたい。  しかし、結局、桃色のボールには触れられなかった。のみならず、溺れ、湖底へと沈んだ。  前途がにわかに陰るようだったが、救いなのは、私は溺れたものの死んでいない、ということだ。  助かった経緯が不明なのが何ともむず痒いが、ベアトリーチェに至る機会が再び与えられたことは、手放しで喜ばしい。湖での経験が反復されるのではないか、という懸念は当然あるが、未来は到達するまで不確かなのだと自らに言い聞かせ、進むべき道を愚直に進んでいくしかない。  通行人や通行車両の存在は相も変わらず認められない。市民プールを後にして以来、遭遇した人間は黒い軽自動車の傍らにいた女児のみだ。いずれ誰かに会えるだろうとは思うものの、いささか寂しい。駐車場から引き続いているようでもあるし、駐車場の出口を発見した瞬間に消滅した感情が、人気のない道を歩いているうちに再燃したようでもある。  誰とも出会わないのは異常なことだろうか? そうは思わない。黄色いワゴン車に連れ去られてから、市民プールの流れるプールの流れの中で意識を取り戻すまでの間、私は誰とも会わなかった。誰とも会わなかったが、市民プールで多くの人間と遭遇した。現在のところ人間とは出会わないが、それは一時的なものに過ぎず、私を除いてこの世界から消滅してしまったわけではない。きっとこの世界のどこかにいる。私の知覚が及ばない場所に、必ずや。  あるいは認識できないだけで、今も私のすぐ隣を歩いているかもしれない。透明な、体臭を発しない、足音を立てない、触れることができない、舐めたとしても味がしない、第六感をもってしても感知し得ない、超常的な人間X氏が。実際にはそんな人間など存在するはずもないが、存在しないことを証明する術はないので、存在していると見なすこともできる。  確かなのは、そのような空想を弄びながら歩けば、寂しさも大いに紛れるということだ。  空想のお陰ではなく、実際に超人X氏が私の隣を歩いていて、X氏の透明な体から放射される、寂しさを殺す性質を持った不可視の光線の効果によって寂しさを感じていないのだ、と考えることもできる。  それも含めて空想だ。アイデアが枯渇しない限り暇潰しになる。  超人X氏とは、ベアトリーチェなのだろうか?  それについて考えようとした時、進路に交差点が見え、超人X氏は脳内から消し飛ばされた。  現在歩いている道と交わっているのは、現在歩いている道と同じような道。左へ行けばすぐに橋があり、右へ行けば道がしばらく続いている。橋の欄干は灰色で、渡った先は住宅地。右の道の左右には田畑と空き地が混在している。目の前の歩行者信号は赤。左手の歩行者信号は青。横断歩道を渡らずとも、道を九十度右に曲がれば、右へと続く道を歩いていける。  左の横断歩道を今すぐ渡るか。信号が青に変わるのを待ち、目の前の横断歩道を渡るか。右に折れ、右へと続く道を進むか。候補はその三つに絞られそうだ。交差点を斜めに突っ切る。信号が赤なのを承知の上で目の前の横断歩道を渡る。来た道を引き返す。そういった変則的な選択肢を考慮に入れなければ。  まずは左の横断歩道を渡る、だが、その先にある橋、さらにその先にある住宅地に、ベアトリーチェに到達するためのチケットが落ちているようには思えない。駐車場から道に出た直後に、対岸に住宅が建ち並んだ光景が目に飛び込んできたが、その際にも似たような感想を抱いた。実際に彼女と無関係なのかは、歩いてみなければ分からないが、私の体は一つしかない。  次に、右に折れる、だが、三つのルートの中では正道だという印象が最も強い。ベアトリーチェに到達し得るという意味での正道なのかは定かではないが、一見した限りの印象としてはそれで偽りではない。  最後に、横断歩道を渡って直進する、だが、目の前の信号が青に変わる未来は訪れるのだろうか、というのが率直な思いだ。通行人もなく、通行車両もないため、世界が停止してしまったかのような印象を持ったせいで、そのような疑いが生じたのだろう。実際には、私は先程まで移動していたし、現在もこうして思考しているのだから、少なくとも一切合財が停止しているわけではないのは確実だ。  市民プールにいた人々は自由自在に活動していたから、停止した世界の空間的な範囲としては、破れ目があった金網フェンスよりも外側だろうか。駐車場にいた女児をどう解釈するかは難しいところだが、一人きりで歩く寂しさを感じている身としては、仲間だと見なしたい。  同志の可能性がある存在を見出したことが嬉しいような、コンタクトを一切取ることなく通り過ぎたことが悔やまれるような、突飛な空想を弄ぶ己を微笑ましく思うと同時に軽蔑してもいるような、一言では形容しがたい心境だ。  彼女は水着を着終えているだろうか。連れ合いとはぐれていたのだとしたら、合流できただろうか。市民プールで過ごすひとときを楽しめているだろうか。  水着という言葉で思い出した。気温が暖かなのと、人目がないせいで気がつくのが遅れたが、私は今、水着姿だ。  現在のところ周囲に人はいない。停止した世界という概念が現実なのだとしても、その世界の境界線を私は把握していない。現在地は公道だ。いつ誰と出会うか分からない状況の中、今現在の私の恰好は望ましくない。着替えを調達する必要をひしひしと感じるが、現在地から広く見渡した限りでは、服屋と思しき建物は見当たらず、裸同然の体を隠せそうな物品もどこにもない。  今は周りに人がいないのだから、解決策を模索するのは先延ばしにすればいい。  開き直るように、現実から逃避するように自らに向かって吐き捨て、目の前の歩行者信号に注目する。未だに赤色だ。  常識的に考えれば、待っていればいずれ青に変わる。そう信じて待ってみてもいいが、目の前の信号機は、果たして常識が通用する信号機なのか。プールに瞬間移動した件を含め、様々な非現実的な事象を目の当たりにし、非現実的な出来事を体験してきた今となっては、疑わしい。  首を左に九十度回すと、こちらの信号も青色のままだ。  やはり信号機は、というよりも世界は、停止してしまっているのだろうか。目の前の横断歩道を渡るという選択肢は、捨てるべきなのだろうか。  顔を正面に戻すと、信号がいつの間にか青に変わっている。  では、先程まで見ていた左の信号は?  凄まじく気になったが、再び左を向き、正面に顔を戻した時には、左を向いた時に目に映った信号の色が何にせよ、正面の信号が再び赤になっているかもしれないという恐怖、それが左を向くことを許さない。  赤が青に変わったということは、渡れ、ということなのだ。ならば、渡ろう。愚図愚図と三者択一に迷っているよりも、その方が断然いい。  目の前の横断歩道を渡り始める。罠だとは考えなかった。正しい道が示されたという実感により、心はむしろ高揚していた。ただ、いささか矛盾しているようだが、車道上に忽然と出現した自動車が猛然と突っ込んでくるだとか、渡り切るよりも先に、信号が点滅を経ずに赤に変わり、突如として発生した脱出不可能な虚無に呑み込まれてしまうだとか、そういった荒唐無稽な破滅の予感は比較的強く抱いていた。  足は自ずと急いた。急くことも破滅に繋がるのでは、という懸念がなくもなかったが、何事もなく渡り切った。両手を腰に当て、ありふれた長さの横断歩道を渡っただけにしては大仰な息を吐く。  そして、私は再び選択を迫られる。道をそのまま真っ直ぐに進むか。それとも、右に折れるか。  前者を選択した場合、待ち受けているのは、交差点で足を止める直前までと似たような景色だ。即ち、片側一車線で、歩道は狭く、荒れた印象だがゴミは認められず、川に沿って伸びている。道なりに進んでいけば、再び交差点があり、再び赤信号に一時停止を余儀なくされ、再び三択を迫られるに違いない。  では右に進むのはどうかと考えて、横断歩道を渡る前に検討した際、その道こそが正道だという思いを抱いたことを思い出した。  延々と同じ景色が繰り返される道と、どちらを通行すればベアトリーチェに辿り着けるだろうかと考えた瞬間、選ぶべき道は決定された。体を九十度右に回転させ、直進を開始する。  私にしては短い思案時間だった。考えることに疲弊しつつあるのかもしれない。積極的に思案したいか否かと問われれば否だが、それでも、今後も考えずにはいられないのだろう。歩かなければならないことと同じだ。疲れるが、ベアトリーチェに到達するために必要不可欠な作業という意味で。  しばらく歩くと、またもや道が交差していた。今度の道はかなり幅広で、片側四車線もある。夥しい数の車がひっきりなしに行き交っている。走行音、排気ガスの臭い、伝わってくる風。車窓越しに窺える運転者や同乗者の輪郭や表情の精密さ、自動車のボディの質感。それら全てに現実性が多分に抱合されている。  人間と再会できたことは喜ばしいが、私は水着を着用している。できれば大通りには出たくない。  ただ、直感を信用するならば、大通りを行けば、ベアトリーチェに会える可能性が非常に高い。  問題の解決を後回しにしてきたが、向き合わなければならない時がとうとう訪れたのだ。  解決策を求めて思案を巡らせたが、妙案は浮かんでこない。浮かんでくる気配もない。恥をかくのを覚悟の上で大通りに出るしかないのだろうか?  恥をかくだけならばまだいいが、変質者と見なされ、警察の厄介になる事態に発展しては大事だ。  事情を包み隠さずに打ち明ければ理解してくれるだろうか? 湖で溺れそうになったと思ったら、いつの間にか市民プールにいた。着替えを持っていなかったので、止むを得ず水着姿で公道を歩いた。そんな馬鹿げた言い分が聞き入れられるはずがない。相手の警官がどれほど愚鈍でも、慈悲深くても、現実的ではない。実際に対話してみるまでもなく明白だ。  他に考えられる打開策の中で最も有効的なのは、衣類を調達することだが、私は金を一円も所持していない。そもそも、衣服を売っていると思われる店は、前回確認した時と同じく界隈にはない。仮にあったとしても、水着姿で入店する勇気を持てるかどうか。  天に運を任せて大通りに出るか。それとも、引き返したくない思いを宥めて引き返すか。  思案している間も、私は前進を続けている。最早、車の走行音がうるさいほどに交差点が近い。  所持金がなくても衣類を入手する方法はある。民家の玄関のチャイムを鳴らし、「着ていた服を失くしてしまったので、貸してほしい」と頼む、というのがそれだ。気は進まないが、庭先に干してあるものを無断で拝借するという手もある。  しかし、肝心の民家がどこにもない。左右どちらを見ても田畑と空き地ばかりだ。  左の横断歩道を渡り、橋を渡り切った先は住宅地だった。やはり、引き返すべきだ。  立ち止まり、時計回りに方向転換しようとした時、視界の端に建物の存在を認めた。  首を反時計回りに九十度回し、視界の真正面に映す。二階建てで、公衆トイレを大きくしたような外観。看板などは出ていないが、交番だ、と一目で分かった。  警察のことを念頭に浮かべると、呆気なく交番を発見した――あまりにもご都合主義が過ぎる。私を罠にかけるために、あるいは掌で躍らせる時間を長引かせるために、大いなる存在が超常的な力を行使し、本来存在しなかった場所に交番を出現させたのではないか。そう勘繰ってしまう。  ただ私は、引き返すという選択肢を選ぶことに気乗りがしていない。さらには、水着問題の解決策を全く見出せずにいる。眼前の建物を見つめる時間が募るにつれて、警察に頼るのも悪い選択ではない、と考えが変わり始めた。  市民に不審者と見なされ、通報された結果厄介になるのでは心証が悪いが、被害者として自ら窮状を訴えたのであれば、話は違ってくるはずだ。格好が恰好だし、交番に辿り着くまでの経緯が経緯だから、容易には信じてもらえないかもしれないが、困っている人間を助けるのが彼らの本分だ。少なくとも話は聞いてくれるだろうし、話さえ聞いてくれたならば道は拓ける。交番という施設の役割上、入口のドアを潜りさえすれば誰かがいるはずだ。  常識が通用しないこの世界では、足を踏み入れた瞬間、問答無用で手錠をかけられる可能性だってある。それでも、入ってみようと思った。  全てはベアトリーチェに到達するため。その目的を果たすための、苦渋の寄り道。それが真相のはずなのに、寂しさを解消したいがために交番に入ろうとしている気がしてならないのは、なぜなのだろう。  私はノーマルな感性と価値観を持つ、平々凡々たる成人男性だ。駐車場を歩いていた時も、川沿いを歩いていた時も、その感情自体は覚えていた。しかし、所詮はベアトリーチェに到達したい思いよりも下。最大瞬間風速で上回ることは一時的に、せいぜい数秒程度の短時間だけならばあったが、基本的にはそうだった。  しかし、その定義は揺らぎつつある。  寂しい。寂しさを解消したい。だから、誰かに会いたい。それこそが私の唯一にして最大の目的で、ベアトリーチェは「誰か」の中の一人に過ぎないのでは?  そんなはずはない。一人で歩き続ける孤独感と、寄り道を余儀なくされた落胆とが相俟って、ネガティブになっているだけだ。  何度か自らに言い聞かせると、何という単純な頭だろう、すぐにそれが真実だとしか思えなくなった。同時に、行動に移るだけの気力を回復した。  交番に向き直り、敷地に足を踏み入れる。速度を落とすことなく、脇目も振らずに建物へと歩を進め、何事もなく玄関に達した。  硝子越しに中の様子を確認しようとすると、距離にはまだゆとりがあるはずなのに、自動ドアが開いた。刹那、鮮烈な虹色の光が双眸を襲った。
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