幻影の終焉

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 枕元の時計を見ると、午前九時半ちょうどだった。朝に弱い僕にしては比較的早い目覚めだ。  ベッドから出て、特に理由もなく窓に歩み寄り、特に理由もなくカーテンを開く。アパート前の細道を、豹柄のジャケットを着た力士が歩いている。 「あんこ型、か」  呟いてみたものの、あんこ型が具体的にどのような体型を指すのかを僕は知らない。ただ単に「あんこ型」という言葉を口にしてみたかっただけのような気がする。  そもそもの話、現在視界に映る男性が力士だという確証はない。髷を結っている。戦艦のように体が大きい。肥満している。以上の三点から、恐らくは力士だろうと判断しただけであって。  力士と疑わしき人物を実際に目撃したことならば、これまでに二度ある。一度目は小学五年生の下校時で、赤信号を無視して横断歩道を渡る後ろ姿を見た。二度目は中学一年生の時で、男友達数人とゲームセンターへ遊びに行った際に、モデル風の美女とエアホッケーをプレイしている、カジュアルな服装の力士を目の当たりにした。  僕は二度とも、帰宅後に父親と些細なことで口論になり、殴られ、軽傷を負うという、苦い経験をしている。  さて、今回は何が起きるんだ?  大兵肥満の男が視野からフレームアウトするのを待たずに窓から離れ、戸棚の戸を開く。中に入っているのは、ホイップクリーム入りのメロンパンが一個、塩味のカップ焼きそばが一個。  パンの袋を開け、ホイップクリームに口をつけるのを極力後回しにするようにかじりながら、どうせ今日明日中に食料を補充しておかなければならないのだから、朝のうちに買い物を済ませておこう、と方針を立てる。戸棚の内部以上に侘しい、自らの財布の中身について考えるのは意識的に避けた。  水道水で喉を潤して食事を終え、再び窓外を窺ったが、力士の姿はなかった。  くたびれた黒色の財布をジーンズに突っ込み、部屋を出る。十時十五分前。速くも遅くもない足取りで向かえば、開店とほぼ同時に『エンブリオ』に到着するだろう。  菓子売り場を覗いてみたが、昨日の少女はいなかった。  チョコレートクリーム入りのメロンパンを一個と、ソース味のカップ焼きそばを一個、ショッピングバスケットに放り込んでレジに並ぶ。  拍動のテンポが上昇したのは、自分の番まであと一人となった時のことだ。  最も右に位置するサッカー台に、昨日の少女がいる。商品をレジ袋に詰め込んでいる。純白のタンクトップに穴だらけのブルージーンズと、昨日と全く同じ服装だ。  僕の会計が終わるよりも先に、少女は商品を詰め終えた。レジ袋を右手に提げ、悠長な足取りで店を出て行く。気が急くあまり、店員が差し出した釣り銭を受け取ってしまった。 「……くそっ」  押しつけ返そうかとも思ったが、面倒くさい。自らの手で募金箱へ入れるのも同上だ。二度と来ないかもしれないチャンスを逃すくらいならば、喜んで例外を作ろう。鉄くさい薄っぺらな塊を手中に閉じ込めたまま袋詰めを済ませ、店を飛び出した。  少女は駐輪場を横切って道路に出ようとしている。 「おい、犯罪者!」  声に反応して立ち止まる。振り向いた顔には、菓子売り場で見たときと同様、無表情が貼りついている。  キャッチボールをするのにちょうどよさそうな距離を置いて足を止め、僕は微笑する。動悸が治まっているのが不思議だと、頭の片隅で思いながら。 「縫い針入りソックリマンチョコ、美味しかったよ。ありがとう」  返事はない。少女へと歩み寄る。少女は彫像のごとく不動だ。手を伸ばせば触れられる距離で立ち止まる。  少女の体からは一切の匂いが漂ってこない。昨夜の入浴の際に使用したシャンプーの残り香も、シャンプーを使用しなかったことに起因する悪臭も。 「何円するものなのかは忘れたけど、多分足りると思う。ほら」  手の甲を下にして左手を突き出し、開花させるように五指を開く。掌に載っているのは、数枚の硬貨。  少女は掌上を五秒間ほど凝視し、上目遣いに僕の顔を見た。 「どういうつもり?」  蚊の鳴くような声、抑揚のない喋り方だったが、発音は明瞭だ。 「店の商品に針を刺したことを黙っていてもらうために、わたしがあなたにお金を払うなら分かるけど、なぜあなたがわたしにお金を払うの? 何を企んでいるかが全く理解できないから、説明してもらえるとありがたいのだけど」 「何も企んでいないよ。僕、硬貨の釣りは受け取らない主義なんだけど、慌てていたせいでつい受け取っちゃったから、チョコの件に託けて君に押しつけてやれと思って」 「どうしてお釣りを受け取らないの?」 「さあね。多分、君がチョコの袋に針を刺すのと同じ理由からじゃないかな」  沈黙が降りた。一方は微笑んで、一方は無表情で、相対する人物の顔を見つめる。  少女の眼差しが再び僕の掌に注がれた。おもむろに右手を伸ばし、硬貨を一枚残らずすくい取る。自らのジーンズの尻ポケットに押し込み、表情のない瞳で僕を見つめ返す。 「通報、しないの?」 「しないよ。しても金にならないしね。その代わり、と言うわけではないんだけど」  タンクトップの膨らみを指差す。追いかけるように、少女の視線が自らの胸へと落ちる。 「その服装、どうにかならないかな。年頃の女の子がタンクトップ一枚で外出というのは、ちょっと」  視線の方向を僕の顔に戻す。チョコレート色の瞳は、なぜそんなことを言ったのか、と問うているかのようだ。  さて、どうしたものか。  無反応のまましばし突っ立ってみたが、僕と同様、少女も行動を起こそうとしない。僕が返事をするまで態度を変えないつもりらしい。  僕は鼻の頭を二度三度掻き、言わなくても済むなら言うつもりのなかった台詞を口にした。 「だって、見えちゃいけない部分が透けているでしょ。そんな恰好をしていると、いやらしい目で見る男もいるよ。例えば、僕とか」  少女は眉根と眉根の間を僅かに狭め、唇を歪めた。 「どうでもいいでしょう、人がどんな恰好しようが。干渉しないでよ、赤の他人のくせに」 「いや……。ちょっと気になったから言ってみただけだから。直せとか、別にそういうことでは――」  言い終わらないうちにこちらに背を向ける。その場から去り始めたので、すかさず呼び止めた。ワンテンポ遅れて両足が停止する。 「君の名前は?」  少女はゆっくりと振り向く。 「この店にはよく来るし、君とはまた会うと思う。その時になんて呼べばいいのか、教えてよ」 「あなたの名前は?」 「……ああ、ごめん。名乗ってから訊くべきだったね」  苦笑を浮かべ、すぐさま消し去る。 「湯川健次。湯船の湯に、河川の川に、健康の健に、二の次の次と書いて湯川健次。――君の名前は?」  返事はない。無視しているのではなく、思案しているらしい。自らの名を告げればいいだけなのに、なぜ躊躇うのか。不可解だったが、黙って返答を待った。待たされた時間はそう長くはなかった。 「ベアトリーチェ」 「えっ?」 「単なる呼び名なんだから、本名ではなくても構わないでしょう。ベアトリーチェ。次からはそう呼んで」  少女――ベアトリーチェは顔を正面に戻し、歩き出した。  呼び止めないし、追いかけない。遠ざかる背中を見送った。  購入済みの商品が入ったレジ袋を手に再入店し、食材を新たに調達する。四個入りパックの生卵、カット済みの焼き豚、インスタントの白いご飯。昼食にチャーハンを作ろうと思い立ったのだ。  金欠ではあるが、まだガスは止められていないし、調理道具も最低限揃っている。普段の食事を外食とインスタント食品と菓子パンに依存しているが、ごく簡単な料理ならば作れるので、時折は台所に立った。具体的に言えば、天気のいい日、早起きをした日、上機嫌な日などに。  何とまあ、分かりやすい男だろう。  帰り道は、市内を流れる唯一の川に架かる石橋を通ることにした。理由は特にない。何となく、そうしたい気分だったから。その一言に尽きる。  橋の南側の歩道の路面に、一辺が一メートルほどの正方形の青いビニールが貼られた箇所がある。ビニールの四隅には鉄製の鋲が刺さり、路面に固定されている。ブルーシートを真四角に切り取ったものと推察されるが、辺があまりにも直線的なので、あるいは最初からその大きさだったのかもしれない。  僕はこれまでに、何度となくこの石橋を渡ったが、ビニールを踏んだことは一度もない。踏むと何かが起きる、というわけではないのだろうが、踏んでも構わないのか否かが不明だし、踏まなければならない理由もないからだ。  ビニールの下の路面は幾らか窪んでいるので、まとまった雨が降ると、降り止んだ後には小さな水溜まりができる。それを目にするたび、僕の心はほのぼのと和む。  ここ数日は終日晴天に恵まれているので、蟻塚を横切るアフリカゾウのような無関心さでビニールの脇を通り過ぎる。  直後、前方に異物を認め、思わず足が止まった。  橋の袂に、人間よりも大きな塊が鎮座している。  引き返せ! もう一人の僕が狂ったように警鐘を打ち鳴らす。  一方で、一度渡ると決めた橋を渡らないのは、禁忌を犯す行為だという気もする。  引き返すのは、塊の正体を把握してからでも遅くない。  勇気を奮い立たせ、数歩進んだところで、塊の正体が判明した。虎だ。  なぜ、こんなところに虎が?  虎は、自らの足元に転がった塊を食らっている。  塊というより、肉塊。  肉塊ではなく、人間。  咀嚼音、血なまぐささ、骨が破砕される音――堰を切ったように情報が流れ込み、質の悪い、それでいて仄かに甘美な眩暈に襲われ、足元がふらついた。  食べられている人物は、俯せなので顔は見えないが、若い男性だ。短く切り揃えた墨色の頭髪をヘアスタイリング剤でセットし、ダークグレイのスーツにマンゴー色のネクタイという服装。スマートフォンを右耳に宛がい、盛んに動く唇は紫色に変色している。 「だから、何度も言っているだろう。交換可能なのだよ、万物は」  男性が喋っている間も、虎は休みなく口を動かす。あっと言う間に両脚を食い尽くし、股間に牙を突き立てた。 「難しいことではない。小学校の理科さ。氷は水になり、水は水蒸気になる。水蒸気は水になり、水は氷になる。その法則を応用すればいいだけの話だ」  性器を噛みちぎられたのを境に、男性の声は苦しげなものに変わった。腹が食い破られ、青黒い腸が溢れ出す。それもすぐに食いちぎられ、噛み砕かれ、嚥下される。 「観念が硬直してしまっているのが諸悪の根源なのだよ。枠を取り払いたまえ。精神を解き放ち、自由に泳ぎ回らせた結果、成った形、それが自ずと意味を」  声が断ち切られた。喉笛が食い破られたのだ。虎は最後まで残った頭部を咥え、顔を天に向けたかと思うと、豪快に丸呑みにした。虎と、男性のスマートフォンと、両手にレジ袋を提げた僕がその場に残された。  虎は右の前脚を使って、猫が食後にする要領で口元の掃除を始めた。  口腔に溜まった唾を慎重に飲み下す。  音を立てないようにレジ袋を握り直し、抜き足差し足で歩き出す。虎が顔を洗うのに気を取られている隙に、目の前を通り過ぎようと考えたのだ。引き返すという選択肢も浮かんだが、即刻候補から外した。なぜかは分からない。恐らく、石橋を渡るルートを通って帰ることにしたのと同じ理由なのだろう。  眼前に差しかかった瞬間、虎は前脚を下ろして僕を直視した。視線が重なった。澄んだエメラルドの瞳に凝視された瞬間、両の靴底が地面に釘づけになった。  猛獣の双眸は揺るぎなく僕を見つめる。体を一ミリも動かせない。尋常ならざる緊張感の中、聞こえるのは虎の規則的な呼吸音のみだ。牙と牙の間から洩れる生温かい呼気が顔面にかかる。唸り声にも似た音が呼吸音に混ざり始めた。  突然、虎が大きく上体を起こし、二本脚で立った。わあっ、という情けない声が口から飛び出し、その場に尻餅をつく。レジ袋が地面に叩きつけられ、無辜の命が巨大怪獣に踏み潰されたかのような音が立った。  予想に反して、虎は襲いかかってこない。 「あの男は、私と一体となることを望んでいた。だから食った」  威厳に満ちた壮年男性の声が聞こえた。声に合わせて虎の口が動いていたので、眼前の猛獣が人声を発しているのだと分かった。 「お前は私に食われることを望んでいない。従って、食わない。さっさと去るがいい」 「望んでいただって? あの男、苦しそうな声を出していたじゃないか」  己の意思とは無関係に喉が動き、言葉を発していた。両手が塞がっていなければ、反射的に口を覆っていたに違いない。 「心の深奥、最も正直な部分でそう望んでいたということだ」  虎が言葉を返す。あたかもその問いを予測していたかのように、間髪を入れずに。 「お前には理解できないだろうが、それが真実なのだ。さあ、とっとと去れ、去れ」  ぎこちなく頷き、両手で地面を押して立ち上がり、駆け出した。  十メートルほど離れたところで振り返ると、虎は二本脚で立ったまま顔を洗っていた。それを見た瞬間、恐怖心は跡形もなく消え去った。走行から歩行に切り替え、真っ直ぐに我が家に帰った。  帰宅後に確認すると、卵は一個も割れていなかった。  予定通り、昼食にはチャーハンを作った。焼き豚、ご飯の順で炒めてから、卵を直接フライパンに投入し、掻き混ぜるという方法で。溶き卵にご飯を絡めた上で炒めると、米粒が卵液にコーティングされているため、パラパラに仕上がるという知識は持っていた。しかし、卵を溶くための器を用意し、洗わなければならないのが面倒くさかったので、そのやり方を採用したのだ。  最近はずっと、手間が省ける方法で作っている。たかがチャーハンの作り方一つで大げさかもしれないが、あらゆる意味で堕落の一途を辿っているという感覚は、ずっと以前から胸の片隅にあった。  では具体的に、「最近」とはいつなのか? 「ずっと以前から」とはいつからなのか?  現在の僕にとって、その謎を解き明かすことは最優先課題に思える。一方で、頭を使うのは気乗りがしないのも事実。チャーハンが次から次へと胃の腑に送り込まれ、満腹へ向かうに従って、その問題に対する関心は薄れていく。食器を片づける頃には、そんな問題があったことさえ忘れていた。  食事が終わると、直ちに自宅を発った。  街路樹が等間隔に立ち並んだ坂道をひたすら上る。『エンブリオ』方面に至るルートの中では、無心で歩きたい気分の時に通ることが多い道だ。上り道なので、同じ距離の道を歩いた場合と比較して、覚える疲労の度合いが高い。その点が、頭の中を空にするにあたっては好都合だからだ。 『犬の糞は 飼い主が責任をもって 持ち帰りましょう』  赤字で注意書きされた看板が前方に見えた。その傍らに人が佇んでいる。  男性だ。長髪を後頭部で一つに括るという髪型で、一見若者のようだが、よく見ると顔はそれなりに老けている。四十代前半といったところか。鮮やかなオレンジ色のローブを身にまとい、一辺が自身の肩幅ほどの正方形のボードを胸の高さに持っている。  ボードには、目と目の位置が離れた、それ故に間の抜けた印象を受ける顔立ちが特徴的な、青年の顔写真が貼られている。瞳は青く、肌は白く、日本人ではないようだ。写真の青年の顔と、写真を持っている男性の顔は似ても似つかないが、それでいてどこか共通点があるようにも感じる。  五メートルほどの距離まで接近し、まじまじと観察する。男性は身じろぎ一つしない。瞬きをする際に、瞼と睫毛が動くのみだ。  視線を切り、歩き出そうとした瞬間、 「あのおじさんねぇ、交換相手を募集しているんだよ」  突然、背後から声が聞こえた。振り向くと、いつの間にか男児が佇んでいる。  小学校低学年だろうか。容貌にこれといった特徴はない。人間の頭部が収まるほどの大きさの、鼠色の紙箱を両手で持っている。顔に貼りついているのは、不穏な薄ら笑い。 「あのおじさんはねぇ、『失敗おばさん』が欲しいの。だから、写真に写っているお兄さんを交換相手に『失敗おばさん』を手に入れようとしているんだけど、誰も名乗り出ないから、ああして立っているわけ。真面目腐った顔をして、馬鹿みたいに」 「失敗おばさん」とは何者なのか? 男性はなぜ「失敗おばさん」を欲しているのか?  それらと同等か、あるいはそれ以上に、紙箱の中身が気になる。生き物が入っているらしく、絶え間なく不規則に微動しているのだ。動き方を見た限り、小さな生物が複数匹閉じ込められているらしい。紙製の箱を食い破らないということは、鋭い爪牙を持たない生物なのか。 「お兄ちゃん、もしかして箱の中身が気になるの? じゃあ、見せてあげるね」  男児の右手が紙箱の蓋を開く。  箱の中に入っていたのは、手の親指ほどの背丈の少女。耳が隠れるほどの長さの髪の毛は、ピンク色やレモン色や黄緑色などの淡い単一色に染まり、全員一糸まとわぬ姿だ。蜻蛉の翅に似た、微かに虹色に輝く翅を背中から生やしている。箱から出ようとしているらしく、小刻みに翅を動かしている。  嘲笑うように、憐れむように、箱の蓋が閉ざされた。はいおしまい、とばかりに。  男児は僕に向かって歯を剥き出してみせた。前歯は黄ばんでいるが整然と並んでいる。 「妖精だよ。去年の夏、パパと――へ旅行に行った時に、空き地で捕まえたんだ」  発音は決して不明瞭ではなかったが、旅行先の地名だけ聞き取れなかった。 「こいつらねぇ、食べると美味しいんだよ。色々試したけど、やっぱり生が一番だね。食べてみる?」 「……いや、遠慮しておく。昼食を食べたばかりだから」 「そう。それは残念」  男児は笑った。小馬鹿にしたような笑い方だったが、不思議と腹は立たない。 「お兄ちゃん、この町に住んでいる人でしょ。今度ボクと会ったら、その時はちゃんと食べてね。――次は食事前だといいね」  男児は回れ右し、僕が来た道を去っていった。  男性の眼前を通り過ぎる際に顔を凝視したが、やはり瞬き以外の動きは認められなかった。
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