幻影の終焉

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 移ろう景色の大半を占めるのは、一階建てあるいは二階建ての、コンクリートで造られた建物。飲食店が多く、その半数弱がラーメン店だ。像自体は明瞭だが、ワゴン車の移動速度が高速なため、看板の文字はまともに視認できない。それにもかかわらず、飲食店が多く、その半数弱がラーメン店だと認識できる。  首を九十度回して進行方向を向くと、アスファルトで舗装された片側二車線の道路が一直線に伸びている。果ては見通せないが、空間的な明確な終わりが遥か遠方に待ち受けているような気がする。宇宙は現在も光速を超える速度で膨張を続けているが、行く手に見える終わりは揺るぎなく固定されている。  空間の果てに到達するまで、ワゴン車は走り続けるのだろうか。突き当たっても突き進む腹積もりなのかもしれない。存在するはずのない、空間の果ての先にある空間へ行く秘策でもあるのだろうか。  手っ取り早いのは運転手に尋ねてみることだが、背中が助手席のドアに貼りついているため、運転席の全容が把握できる角度に顔を向けるのは難しい。目と目を合わせずとも質疑応答自体は可能だが、眼差しと声、両方で訴えない限り、ワゴン車の運転手は応じてくれない気がする。応じてくれたとしても、運転している張本人も行き先を把握していない可能性もあるのだと思うと、困難を乗り越えてまで運転席の様子を確認する気にはなれない。  それにしても、背中とドアが接着しているのは、どのような原理が働いた結果なのだろう。何かが衣服に引っかかっている、という感じではない。接着という言葉を使ったが、接着剤のようなもので衣服とドアが貼り合わされているのだとすれば、鉄製のドアの冷たさを背中にいささかも感じないのは不可解だ。  感じないのは、風がもたらす圧力と冷たさも同じだ。街並みが彼方に置き去りにされる速さからも、走行速度はかなり出ているはずなのだが。  忍者の幻影が忽然と生じ、ワゴン車と並走を開始した。  走る位置は、私が貼りついている側。忍者の外見はステレオタイプの忍者の衣装、というよりも、外国人が持つNinjaのイメージそのものの外見、と説明すればいいだろうか。頭から足まで影のように黒い。懐に手を差し入れれば、引き抜いた時には何らかの忍具が握られているに違いない。そう思わせる雰囲気がその忍者にはある。  忍者自体が人間離れした存在だが、一定以上の速度で走行している自動車に並走、しかもある程度の余裕を残しながら並走しているのだから、人間離れの枠からも逸脱している。標準的な人間の歩幅でしかない歩幅を補うために、両脚を高速で動かしているため、黒尽くめの男がやや前屈した姿勢で、微動だにせずに直進しているようにも見える。  そう、男。  忍者は着用しているコスチュームの仕様により、目と鼻が辛うじて露出しているだけで、しかも横顔なので分かりにくいが、男性だと識別できる。服装はボディラインが僅かながら浮き出ている程度の厚みだが、明らかに男性の体つきだ。即ち、ベアトリーチェではない。  全ての幻想は彼女に通じている。それが本来あるべき形だと願っている私にとっては、由々しき事態と言う他ない。河馬といい、忍者といい、こんなにも短いスパンで。  私自身は、子供の頃に家族と自家用車で行楽地に出かけ、高速道路を走行している最中に、超人的な人物が窓外を走行する妄想をしたことが幾度もある。しかしベアトリーチェに、そのような幼稚な空想を弄んだ経験があるとは思えない。  ワゴン車の側面に背中で張りついている現在の私の姿、それこそがまさに忍者のようだ、と不意に気がつく。  私を貼りつけた鉄塊は、空間の果てを目指して走行している。  空間を超越するのではなく、超越できないことを知らしめるために、果てへと向かっているのかもしれない。だからこそ、私は無様なポーズを強要されている。  では、忍者が並走する意味は? ワゴン車のボディが黄色であることの意味は?  ふと我に返った時には、忍者は消失している。  二度目の浮遊感が全身を包んだ。流れていた景色が停止し、重力を感じた。靴底に硬い感触を覚え、膝が左右同時に折れ、尻に硬い感触。着地したのだと認識した瞬間、背中に空虚感を覚え、ワゴン車は最早私に接していないと悟る。  振り返ると、案の定、鮮烈な黄色を湛えた自動車は背後に存在していない。左右を確認したが、結果は同じだ。  高速で走行する自動車から振り落とされたにもかかわらず、痛みを全く覚えなかったことを訝る気持ち。ワゴン車が忽然と消失したことを不可解に思う気持ち。どちらもあったが、それ以上に、果てまで行かずに済んだ安堵の念を強く覚えた。私を振り落として消えるというワゴン車の行動は、「お前に果てに行く資格はない」と言っているようで、ある意味では屈辱的だ。しかし、本来であれば屈辱を感じる場面なのだろう、と他人事のように考えただけで、実際にネガティブな感情を覚えることはなかった。  尻に覚える硬さは確固としていたが、信号待ちの時に踏み締めていた路面ほどの硬さは感じられない。大いなる存在の双眼鏡を拝借して地下を窺ったとしても、河馬の水槽を発見することは叶わないだろう。  河馬に逃げ場はない。私は自由を得た。空間の果ては厳然として存在し続けているが、そこ行きのワゴン車は忍者と共に消えてしまった。彼が懐中から取り出した忍具で消し去ったのだろうか?  惜しいことをした、という思いが胸に萌芽した。何が惜しいのかは分からない。感覚としては、驟雨が降りしきる中、道端のダンボール箱の中で子猫が鳴いているのを見て、「かわいそうに」と思うのと近い。  実際に見かけた経験は皆無にもかかわらず、なぜ捨て猫を引き合いに出したのだろう。太った黒猫の影響かとも考えた。しかし、片や肥満した、ベアトリーチェに飼育されている時点で、幸福なのは疑いの余地がない黒猫。片や雨に打たれながら窮状を訴える、不幸な捨て猫。両者の間にはアフロディテと蠅の糞ほどの懸隔がある。ドラマや映画や漫画など、フィクションの世界である種の定型となっているシーンだから。そう解釈するのが自然なのかもしれないが、どうにもしっくりこない。  どちらの説も誤りだというのならば、幼少時に家で猫を飼っていた影響だとしか考えられない。我が家に猫がいなかった最古の時代は、記憶が正しいならば私が中学一年生の時だから、子供時代と訂正するべきか。モラトリアム期が水飴のように引き延ばされる現代において、男が少年に属する期間はあまりにも長すぎる。  拾ってきたのか。購入したのか。野良猫が居ついたのか。飼っていた猫が生んだのか。家族の一員となった経緯は記憶していないが、私が十二歳と数か月の時点でいなくなったということは、私が生まれる前から両親が飼育していた可能性も考えられる。名前も性別も年齢も覚えていないが、虎猫だったのは間違いない。  追憶しているうちに、虎猫は犬のように鎖に繋がれて飼われていたような気がしてきた。  そのような特殊な飼われ方をしていたのであれば、ある程度鮮明に記憶が残っているはずだから、真実ではないはずだ。物理的な束縛を前提に飼育するのは可哀想という意味でも、そうではなかったと思いたい。虎猫は私の家族にはさほどかわいがられてはおらず、その記憶が鎖や束縛といったイメージを喚起し、犬のように繋いで飼っていたという錯誤を引き起こしたのだろう。  では、なぜかわいがられていなかったのか。  私が生まれる前から飼われていたのだとすれば、私が生まれたことが原因かもしれない。  両親の愛情の矛先がペットから我が子に移ったのか。両親と虎猫との間に、あるいは私と虎猫との間に何らかのトラブルが起き、疎ましがられるようになったのか。いずれにせよ、物心がついていない頃の話なので、思い出すことは不可能だ。両親から虎猫にまつわる話を聞かされた記憶はない。失念してしまったのか、話を聞く機会自体なかったのか、それすらも定かではない。  十二年という歳月は、人間と比べれば短命な猫にとっては、一生涯にも等しい歳月だ。虎猫はそんなにも長い期間、人間からの愛情とは無縁の日々を過ごしていた可能性があるというのか。  物心がついていない頃の話と言えば、私が赤ん坊だった頃のエピソードならば、回数は少ないが聞かされたことがある。生まれて間もない頃の話だけではなく、生まれる直前の話も。どちらかと言えば、後者の方が印象に残っている。  陣痛が起き、いよいよ私が生まれそうということで、父親は母親を自家用車で病院に送り届けた。出産には立ち会わなかったと聞いている。私の親世代が二十代や三十代だった頃に、その文化は一般的ではなかった。当時は区分こそ現代だが、噎せ返るほどに近代の残り香が色濃い時代だった。  分娩室に最も近い、待合室だったのか、通路に備えつけられたベンチだったのか。来院者が腰を下ろすために設けられた場所で、父親はその時が到来するのを待ったが、中々生まれない。朝食を済ませていなかったので、最寄りのコンビニエンスストアまで車を走らせてアンパンを購入し、店の駐車場に停めた車の中で食べた。病院に戻ると、待ち構えていた看護婦が、つい先刻私が誕生したと告げた。  以上の趣旨の話だった。当時は女性看護師のことを看護婦と呼称していた。嘆息したくなるほどに近代の残り香が色濃い時代だった。  ありがちと言えばありがちな、取るに足らないエピソードだろう。しかし、食べたパンの種類がアンパンだったなど、部分的ながらも詳細を記憶していることからも察しがつくように、父親にとっては心に残る出来事だったようだ。出産というのは、産んだ本人にとってだけではなく、夫にとっても印象深い体験なのだろう。  そう言えば、私は母親から、私の誕生にまつわるエピソードを聞かされたことが一度もない。生まれたばかりの顔は猿に似ていて醜かった、といった、ごく簡単でありきたりな感想でさえも。  母親にとって私の出産は、心に残る出来事ではなかったのだろうか。それとも、気安く話せない事情でもあるのだろうか。後者だとすれば、父親も何も語らなかっただろうから、その可能性はないはずだ。あるいは、何か語りづらい出来事があったからこそ、他愛もないエピソードしか話さなかったのか。  だとすれば、パンを食べている間に私が生まれていたというエピソードは、一から十まで作り物である可能性も考えられる。  だからこそ私は、ありがちと言えばありがちな、取るに足らないエピソードだ、という感想を持ったのだろうか。  私が佇んでいるアスファルトの路面のありとあらゆる地点から、極めて濃度が薄い、煙のような、霧のような、湯気のような白いものが、音もなく立ち昇っている。白さがあまりにも薄いため、追視しているうちにナチュラルに大気に溶け込み、峻別できなくなる。  白いものは霊魂だ、と定義してみる。  生きたまま地中に葬られたのか、霊魂となってから抑圧されたのか。どちらが正しいかは取るに足らない問題で、白いものは霊魂だという発想に至ったこと、これこそに意味がある。なぜならば、その発想は明らかに、白いものを感知する直前の私の思考と関係しているからだ。即ち、私という個の誕生と。  両親は、私の誕生にまつわる何らかの重大事項について、子である私に報告する義務を怠っているのではないか。  真実を確かめるための最も確実と思われる方法は、本人に直接問い質すことだが、この場に両親はいない。  虎猫とは違い、私はこうして現存している。この世に生を享ける以前に何があったにせよ、この世に生を享けたこと、それは厳然として揺るぎない。その事実の確かさを噛み締め、ひとまず満足するべきなのだろう。  とはいえ、自らの出生は興味を惹かれる事柄なのも確か。  両親いわく、台風が多い季節の早朝に私は生まれた。もっとも、私が生まれた日に、私が生まれた町を台風が通過したわけではない。通過している最中の誕生だったならば、「台風で雨風が激しい中、コンビニエンスストアまで車を走らせてアンパンを購入し、店の駐車場に停めた車の中で食べた」と話していたはずだ。  両親がそう話してくれた影響から、自分は台風の季節に生まれたのだ、という意識を私は強く持っている。  私がこの世界に誕生した日のことを想像するたびに浮かぶのは、強風が吹き荒ぶ中、仄暗い車中で、どことなく寂しげな表情で黙々とアンパンを頬張る、現在よりも若いが、実年齢の割には若々しさが感じられない、どこを切り取っても侘しい父親の姿だ。かさかさ、と時折鳴る音を奏でているのは、パンの袋か、風に飛ばされて地を転がる落ち葉か。想像の中の落ち葉は、決まって鮮やかに黄葉していた。父親の浮かない顔との比較で、相対的に鮮やかに見えたのだろう。  昔から何度も思い描いてきた、強風に舞う黄色い落ち葉のイメージが、高層ビルの屋上に黄葉した葉を積もらせたのかもしれない。では、落下する棒人間は? 台風が多い季節の早朝に産み落とされた十八年前の私かもしれないし、黄色いワゴン車から落ちた数秒前の私かもしれない。  前方を見据える。建物がある。小さな店がひしめき合っている印象が強い街並みの中、その建物は横幅を大きく取っている。屋号が記された看板などは出ていない。出入口の横幅は建物のそれとほぼ同じだ。  全開にされた扉越しに中の様子を窺う。建物に入ってすぐの場所に、天井に届きそうな高さの木製の棚が置かれ、物品が大量に陳列されている。形状から、鍋の類だと推察されるのだが、像が曖昧模糊としていて判然としない。他の景色は明瞭にもかかわらず、鍋と思われる物体のみが。  腰を上げ、尻の汚れを軽く払う。立ち昇る霊魂はいつの間にか途絶え、アスファルトの大地が広がっているばかりだ。必然に、私の関心は鍋に集約される。  像がぼやけて見えるのは物体が遠い場所にあるからで、ある程度の距離まで近づけば正体は自ずと明らかになる。そう高を括っていたが、歩み寄っても、歩み寄っても、一向に明瞭にならない。建物の出入口に達しても状況は同じだ。  目で確かめられないならば、手で確かめればいい。  一歩距離を詰めた途端、景色が一変した。深刻ではないが不愉快な蒸し暑さを感じる。  周囲を見回して、天井を青色の布で覆われた空間にいるのだと判明した。  天井までの高さは三メートル弱。私を左右から挟撃する形で、二メートルほどの間隔を開けて二列の金属製のラックが置かれていて、最上部は天井に接している。ラックは高さを四段に区切られていて、褪せた緑色や黄色のプラスチック製の箱が隙間なく収納されている。私が身を置いている空間は、金属ラックと共に奥に向かって延々と続いている。視界が及ぶ範囲内に照明は見当たらないが、ラックや箱の形と色や質感が辛うじて識別できる程度には明るい。太陽光が布を透過しているのだろうか。縦方向からも横方向からも風は感じない。ラックの外側には壁が設けられているものと推察されるが、それ以上のことは分からない。  後方を振り向くと、約一・五メートル先が突き当りになっている。天井を覆っているのと同じ素材だ。  突き当りの一点、ちょうど私の顔の高さにファスナーの引き手がついていて、床まで真っ直ぐに下ろせるようになっている。それを発見した瞬間、関心がそちらへと移行した。下ろすと布に裂け目が生じ、そこから外に出られるものと推察される。  出るべきか。止めておくべきか。  建物の中は温度と湿度が不愉快だし、見るべきものは特になさそうだ。現時点では出る方に心が傾いている。  問題なのは、外の状況が不明だということ。  道路から建物の中に足を踏み入れたところ現在地にいたのだから、外に出れば建物の前の道路に出る。常識的に考えればそのはずだが、何かが引っかかる。  ファスナーを開けた先は、道路ではないどこかかもしれない。そう考えると、外に出ることには抵抗感を覚える。自らの命がおびやかされるのではないか、という懸念に起因する抵抗感だ。  建物の前の道路ではなかったとしても安全ではないとは限らないし、出た先が建物の前の道路だったとしても危険な目に遭う可能性はある。そう理解してはいたが、自らが進む先の様子を我が目で確認できない以上、躊躇いを完全に払拭するのは難しい。建物の中に一歩足を踏み入れられたのは、おぼろげではあったが、棚が置かれ、鍋が陳列されているという、視覚的な情報が得られたからこそだ。  青色の生地が中途半端に分厚く、外の景色を見透かせないのがもどかしかった。体は内側に置いたままファスナーを下ろし、隙間から首を突き出して外の様子を確認する、という手もあるにはあるが、気乗りはしない。ファスナーを開けた瞬間、肌に触れただけで人間を即死させるほど強力な毒性を持った気体が、建物の内側に這入り込んでこないとも限らないではないか。  馬鹿げた懸念かもしれない。しかし、その可能性を一度疑ってしまった以上、絶対に起こり得ないという前提のもとに行動するのは困難を極める。黄色いワゴン車に撥ね飛ばされそうになった時も思ったように、私は死にたくない。ファスナーに背を向け、建物の奥に向かって歩き出す。  長く歩かなければならない予感があった。それでも、いつかは出口に辿り着ける。そう信じたい。  歩き出してすぐ、微かな声が耳に届いた。  半自動的に歩が緩んだ。訝りながらも歩き続けている間に、同じ声は二回聞こえた。一回につき、長さは二秒。一回目と二回目、二回目と三回目のインターバルは四秒程度。  歩調はそのままに耳を欹てる。声の持続時間が二秒というのは一貫しているが、インターバルの長さは不規則で、最短だと一秒以下、最長だと十秒近くにも及ぶ。インターバルが一秒以下の声が連続するのは、最高でも三回までに限られた。  傾聴した結果、声の主は子猫らしいと判明した。  私と同じように、知らず知らずのうちに建物の中に迷い込んでしまったのだろうか。子供だから、体力もさほど高くないだろうに、この蒸し暑さに耐えられるのだろうか。  心配にならないと言えば嘘になるが、子猫を探し出そうとは思わない。気温と湿度が不愉快で耐えがたいのは私も同じだし、現在いる建物から脱し、ベアトリーチェに到達するという目的がある。可哀相だが、己とは無関係の動物にかかずらっているゆとりはない。  ただ、歩きながらでも思案は可能だ。歩行の邪魔にはならないという判断のもと、聞こえてくる声に対する考察を実行する。  声の主が子猫だと判断した根拠は、幼い猫が発するような高音だったからだ。しかし、声量が小さいせいで聞き違えただけで、実際は成猫かもしれない。大人の猫であれば、過酷な環境にも長時間耐えるだけの体力を有している。嗅覚や聴覚といった、人間よりも遥かに優れた性能を誇る器官を駆使し、出口を見つけ出すことだって可能なはずだ。  ただ、そもそも声は本当に猫のものなのか、という疑問はある。実際は、全く別の動物が発している音声なのではないか。例えば、人間の赤ん坊や幼児の泣き声だとか。  人間の赤ん坊や幼児であれば、蒸し暑い環境は大人の人間や猫以上に苦痛だろうし、自力で建物から脱出することはまず不可能だろう。  心に灰色の雲が押し寄せた。余計なことを考えてしまったことを悔やむ気持ちが芽生えたが、追いかけるように、精神状態を立て直すことに繋がる考えが浮かんだ。  声の主は建物の中でではなく、外で声を発しているのでは? 声の主が誰で、要求が何にせよ、彼がいるのは建物の外なのであれば、救いの手を差し伸べる存在が彼の前に現れる可能性がある。  声の主のことは放っておこう。命の危機に瀕しているかは不明な他者を案じる余裕があるならば、己が建物から脱する方法を考えるべきだ。  二列のラックによって構成された通路は延々と続く。収納されている箱の色は、一定の法則に則って反復されているらしい。時折、箱の口からひじきに酷似した、黒く、細く、短く、縮れた物体が顔を覗かせている。  実際に見えているのではなく、そう思いたいだけなのだと、頭では理解している。単調極まる道に辟易するあまり、ひじきなどという馬鹿げた幻影を生み出したのだと。  現在までのところ、建物の内部の明暗に変化はない。子猫と思しきか細い鳴き声は聞こえ続けている。初めて聞いた時から音量に全く変化がない。声の発生源があまりにも遠いせいで、音源との距離は着実に縮まっているものの、聞いた限りでは音量に変化が生じていないように感じられるのか。長時間発声し続けることによって体力を消耗するため、時間が経つにつれて音量が低下していき、距離は着実に縮まっているものの、声の大きさに変化がないように感じられるのか。  声のことは考えないと心に誓ったはずなのに、違反している。  自己嫌悪を覚えたのが引き金となり、絶望に通じる弱気が頭をもたげた。  私は建物から出られるのだろうか?  出られないのだとしても、この建物の中にベアトリーチェがいる、という可能性はないだろうか?  そう考えてみたものの、青色の布に頭上を覆われた、微かだが気がかりな声がひっきりなしに聞こえる、蒸し暑い空間の中、金属ラックにもたれて待ち構えている彼女の姿を、私は思い描くことができなかった。美しく、華やかで、淑やかな彼女には相応しくない場所だからかもしれない。あるいは、単に疲れているからか。私の両脚は、疲労困憊というほどではないが、総歩行距離の割には疲弊していた。  私の意識は、ラックに収納された緑色や黄色の箱へと流れる。  途切れることなく設置され、天井まで高さがあるラックに、無様な間隙を晒すことなく収まっているのだから、総数は相当な数に上るはずだ。私が通り過ぎた箱は自動的に、進行方向にある、私の視野に入らない場所にあるいずこかの棚へと瞬時に移動している、ということではないならば。  子供時代にゲームが一番の趣味だった影響なのだろう。私としては、建物から脱出するための鍵が箱のいずれかに隠されている、というゲーム的な発想をどうしても抱いてしまう。  ただ、実際に箱に手をつける気にはなれない。数が膨大だからというのもあるが、それ以外にも理由がある気がする。建物の中にいると自覚した当初、ファスナーを開けて外に出るか否かに迷っていた際に危惧した、見えない世界と現在いる世界が繋がった瞬間、命が脅かされる恐怖。それとは別の何かに起因する気乗りのしなさだ。  例えば、箱の中にベアトリーチェの死体が押し込められている。  細いながらも頑丈な、宇宙空間の端から端まで長さがある透明な糸が、心臓の中心に突き刺さり、突き進み、突き抜けていったような刹那の感覚。  恐怖も、混乱も、怒りもない。ただただ感心している。ベアトリーチェの死体が入っているから、箱の中身を確認したくない。なるほど、辻褄が合う。  ベアトリーチェは芸術品のようなブロンドヘアの持ち主だが、死ねば艶を失い、変色し、乱れることは避けられまい。その先端数ミリが箱から覗き、ひじき。なるほど、そうだったのか。  比喩がつまらないのは致し方ない。死んでいるのは見目麗しいベアトリーチェだが、観測者はつまらない私なのだから。  顔は、眠るように静かに目を瞑っている、とはいかないのだろう。白磁の肌は、死斑が浮き始めた頃合いかもしれない。豊かではないが整った形の乳房は、萎れてしまっているだろうか。四肢は、弛緩と硬直、どちらの状態に置かれているのだろう。傷が刻まれているのだとすれば、タトゥーの失敗作に見えるに違いない。  こうも冷静に彼女の死について想像できるのは、腹の底では、彼女にその現象は無縁だと認識しているからこそ、だろう。  問題は、私が死んでしまわないか否かだ。  決して大げさな警告ではない。私が生物である以上、食物を摂取しなければ当然、死に至る。食物の気配がないこの空間から脱出できなければ、どうなる? 無論、死だ。世にも哀れな野垂れ死にだ。現時点では遭遇していないが、私を死に至らしめ得る罠が仕掛けられていないとも限らない。  現時点では死は遥か遠くにあるが、困難な道のりを歩む辛苦は現在進行形だ。この蒸し暑さの中、いつ終わるとも知れない道を歩み続けるのは、精神的に辛い。か弱いが、絶え間なく訴えかけてくる子猫の鳴き声が、負の思念や感情を増幅させるようでもある。心なしか、頭蓋骨が重たい。  あとどれくらい歩かなければならないんだ?  問いかけても返答してくれる者はいないと知りながらも、嘆いても苦痛から解放されるわけではないと理解しながらも、問いかけずにはいられない。  あと十歩歩けば、出口に辿り着く。  そう念じ、十歩歩いてみたものの、視線の先に光は見えない。出口があると信じることこそが、出口に辿り着く方法なのかもしれない。そう考え、実行してみたのだが、そう都合よくはいかないらしい。  いっそのこと、その場に凝然と座っていた方がいいのではないか。もしかすると、出口の方から私のもとにやって来てくれるかもしれない。  考えた瞬間は我ながら馬鹿馬鹿しいと思ったが、見つめ直してみれば、中々見どころがある発想だという気がする。心身の疲労の度合いを考慮すれば、束の間体を休めるのは決して悪手ではないはずだ。  足を止めると、自ずと溜息がこぼれた。感情や心境を表現するのではなく、肺腑に沈殿した重々しい気体を排出するための吐息だ。  慎重さを多少意識した挙動でその場に腰を下ろす。臀部に覚えたのは、柔らかな温もりを底に湛えた冷ややかさ、とでも形容するべき感触。  視線を落とし、床がフローリング張りだと認識した瞬間、建物に入って以来、足下に全く気を配っていなかったことに気がつく。  建物の内部は、物体のあらましが把握できる程度に明るく、下方への警戒を怠りやすい環境なのは確かだろう。そうは言っても、新規な場所に足を踏み入れれば、足下を含む周囲の状況をまず目で確認するのが定石のはずだ。  この場所に来るまでも同じだった。薄板を踏むような音には注意を奪われたが、足下には視線を落とさなかった。  当時から現在に至るまでに相当な時間が流れたような実感があるが、その間、一貫してその方針は守られてきた。記憶する限りの唯一の例外は、ワゴン車から振り落とされた後、白い霊魂の出所を目で確かめた時だが、白煙もどきが発生していなかったならば、地面に目を落とすこともなかっただろう。  一方で、建物に入る前も入ってからも、足下以外の方向には過度に気を配ってきた。  足下だけ注意散漫。この事実には、何か重要な意味が隠されている気がしてならない。例えば、出口の行方にまつわる謎は足下を探せば発見できる、だとか。  出口という単語が引き金となり、私が座っている真下の床に突如として、私を飲み込むに足る面積の正円形の穴が生じ、為す術もなく、底無しの暗黒へと墜落するイメージに襲われた。  背筋を悪寒が駆け上り、反射的に両手を床についた。床は存在し続けている。  穴に落ちていくイメージが浮かんだのは、歩道を歩いていた当時を思い出したことで、ビルの屋上から落下する棒人間を思い出したから、だろうか。  落ちる棒人間を見た時、棒人間は永遠に落ち続けるに違いないと考えたが、何を根拠にそう考えたのだろう。今となっては思い出せない。ビルの屋上から落下する棒人間を目撃した当時から現在に至るまで、実に様々な出来事に遭遇してきた。失念してしまったのも無理はない。  出来事の多くが容易には腑に落ちず、意味や理由を見つけるために絶えず脳髄を使役してきたせいで、肉体的な疲労よりも精神的な疲労の方が強かった。思案することから逃れたい欲求がないと言えば嘘になるが、出口を見つけ出す努力を放擲するわけにはいかない。ベアトリーチェは建物の中には存在しないし、出口の方から私に会いに来てくれる可能性は、どうやらないようだから。  ベアトリーチェの方から私のもとへ来てくれるなど、絶対に有り得ない。彼女に到達したいならば、私の方から彼女のもとへと向かわなければ。  両手で床を押すようにして立ち上がる。その拍子に、今度こそ床板が正円形に抜け落ちるかもしれない、と思いながらの動作だったが、杞憂に終わった。  建物の中は相も変わらず蒸し暑い。いつの間にか声は聞こえなくなった。力尽きたのか、音源との距離が開いたことで聞き取れなくなったのか。いずれにせよ、続いていたものが途絶えたという事実は、私の心を暗くさせた。  再び歩き出したとはいえ、気力は挫けかけている。足にと言えばいいのか、脚にと言えばいいのか、違和感にも似た重苦しさを覚え始めた。脳味噌の締まりが若干緩くなっているようで、頭蓋骨は重いままなのか、元に戻ったのかさえも曖昧だ。  次に足を止めると危ない、という予感がひしひしとする。  私の脚は機械だ、と私は念じた。愛する女性に会いたいという、人間的な想いを抱く余地さえ健在ならば、体が無機物になろうと構いはしない。そう開き直った。  念じたことで、実際に両脚を機械化することに成功したか否かは、私には判断し得ない。ただ、歩行の際に感じていた一切の違和を全く感じなくなった。  薄らいだのは精神的な疲労感も同じだ。脳味噌が再度引き締まり、苦役に従事しているのではなく、歩行しているのだと実感できた。いくらか鈍っていた足取りが、建物の中を歩き始めた当初の様態を回復した。  不意に風を感じた。進行方向からだ。  出口、だろうか。  出口に辿り着きたい思いが出口を出現させたのだろうか? そんなはずはない。その欲求ならば、建物の中を歩き始めた当初から抱いていた。  あるいは、欲求が一定以上の強さに達することが、出口を出現させる条件だったのか。思いの強さが願いを叶えるというロジックは、フィクションの物語において数多く見られるが、私が身を置く世界は紛れもなく現実だ。そもそも、風の出所が建物の出口である保証はどこにもない。  ただ、殺風景な景色の中を延々と歩き続けていただけに、些細な変化でも大いに勇気づけられた。  空間が延びる方向へ、ではなく、風が吹く方向へ向かって、という意識で私は歩く。出口ではなかったならば仕切り直せばいい。そう前向きに考えた。  感じられる風自体は、魯鈍な神経ならば看過したかもしれないほど微かなものだ。野外を歩いていてこの強さの風に遭遇したならば、万人がそよ風と形容しただろう。匂いを帯びていない、音を立てない、味がしない、弱い風。  風は次第に強まっているらしい。気のせいかもしれないと思う程度の変化量ではあったが、出口を求めて歩き続けている現在の私にとっては、確かな希望だ。思いの強さが願いを叶える――他に方法が思いつかないのだから、試みに縋ってみるとしよう。  私は出口を見つけたい。建物から出たい。  願いも虚しく、進路に出口は出現しない。  思いの強さが不充分なのだろうか。それとも、強く願うことによって願いを叶えるなど非現実的だと、心の奥底で思っているせいか。本心は、改めようとしても根本的に改められるものではない。その方法でしか出口を出現させられないのだとすれば、私は永遠にこの建物から脱出できないことになる。  それでも出たい。石にかじりついてでも出たい。ベアトリーチェに到達したい。  それならば、駄目元でも本心から願ってみるしかあるまい。何度も、何度でも。  決意した直後、遥か前方に光が見えた。  出口だ。  本心から願うよりも先に、待ち望んでいたものがひとりでに現れる不意打ちに、思わず歩みを止めてしまう。  しかし、凍結状態をすぐさま自力で解除し、歩き出す。恐怖に急き立てられたのだ。愚図ついていると、出口が、光が、蝋燭の炎が吹き消されるように掻き消えてしまう気がして、居ても立ってもいられなくなったのだ。  もっとも、歩行速度は現状を維持した。足を速めると、その変化が引き金となって出口が塞がってしまうのでは、と懸念したからだ。  もどかしく思いながらも、急く心を宥め、速度を一定に保って歩く。出口が塞がるとすれば、あたかも嘲笑うかのように塞がるに違いない。たった一つしかないかもしれない出口が、出口としての機能を不可逆的に喪失することを恐れるのではなく、自分自身が嘲笑われることを厭うあまり、歩行速度を抑制しているような気がしてくる。  光は小さすぎて、靴底が床を踏み締めるごとにとはいかないが、着実に拡大されている。反比例して、心を急かす諸々の感情が溶けるように減じていく。肩の力が抜けるのに比例して、光は偽物ではないという確信が深化していく。  気がつけば、求めているものは目と鼻の先にある。  建物の出口が地獄に通じているとは思わなかったが、直前に罠が仕掛けられている可能性は疑った。天井が落ちてくるのか、床が抜けるのか。警戒心から足取りが鈍ったが、何事もなく出口を抜けた。
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