幻影の終焉

5/16

2人が本棚に入れています
本棚に追加
/16ページ
『エンブリオ』前の片側一車線の道路を挟んだ対岸に、クリーム色の外壁の五階建てのアパートが建っている。  その最上階の通路の手すりに、僕は両肘を載せ、楽な姿勢で立っている。  現在地からは、障害物に邪魔されることなく、『エンブリオ』とその周辺を見下ろすことができた。夜の帳が下りたとしても、街灯や店の窓から洩れる光が充分な明るさを提供してくれるはずだ。  張り込みをしてまで僕が会いたい相手――ベアトリーチェ。  監視態勢に入ってから半時間が経過した。実感としては、もう半時間ではなく、まだ半時間。待ちぼうけを食らう覚悟はしていたつもりだが、今となっては疑わしい。殺風景な部屋にいても気が滅入るだけだから、早々に現地へ赴いた。きっとそれが真相なのだろう。  ひたすら退屈で、ひたすら空疎だ。ベアトリーチェがいない世界がこんなにも味気ないなんて。  アパートを訪れて初めてのあくびがこぼれた。ベアトリーチェが現れるまで、いかに退屈を殺すか。焦点はそこに絞られたと言っていい。  現在地に留まったまま、有意義に時間を潰す方法は何かないものか。  思案を展開しようとして、初歩的な見落としをしていたことに気がつく。  部外者である僕がアパートの敷地内に滞在し続ければ、住人に不審がられる可能性が極めて高いのでは?  僕を視界に捉える位置まで誰も来ないことを祈るか、場所を変えるか。選択肢はその二つだが、ベアトリーチェは恐らく夕方以降に現れる。長時間待たなければならないことを考えれば、前者は現実的ではない。後者は、ここ以上に快適な場所を見つけられるのか、という点で不安がある。  どちらもデメリットがあるが、あえてどちらかを選ぶとすれば、後者だろうか。万が一、警察に事情を訊かれるなどという事態に発展すれば、張り込みそのものが続行不可能になってしまう。 「……仕方ない」  移動だ、移動。  フェンスから体を離した瞬間、後方のドアが開く音がした。  取り返しのつかない事態に陥った予感に襲われ、全身が軽い硬直状態に陥ったが、無理矢理体を回転させて振り向く。六十度ほど開いたドアと、開いたドアの隙間から上体を突き出した人物の姿が、同時に視界に映った。  女だ。  軽くウェーブがかかった黒髪を枝垂れ柳のように垂らし、毛先は腰のくびれを越えている。身にまとっているのは、ドレス風の黒衣。髪型と服装からは大人の女性という印象を受けたが、顔立ちは十代の若々しさだ。顔は青白く、幽霊じみている。  アパートの一室に住まう、着飾った幽霊――墓場に出没する白装束よりも、ある意味不気味だ。  目が合った瞬間、女性の顔に驚きの色をありありと浮かんだ。間髪を入れずに、彼女の口から上擦った声が飛び出した。 「湯川くん? あなた、中一の時に私と同じクラスだった、湯川くんじゃない?」  僕はドアの横、インターフォンの上の表札に注目した。  遠藤寺。  手書きの字でそう記されている。遠藤、ではなく、末尾に寺の一字がついて、遠藤寺。  思い出した。その苗字の女子生徒が、中学一年生の時、確かに僕と同じクラスに所属していた。  関心を持った女を張り込んでいたら、元同級生の女に出くわす。こんな奇妙な事態が現実世界で起きるものだろうか?  ……気持ち悪い。  僕はむしろ、過去に同級生だった人物と出会ったことで、アパートの住人に不審者扱いされる危険性を取り除ける可能性が生まれたことを喜び、感謝するべきなのかもしれない。しかし、気持ち悪いものは気持ち悪い。  出来過ぎた偶然に作為を疑うのは、疑う者の性格が捻くれているから。そう結論してしまってもいいのだろうか? 「湯川くん、覚えてる? 私、遠藤寺。遠藤寺桐。中一の一年間だけクラスメイトだったんだけど」 「うん、覚えてるよ。珍しい苗字だったから」  具体的な思い出は何一つ記憶にないけど。 「そっか。そうだよね。まだ五年しか経っていないし」  いや、僕たち今年で十八だから、人生の四分の一以上に該当するんだけど? 「ところで、湯川くんはどうしてここに? このアパートに住んでいるわけじゃないよね」  ……来た。当然来ると思っていたが、やはり来た。  さて、どう答えよう。これは中々の難問だ。誤答を選ばないようにじっくり考えたいところだが、長考すること自体、選択として間違っている可能性もある。 「実は、という言い方もおかしいけど」  ここはやはり、正直に答えるべきだろう。 「遠藤寺さんに用があるんじゃないんだ。ちょっと変な話だから、不審がられても仕方ないかな、とは思うんだけど」 「変な話」と前置きした場合、露骨に警戒感を示すのと、まあ聞いてやろうと肩の力を抜くのと、二通りのリアクションが考えられるが、遠藤寺は後者だった。 「僕は今、ある人を捜しているんだけど、その人はこのアパートの前にある店――『エンブリオ』によく来るんだ。中には休憩スペースもあるけど、何時間も居座るのは抵抗があるでしょ。このアパートには人があまり住んでいないみたいだから、張り込みをするにはちょうどいいかなと思って。でも、冷静になって考えると、部外者が我が物顔でアパートに居座るのはよくないよね。第一発見者がたまたま遠藤寺さんだからよかったものの」  たまたまという単語を口にした瞬間、正体不明の違和感を覚えたが、言うべき台詞を言い切ることを優先させる。 「他の住人に見つかっていたと考えると、寒気がするよ。……あ、いや、悪いのは僕なんだから、その言い方もおかしいけど。とにかく、アパートの敷地に侵入して居座ったことに関しては、全面的に僕に非があると認めます。ごめんなさい」  頭を下げると、遠藤寺は頭を振り、 「謝らなくてもいいよ。湯川くんが悪いだなんて、私は全然思っていないから。ところで、捜している人っていうのは、今すぐに会う必要がある人なの? 湯川くんにとって大切な人?」 「会う必要があるっていうか、会いたいと思っているのは確かだよ」 「女の人?」 「そうだけど」  それが何か? 無言の問いに対して、無言で頷く、という反応を遠藤寺は示した。  女だと、遠藤寺にとって都合がいいのだろうか? まさか。相槌の代替としての動作だとは思うが――何だろう、何か気持ち悪い。何が気持ち悪いのかは不明瞭で、それがまた気持ち悪い。  先程から遠藤寺から感じる、得体の知れない無気味さ、これは何なんだ? 青白い顔が幽霊じみているから、というのもあるのだろうが、恐らくはそればかりが原因ではなくて。 「湯川くんは、その人をここでずっと待ち続けるつもり?」 「迷惑をかけるのは本意じゃないし、他の場所に移動しようかと」 「私は迷惑じゃないよ。この場所が張り込みをするのに好都合なら、遠慮せずに使って。私と一緒にいれば、他の人に見られても『あ、友達と話をしているんだな』って思われるだけだから、安全安心だよ」  遠藤寺は微笑んでみせる。愛想笑いだと決めつけるのをあと一歩のところで躊躇ってしまうような、微妙な微笑だ。  掴みどころがない。出会ってから現在までの遠藤寺をざっくりと評するならば、その一言になるだろうか。  僕の人生が人工的な物語だとしたら、この女は、物語をどのような展開に導くために配置された登場人物なんだ? 「いつまで待つとか、決めているの?」 「太陽が沈むまでは待ってみようかと。その人がこの前『エンブリオ』を訪れたのは、夕方と夜の中間の時間帯だったから」 「そうなんだ。じゃあ、あと二時間くらいかな。話し相手が必要なら立候補するけど」 「遠藤寺さん、どこかへ出かけるんじゃないの?」 「ううん、どこにも行かない。人の気配を感じたから、様子を見るためにドアを開けただけ。今日は外出の予定はないよ」  遠藤寺は自らの体に少し視線を落とし、控えめに微笑んだ。ドレスのような煌びやかな服装が部屋着。違和感を覚えたが――なぜだろう。遠藤寺にまつわる謎について考察するのが急に面倒くさくなった。  僕にとっては違和感があるが、二十一世紀初頭の日本国の地方都市の一般的な基準からすれば、十八歳の女性がドレスのような服を着て自宅で過ごすのは、普通のことなのだ。実際はそうではないかもしれないが、そういうことにしておこう。遠藤寺桐は、元同級生の不審な行動を許容してくれて、しかも時間潰しの話し相手にまでなってくれる、寛大で心優しい人。それでいいや、もう。五年ぶりに会って、五年前は会話した記憶すらない相手の素性なんて、五分や十分で見抜けるはずがない。 「じゃあ、夜になるまで二人で話そう。張り込みっていうことは、私の部屋の中でお茶を飲みながら、というわけにもいかないんだよね?」 「そうだね。『エンブリオ』が見える場所じゃないといけないから」 「そっか。じゃあ」  遠藤寺は僕の隣に移動し、フェンスに両手を置いた。香水だろう、不快感を抱く余地のない、爽やかな芳香が僕の鼻孔まで届いた。ベアトリーチェの体からは一切の匂いが漂ってこなかった。これが一般的な妙齢の女性なのだな、と思う。 「もう五年か。早いね」  話し相手になると申し出た責任を果たそうとするかのように、遠藤寺が口火を切った。 「そうだね。長いような、短いような」  中学一年生の頃の思い出話が始まった。そうはいっても、当時僕と遠藤寺の間に交流は殆どなかったから、学校ぐるみのイベントや、個人的に体験した印象に残っている出来事についての話題ばかりだ。取り留めのなさと、上っ面を撫でている感じが、いかにも時間潰しだな、と思う。  往々にしてそうだが、そういう薄っぺらな話題の方が長命だったりする。会話はだらだらと続き、ふと我に返った時には、西の空が仄かに茜色に染まり始めている。  しかし、所詮は上っ面。語るべき事柄はやがて枯渇し、僕の専属時間潰し係は話題を現在へと切り替えた。 「湯川くんって、高校に通っているの? それとも社会人?」 「一応、社会人だけど」  社会には出ていないけど。 「あ、じゃあ同じだね。私、フリーターやってるの。中学を卒業して以来ずっと」 「そうなんだ。一人暮らし?」 「うん、働き始めた年から。中学卒業から働き始めるとなると、苦労も多いのかなって最初は思っていたけど、楽しいよ。苦しみと楽しみがどっちもあるけど、楽しみの方が上回っているって感じ。私の場合、一人暮らしを始めたけど地元に住み続けていて、友達とも頻繁に会えるから、それも大きいのかもしれない」  会話に間が生じた。居心地の悪さを感じた瞬間、遠藤寺の言葉が沈黙を木っ端微塵にした。 「ところで、湯川くんが今はまっていることって、何かある? 昔からの趣味でもいいし、プチブーム的なことでもいいし」  僕の目を見るのではなく、地上を見下ろしながらの問いかけだ。  現在の僕の境遇が、他人様に誇れるものではないことを察し、話頭を転じたのだ。  胸の奥底に幽閉していた劣等感がむずかり出し、若年無業者としての自尊心をちくちくと意地悪く刺激する。  おいおい、話が違うよ、遠藤寺。あなたは、僕が持て余している時間を有意義に消費するために、僕の話し相手になるだけの存在のはずだろう? そうではないならば、僕はあなたを――。 「湯川くん?」  心持ち眉をひそめて顔を覗き込んでくる。その動きが引き金となって、ではなく、純粋に、自然発生的に、気がつく。  ここで遠藤寺を「時間潰しのための話し相手ではない」と決めつけてしまうと、その瞬間に遠藤寺は「時間潰しのための話し相手」とは別の存在と化してしまう。 「うーん、どうだろう。これというものは特にない、かな。僕、昔から無趣味だから」  理解こそが人を冷静にさせる。遠藤寺の耳には、僕の声は至極落ち着き払ったものに聞こえているはずだ。 「少し前までは、小説漫画問わず本を読んでいたんだけどね。暇潰しが第一の目的だから、熱意とかはそんなになくて、気が向いた時に古本屋とかに足を運んで百円の本を買う、みたいな」 「私も読書は好きだよ。漫画は全然読まなくて、小説ばかりだけど。最近よく読むのは――」  遠藤寺は次から次へと、小説のタイトルや作家の名前を挙げ始めた。全く聞いたことがないタイトルがあれば名前だけは耳にしたタイトルもあり、日本人作家の名前もあれば外国の作家の名前もある。僕が過去に読んだことがある作品や作家の名前は一作も、一人も挙がらないので、僕としては相槌を打つ役割に徹するしかない。遠藤寺の小説好きはよく分かったが、話についていけないのもあって、正直、若干引いてしまった。 「あの人の作品、文体の灰汁が強いでしょ? だから、いざ読むとなると凄く疲れるんだよね」  やけに古風なペンネームのとある日本人作家に、遠藤寺はそのような評価を下した。一部の若者からカルト的な人気を集めているらしいが、僕はその作家の名前を一度も耳にしたことがない。 「好きか嫌いかって言えば前者だけど、好みが分かれるっていう評価は、まあそうだよねって思う。言い方は悪いけど、田舎者が粋がっているっていうか、そういうところがなくもないし」 「田舎者? その人の出身地ってどこなの?」 「福井県。プロフィールを信じるならね」 「福井、か。馴染みがない土地だからっていうのもあるんだろうけど、どんな観光資源があるのかとか、全く思い浮かばないなぁ」 「原発があるよ。一基だけじゃなかったはず」  真面目に言ったのか、冗談で口にしたのか、判然としない口振りで遠藤寺は答えた。  原子力発電所といえば、東北で原発事故が起きたのは、遠藤寺とクラスが同じだった年だった。県内に原発はなく、津波は押し寄せなかったので、メディアが情報と共に発信する負の熱気との落差が激しかった記憶がある。 【悲報】日本、終わる  ネットを覗くと、そういうニュアンスの書き込みや記事を無数に見かけたが、個人的には終わった感は全くなかったし、周りの人間も同じらしかった。不都合の現実から逃げているだけかと疑い、意識的に、自分なりに震災と向き合ってもみたが、結果は変わらなかった。  被害者意識が強すぎる当事者と、暇を持て余している無責任な周囲が、大げさな言葉を吐いて騒いでいるだけ。  生涯において最も多感な時期に起こった、未曽有の大災害とやらに対する人々の反応について、僕はそう結論した。  その五年前に、プールの授業をサボった僕は、男性教師から「世間に通用しない」という烙印を押された――。  そのことを遠藤寺に話してみようか? 『遠藤寺さんは当時、僕とろくに会話を交わしたことがなかったから知らないだろうけど、こんな理不尽な体験をしたんだよ』  そう前置きをした上で、思い出を語ってみようか?  しかし、遠藤寺桐は果たして、その話題を聞かせるに値する人間なのか。  僕の時間潰し係以外の役割を、彼女に与えてしまってもいいのか。  ふと我に返ると、夜の帳が下りていた。  日没を迎えたということは、少なくとも二時間、僕と遠藤寺は立ち話をしている計算になる。  二時間もの時間があったというのに、遠藤寺以外のアパートの住人と遭遇しなかった。  ろくに話したことがなかった元同級生相手に、会話が途切れることなく続いた。  立ちっぱなしだったにもかかわらず、脚が疲れていない。  不可解な点が多すぎる。遠藤寺と出会った時点で時間帯は既に夜で、五年前の思い出話や古今東西の小説について語り合った記憶は、何者かの手によって後づけされたのでは? そんな気さえしてくる。  仮にそれが真実だとすれば、誰の仕業なのか。  遠藤寺が、ということになるのだろうが、彼女はそんな大それたことを成し得る人間だとは思えない。掴みどころがないのは確かだが、どこか薄っぺらい。底が知れないという意味ではベアトリーチェの方がよっぽどそうだ。  遠藤寺は現在、僕が知らない日本人作家が書いた長編小説について語っている。王道の冒険ファンタジーのようだが、作品の筋に粗があるのか、説明のし方が下手なのか、頻繁にストーリーの辻褄が合わなくなる。  遠藤寺が語っているような小説も作家も存在せず、彼女が独自にストーリーを考え出しているのかもしれない。僕との会話を継続させる、ただそれだけのために。  疑いを抱いたのを境に、会話への関心は急速に失われた。  いくら駒とはいえ、そこまでして役割に徹しなくてもいいだろうに。待ち時間を二時間も潰してくれた功績も忘れて、冷ややかにそう思う。  これ以上、この女に付き合う意味はあるのか? 「――あっ」  僕は思わず声を漏らした。妖精伝説が残る村で起きた虐殺事件の黒幕が、遠藤寺の口から明かされようとした、まさにその瞬間のことだ。  自らの話し声よりも音量が小さかったため、声自体は聞き取れなかったようだが、唇の動きから何らかの声を発したことは分かったらしく、遠藤寺は語りを中断して僕を見つめた。  しかし、僕は彼女の視線など心底どうでもよくて。  見間違い? いや、街灯の白光に照らし出されたのだから、そんなはずはない。  ベアトリーチェだ。お馴染みの服装で、右手に商品が詰まったレジ袋を提げて、たった今、駐車場から道路へと出た。店の前の道を西へと歩いていく。  鼓動が次第に速まっていく。  レジ袋を提げて、店の敷地から出てきた。それはつまり、ベアトリーチェが『エンブリオ』に入店した瞬間を、僕は見逃していたということだ。  危うく馬鹿げた事態に陥るところだったが、助かった。遠藤寺の会話に興味がなくなった直後に姿を現したというのが、あまりにもタイミングがよすぎて少々不気味だが、ベアトリーチェを発見したという事実の前では、その感情も霞む。 「遠藤寺さん、僕はもう行くね。長い間付き合ってくれて、ありがとう」 「えっ、行くの? 捜している人、いたんだ?」 「うん。今日のお礼、必ずさせてもらうから」  階段を駆け下りる。呼び止める声が聞こえたが、無視した。明らかに、立ち止まらないし振り向きもしないと理解した上で、自己満足のために発せられた一声だったからだ。  道に出ると、街灯の光に照らされたベアトリーチェの後ろ姿が前方に見えた。  当初の計画通り、僕は尾行を開始した。  道は緩やかなカーブを描きながら前方へと続いている。左右に見えるのは、民家か田畑のどちらかのみ。通行人は、尾行する僕と尾行されるベアトリーチェを除けば皆無で、時折自動車が猛スピードで走り抜ける。  ベアトリーチェは歩行速度を一定に保って淡々と歩く。近からず遠からずの間隔を開けて、僕は彼女についていく。  民家の窓から洩れる明かりと、所々に設置された街灯により、道は明るすぎない程度に明るく、ターゲットを見失う心配はなさそうだ。急に立ち止まったり、振り返ったりといった行動を取らないのもあって、尾行する側としては楽だ。最初こそ早鐘を打っていた心臓も、ものの数分で平常に復し、夜の散歩でもしているかのような心境でターゲットを追うことができている。あまりにも心に余裕があるので、二分に一度の割合で、要約すれば油断大敵という意味の言葉を、心の中で自らに言い聞かせなければならなかったほどだ。  ベアトリーチェが急に右に曲がった。脇道に折れたのかと思ったが、違う。民家の門を潜り、敷地内に入ったのだ。  追いかけるべきか、様子を見るべきか。迷ったが、近くの電信柱の陰に身を隠す。  心中で六十を数えたが、何事も起きない。民家に歩を進める。門札には「後藤」と記されている。  突然、男の怒鳴り声が響いた。息を呑み、敷地内へと目を転じる。  ぬばたまの闇に半ば溶け込むようにして、二階建ての住宅が建っている。一階に一枚だけ光が灯った窓がある。  壊れ物が破損したらしい激しい物音。間髪を入れず、再び怒声。それを最後に、一帯は水を打ったように静まり返った。  いきなり玄関ドアが開く音が聞こえた。心臓が跳ね上がった。  見つかったらまずい。逃げなければ。  靴音を立てないように、それでいて可能な限り素早く、電信柱の陰に舞い戻る。  直後、門から人影が現れた。  ベアトリーチェだ。  洟をすする音が聞こえてきた。タンクトップの胸元が乱れているのが夜目にも分かる。暗闇の中で、彼女は右手の甲を使ってまず目元を、次いで鼻を拭った。  しばらく門前に佇んでいたが、やがて道を『エンブリオ』とは逆方向に向かって歩き出した。酷く緩慢な足取りだ。  呼び止める勇気も、後を追う勇気も湧かない。その場に立ち尽くし、遠ざかるベアトリーチェの後ろ姿を見送った。  その日の夜も、アパートの駐車場から男性の怒声と若い女性の悲鳴が聞こえてきたが、それが何だと言うのだろう?  見つかったらまずい。逃げなければ。  ベアトリーチェが自宅から出てきた時、そんな危機感に襲われたが、易々と従ったのは間違っていたのでは? 自らに不都合な事態が発生するのを恐れずに、彼女に話しかけるべきだったのでは? 自宅から現れた人物がベアトリーチェだと判明するまでにはタイムラグがあった、とはいえ。 「……ああ」  逃げたい。逃げたという自らに不都合な事実から、逃げたい。でも、逃げてしまえば、「逃げた」という、自らに不都合な事実が発生する。――逃げられない。  眠れ。夢の世界へ一泊旅行に出かけてしまえ。僕の居場所は、最早現実世界にはない。固く、固く、瞼を閉ざした。
/16ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加