幻影の終焉

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 山の中だ。  草を踏み固めてできた道が左方向に緩やかなカーブを描いている。道を除く領域には、大樹が規則性を見出せない配置でやや窮屈に林立し、その間隙を大小の雑草が埋めている。咲いている花は一輪もない。樹幹の茶色と葉の緑色が目立つ。枝葉によって陽光が遮られているため、一帯は薄暗い。土と植物の匂いが溶け込んだ弱い風が左から右へと吹いている。強さこそ同程度だが、匂いがあること、風が吹く方向、以上の二点から、建物内に吹き込んできた風ではないと推察される。  高揚も落胆もなく、道を歩き始める。  芝生のような短い雑草がクッションの代わりを果たしているため、靴音は立たない。変形しているのは無論雑草だが、靴底が踏みしめるたびに僅かに大地が沈み、衝撃を吸収しているようにも感じられる。道の左右から突き出た草の葉が剥き出しの腕を掠めるため、むず痒く、時折痒さ以上痛み未満の感覚を覚える。鬱陶しいと言えば鬱陶しいが、本来人間が通行するべきではない山中を通行しているのだから、謙虚に受け入れるべきだろう。そう鷹揚な気持ちでいられるのは、建物から抜け出せた安堵感からか。それとも、大自然が清々しい気分をもたらしてくれたお陰か。  道の周辺に人の姿は認められず、人気も感じない。この山の中にいる人間は私だけなのかもしれない。通行人で賑わう街道を歩いていた頃を顧みれば、随分と寂しい場所まで来てしまった。  歩きながら道の左右に目を配ったが、生物は殆ど目にしない。唯一の例外は、全身がパステルピンクの、小指ほどの大きさの蟷螂。木の下枝の中程やや先端寄りや、雑草の葉の縁など、中途半端な場所で凝然としているのを時折見かける。茶色と緑色ばかりの景色の中に鮮やかなピンク色だから、視界に入るとつい注目してしまう。  ピンク色の蟷螂のフォルムは、一般的な蟷螂とほぼ同じだ。その種類の昆虫の体は、周囲の景色に同化するべく、緑色や茶色をしているのが通例だが、桜花や梅花とは似て非なる、底抜けに色鮮やかなピンク。  よくよく観察すると、前肢の鎌状になった部分、より正確には鎌の刃の部分だけが赤い。一定量集約して然るべき形に整えれば、ルビーかと見紛うに違いないほどに、鮮やかで艶やかな赤色だ。刃は草刈り鎌のそれのように、極小の逆三角形が隙間なく並んでいるのではなく、櫛の歯にも似た細い突起が等間隔に付属している。獲物に引っかけて手前に引けば、肉を切り裂くのに好都合な方向に刃は飛び出している。薄皮一枚で辛うじて体裁を保っている芋虫の類であれば、容易く肉を切り分けられそうだ。  私が接近すると、蟷螂は決まって私の方を振り向く。向き直るのではなく、首のみを回して。その挙動はステレオタイプのロボットを連想させる。  考えてみれば、昆虫というのは生き物の中で最も機械的な種族かもしれない。  小学校の頃、理科の授業の一環として飼育していた紋白蝶の幼虫を、誤って捻り潰してしまったことがある。のた打ち回る姿からは必死さが伝わってきたし、真剣さが感じられたが、どこか演技がかっていた。アドリブではなく、予めプログラミングされた動作だという印象を受けた。  いつの日かテレビのバラエティ番組で見た、芸人の一人に釣り上げられた、釣り針に口を貫かれたまま暴れ回る熱帯の魚の方が、よっぽど「死にたくない」と叫んでいた。記憶が確かならば、蒲公英色と墨色のツートンカラーのその熱帯の魚は、骨が多いものの肉自体は美味だ、という解説だった。  魚であれば、皮や骨や内臓を取り除かれて切り身にすれば、完全に死んだという印象を受ける。しかし芋虫は、ちぎれた体を接着剤で一つにして、常温で一定時間放置しておけば、何食わぬ顔で活動を再開しそうだ。  熱帯の魚の獲り方を芸人一同にレクチャーしていた現地の女性は、初老と言ってもいい年齢に見えたが、ビキニを着用していた。この国では若い女性しか着ないような、若い女性以外が着れば顰蹙を買うような、面積の狭い水着を。ビキニの色は、熱帯の魚の蒲公英色よりも鮮やかなレモンイエロー。その色彩があまりにも鮮烈だったせいで、レポーター役の男性芸人が魚の味をどう表現していたのかも、魚の大きさや形も、どこの国に棲息している何という名前の魚なのかも、ことごとく失念してしまった。  カメラに向かって笑いかけていた水着姿の初老の女性の像が、テレビの電波が急に悪くなったように不意に乱れたかと思うと、ベアトリーチェに変身を遂げている。腰までの長さの金髪、碧眼、白磁の肌という、標準的な彼女の姿。しかしその体は、私が通っていた幼稚園の制服に包まれていて、膨れ面をしている。視線の方向は、私だ。 「生き物を妄りに殺しては駄目でしょう」  人工音声めいたベアトリーチェの声が私に苦言を呈した。左手の指先に目を落とすと、芋虫が体の中程を握り潰されて息絶えている。  やけにつるつるした手だな、指だな、爪だな、と思った時には、私は小学一年生になっている。  ベアトリーチェの顔を再度見返すと、一見彼女の顔だが、どこか歪だ。歪さの正体を見極めるべく凝視し、数秒を経て気がつく。私が過去に出会った人間、主に女性の顔から一部を拝借し、寄せ集めて形成された顔だと。  瞳は、子供の頃に近所に住んでいた女子大学生のDさんのものと思われる。官能的な形状の耳は、高校一年生の夏から秋にかけて、高校近くのコンビニエンスストアでアルバイトをしていた女性のそれだ。厚みのある艶やかな唇は、中学生の頃に購読していた少年漫画雑誌の、グラビアページに掲載されていた女優Kのものだろう。ボディラインよりも、その部位の方が確実に美的価値があったのに、カメラマンはそれに気がついていない撮り方をしていて、当時はもどかしく思ったものだ。  その唇が、今はベアトリーチェの唇となって目の前にある。文句のつけようがない、完璧な唇だが、他のパーツとの取り合わせが悪いせいで、本来の美しさが大きく損なわれている。もっとも、唇を台無しにしているパーツを一つ一つピックアップすれば、唇と同様、紛れもなく美しい。  美しくも歪なベアトリーチェ。歪だという時点で、ベアトリーチェではないベアトリーチェ。  私はこのような形でしか彼女を表現し得ないのかと思うと、愕然とした後に悄然としてしまった。  目の前のベアトリーチェは所詮幻影だ。私の想像力が足りないから、本物らしく描き出すことに失敗してしまっただけ。実物の彼女まで歪になったわけではないし、空想を描く能力が不充分だとしても、彼女に辿り着くにあたって支障があるわけではない。実物の彼女ではないのだとしても、何せベアトリーチェだ。醜い姿を見てショックを受けるのは当然だが、空想は空想、現実は現実。気に病む必要は全くない。  心を立て直そうと足掻いている間も、ツギハギだらけのベアトリーチェは、表情を維持して私を見据えている。私が何らかの反応を示すまで沈黙を貫く方針らしい。  私が飼育していた芋虫を殺めたのは事実だが、謝罪ならば事件後に誠意ある形で行い、公式的な赦しを得ている。以後、現在に至るまで、「生き物を妄りに殺さない」という当時の誓いを遵守している。幼稚園時代の一件を蒸し返されるなど、馬鹿げている。  そこまで考えたところで、唐突に理解する。  これは私のトラウマなのだ。芋虫殺しは故意ではなかったのに、指先に込める力加減を誤って殺してまっただけなのに、高圧的な女子に必要以上に厳しく責められた。抑圧機能が働いていたから思い出さなかったし、自覚していなかっただけで、私はその一件に深く傷ついていた。  誰が謝罪などするものか。ベアトリーチェに化けてまで私の前に再臨するとは、不届き千万。悪霊よ、今すぐに私の前から消え失せるがいい。  憐れむような目つきを見せたのを合図に、ベアトリーチェの顔の継ぎ目が浮き彫りになり、綻びが生じ、頭部がポップコーンのように弾けた。  偽物だからこそ、そのような表情を私に向けたのだろう。そう冷ややかに思う私は、十八歳の私に戻って山道を歩いている。  進むに従って背丈を伸ばす雑草は、今や私の肩を下回るものは殆どない。パステルピンクの蟷螂を見かける機会は明らかに減った。彼らは相変わらず、私の姿を認めるたびに、機械のような挙動で顔を私へと向ける。  程なく、道が途切れているのが前方に見えた。軽度の動揺に足が緩んだ。しかし、道がないならば雑草を薙ぎ倒して切り拓けばいい、とすぐに気を取り直し、前進を継続する。  途切れている地点にある程度近づいたことで、その目的のために労力を割く必要はないと判明した。道が直角に近い急カーブを描いて右に曲がっているのと、丈が高い雑草が視界を遮っているのとが相俟って、途切れているように見えただけだったのだ。  急カーブの始点となる地点に、さながら目印のごとく石が置いてある。コンクリートの塊を歪な球形に切り取ったような見た目の、掌サイズの扁平な石だ。上面の下半分に黒く、細く、薄く、日本語で「のはか」と記されている。 「のはか」は「の墓」なのではないか、と瞬時に予想を立てた。蟷螂しか動物が棲息していない山という環境が、死に関連する事物を思い起こさせたから。あえて根拠を説明するならばそうなるのだろうが、直感の一言で説明するのが最も正解に近いだろうか。 「のはか」が「の墓」という意味であれば、上半分には記されていたのは、埋葬された動物の名前だろうか。ポチの墓、ジョンの墓、ラッキーの墓――なぜか犬に与えるのに相応しい名前ばかりが浮かぶ。猫は屋外で放し飼いされている個体も一定数存在する上、自らの死に様を人間に見せることを是としない性質を持つから、墓に眠っているイメージを抱きにくい。猫以外のペットの一番手が犬ということで、ポチ、ジョン、ラッキー、なのだろうか。  墓石に顔を近づける。「のはか」の上、即ち石の上面の上半分に、何らかの文字が記されていた痕跡が辛うじて認められる。今にも消え入りそうに薄い短い横線は、漢数字の一にも似ている。「のはか」の字の大きさを考えれば、漢数字の一ではなく、横棒を含む何らかの文字が記されていたと断定するのが妥当だろう。  さらに顔を近づけて、横線は柩であると判明した。  白色やオレンジ色や空色の花々に囲まれて、白装束に身に包んだベアトリーチェが横たわっている。顔の造作は疑いようもなく彼女のものだ。元々透き通るように白い肌の持ち主だが、現在の顔の白さは、生命活動を終えた人間にしか表現し得ない。  突然、ベアトリーチェが双眸を見開いた。紅が引かれた唇が凄まじい速さで動き、叱咤激励の類と推察される無声の言葉を吐いたかと思うと、頭部がロケットのごとく真上に発射された。秒速約二センチという低速だ。  臆することなく、迫りくるベアトリーチェの顔を見据える。事態がこのまま推移すれば、私たちはキスを交わすことになりそうだ。  予測とは裏腹に、あたかも私の心を読んで故意に別の道を選んだかのごとく、頭部の軌道は徐々に予想ルートから逸れ始めた。キスはしないが、衝突は避けられないルートだ。速度に変化が生じないのだとすれば、私の鼻にぶつかるまであと六秒の猶予しかない。  許された時間の短さが重圧となり、自らが取るべき選択について検討することさえままならない。米粒ほどだった頭部はあっという間に私の顔ほどになり、私の鼻に直撃した。  私の体は私の意思を超越して動き出し、しゃがんで首を伸ばして墓石を注視する姿勢から、直立する姿勢へと流れるように移行した。一方のベアトリーチェの頭部は、打ち上がったのとは逆の軌道、同じ速度で下降し、柩に収まる。ベアトリーチェの遺体からズームアウトし、「のはか」の小石に帰還する。  早く先へ進め、という彼女からのメッセージなのかもしれない。数秒間、魂を抜かれたように立ち尽くす時間を経て、そう結論する。本当は意味などなく、己の都合のいいように考えているだけなのかもしれない。しかし、私の目的は彼女に到達することなのだから、ご都合主義で結構だ。気持ちを切り替える目的で溜息を一つつき、小石から視線を切って歩き出す。  道は緩やかに下りながら蛇行している。路面を覆っているのは相変わらず短い雑草で、道の左右に生えた背が高い雑草と好対照をなしている。蟷螂の姿は見かけなくなった。 「のはか」の石は、「のはか」と記した人間が深い関わり合いを持つ特定の動物ではなく、天地開闢から現在に至るまで、そして現在から宇宙の終焉に至るまでの間に生まれて死ぬ、全ての生命の墓なのかもしれない。  墓石がある地点が現在だと仮定したならば、私は過去と未来、どちらへ向かっているのだろう。過去だとすれば、幻影でも、夢でも、過去の記憶でもないベアトリーチェは存在するのだろうか。したとして、到達可能なのだろうか。  突然、道が平坦になったかと思うと、視界が開けた。  湖だ。  形状は正円に近く、広さは直径五十メートルほど。湖の外縁は幅五十センチほどの平坦な黒土に縁取られていて、湿り気を帯びた朽ち葉と大小の木の枝が堆積している。さらにその外周を、私がこれまで歩いてきた道の左右に生えていたのと同種の木々が取り巻いている。湖水が湛えられた領域と、それを縁取る区域の地面からは、樹木は一本も生えていない。ただ、後者のすぐ外側に生えた木々が湖の中心に向かって枝を伸ばし、葉を茂らせているため、空は遮られている。数は少なく、面積は狭いが、木漏れ日が射し込んでいる箇所もある。  湖水は透き通りすぎない程度に澄んでいる。湖を縁取る領域と同じく、黒土と朽ち葉と木の枝によって湖底は構成されている。限りなく透明に近い白い体を持つ、辞書には名前が記載されていない小魚が、この湖に棲息する唯一の一匹として、しかし孤独感に呑まれることなく、威風堂々と泳いでいそうな雰囲気だ。  視線を湖底に固定したまま、奥へ奥へと進めていく。水深は次第に深くなっていくが、推移は極めて緩やかで、汀から十メートルほどの位置でも膝に達するほどもない。最も深い場所でも、大人ならば足がつきそうだ。  湖面のほぼ中央に桃色の球体が浮かんでいる。山道を歩いていた際に頻繁に見かけた、蟷螂の体色に一見似ているが、蟷螂のパステルピンクと比べると遥かに濃密で深みがある。注意深く観察すると、種類が異なるピンク系統の色が、幾重にも塗り重ねられた結果の桃色だと分かる。ある程度距離がある上、孤立しているせいで大きさを把握しづらいが、バスケットボールほどだろうか。湖上を微風が吹き抜けているらしく、緩慢な速度で横方向に回転しながら小幅に浮き沈みしている。  なぜ、あのような場所にボールがあるのだろう。湖の中心に浮かんでいるという点に作為が感じられるし、濃厚なピンク色はパステルピンクよりもある意味不自然で、そこはかとなく不穏だ。故意に浮かべられたのだとすれば、何のために?  何者かの手によってあの場所に配置されたのではないならば、湖の近くで遊んでいた子供が誤って落としてしまい、拾うよりも先に中央まで流れていってしまったために回収不可能となり、放置されたまま現在に至った、という経緯だろうか。しかし、現在地のように空間的なゆとりに乏しく、しかも落水の危険性がある場所で、わざわざボール遊びをするというのは解せない。他に遊ぶ場所がないなどの理由から現在地で遊んでいて、誤って湖にボールを落としてしまったのだとしても、即座に拾えば済む話ではないか。湖の中央まで流れていくまで手を拱いているというのは、常識的には考えにくい。何らかの理由から水に落ちたことにすぐには気がつかず、気がついた時には中央までボールが流されていた、ということであっても、水深は高が知れているのだから、自力で回収すればいい。それとも、私が考えている以上に深さがあるのだろうか。  桃色の球体は、私の手で回収するべきだ。  球体の存在を認めた瞬間に抱いたその思いは、球体について考察すればするほど強固になり、考察を終えた頃には確固たるものになっていた。  道は湖をもって終点を迎えている。この湖こそがベアトリーチェに到達可能な場所で、球体を回収することで、いや触れるだけで、悲願を達成できる。そんな気がしてならない。  金や白や青などが彼女のイメージカラーで、桃色はそぐわない、というのが唯一の気がかりな点だ。私が彼女を知らない時代、例えば幼少時などにその色が好きだったのだろうかと考えてみたが、首を捻らざるを得ない。ピンク色は下品だ。金や白や青に多分に含まれている清楚さの原子が欠如している。事実、蟷螂からはベアトリーチェの気配は微塵も感じられなかった。  仮にその昆虫が彼女の欠片なのだとすれば、散り散りになっているそれらを過不足なく集めることで、彼女は完成することになる。しかし、所詮は元昆虫。完成した瞬間に、地球上には存在しない怪鳥が時空間を超越して彼女の上空に出現し、ミサイルのごとく急降下し、一口に食らってしまうだろう。食べられた彼女は、消化器官によって消化され、糞便と化して排出され、大地か海に墜落する。植物は種の姿で生き残るから、大地に落ちさえすれば命をやり直せるが、動物ならば何も残らない。大地ならば大地に、海ならば海に溶け、同化し、一巻の終わりだ。  終わるなど、ベアトリーチェではない。従って、蟷螂は彼女の変形ではない。  では、球体は?  湖畔から眺めた限り、桃色の球体は無機物だ。鳥に食べられたとしても消化はされない。体内から排出され、落ちた先が大地だろうが海だろうが、溶けない。同化しない。一巻の終わりではない。  同じ桃色でも、蟷螂はベアトリーチェではないが、球体はベアトリーチェなのだ。彼女が変身した姿なのか、彼女を収めた箱を開錠するための鍵のようなものなのか。それは定かではないが、球体に触れることこそが、彼女に到達する道だと解釈して間違いないだろう。  高揚感はない。ベアトリーチェ本人が待ち構えているわけでもないのに、本当に彼女に到達できるのだろうかと、腹の底では疑っているからか。それとも、感情の昂ぶりは目的を達成するにあたって邪魔になると、無意識に判断し、自制しているのか。  真相は定かではないが、球体へ向かおうという意志は揺るぎなくある。球体に達することが、ベアトリーチェに達するのと同義の可能性がある以上、試みない理由はない。  湖畔から眺めた限り、湖底には相当な数の木の枝が落ちている。絨毯のごとく積もった朽ち葉に隠蔽されているが、小石なども無数に転がっているはずだ。それを踏みつけた結果の痛み、足の裏が傷つく危険性を考えれば、靴は履いておきたい。ただし、水中での動きやすさを考え、上着は脱ぐ。少しくたびれた、焦げ茶色のジャケット。ざっと丸め、湖から極力遠い地点へと投げ捨てる。  ジャケットに再び袖を通す時は来るのだろうか? ベアトリーチェ到達後については、全く考えたことがなかった。平凡な知能しか持たない凡庸な私という存在が、いくら想像の翼を広げたところで、未来予知が的中するとは到底思えない。  確信していることは、ただ一つ。  彼女に到達すれば、私は幸福になれる。  足下に視線を落とし、一歩目となる右足を水に浸ける。冷たくもぬるくもない。慎重さを心がけた足取りで目的物へ向かう。水が動く音が影のように追随する。十五歩目で水位が靴の高さを上回り、靴の中に水が浸入してきた。さほど不快感を覚えないのは、ベアトリーチェに到達する悲願が達成される瞬間が目前に迫ったのに伴う、魂の昂ぶりのせいか。  靴底が湖底を踏み締めるごとに桃色が拡大される。湖畔から眺めた通り遠浅らしく、歩いているのはいつまで経っても浅瀬で、そのギャップが淡い酩酊感をもたらす。  膝まで浸かったのを境に、水深が深まるペースに加速度がついた。あっという間に股間を上回り、腰を水没させ、胸へと近づく。このペースが維持されると仮定したならば、目的物に達する頃には頭頂まで湖水に呑み込まれる計算だ。  懸念とは裏腹に、鎖骨に限りなく迫ったところで上昇は止まり、さらに歩くと水位は少し下がりさえした。以降は胸と鎖骨の間を行き来し、それ以上は深くも浅くもならない。  とはいえ、転倒したならば溺れかねない水位だ。周囲に人間が不在の現状、そうなれば死に直結しかねないため、より慎重な歩行を心がける。朽ち葉が微かなぬめりを帯びているようで、危うさを感じないと言えば嘘になるが、気を引き締めている限り問題はなさそうだ。私の歩行に合わせて桃色の球体が遠のく、などという、大いなる存在による悪ふざけもない。  油断は大敵であるが故に禁物だ。水の深さと朽ち葉の滑りやすさを考え合わせれば、最も私の足下をすくう可能性があるのはそれだろう。不意打ちで水深が急に深くなる可能性だってある。残り五メートルを切ってからは一層慎重に歩を繰り出し、湖に足を踏み入れた当初の倍の時間をかけて進んだ。  足下をすくわれることも、急な深みに填まることもなく、目的の物体の前まで来た。  相も変わらず微かに吹く風を受け、相も変わらず小さく浮き沈みしている球状の物体の正体は、ゴム製のボール。  ボールは湖上にその存在を発見してから現在に至るまで、微風に吹かれて緩やかに回転しながらも、湖面の一点に留まり続けている。湖底から伸びた紐にでも繋がれているのだろうかと、透明度の高い水中を目で捜索したが、ボールに接続している物体は認められない。不可思議を解き明かしたい気持ちはあるが、目的物の前まで来たのだ。目的を果たすとしよう。  一歩距離を詰め、両手を伸ばそうとした瞬間、両足が湖底に沈んだ。  危機に瀕した時こそ、落ち着いて行動することが肝要だ。誰の頭の片隅にもインプットされているものの、いざ実践するとなると難しい類の教訓だろうが、「落ち着いて行動しろ」と自らに言い聞かせるまでもなく、私の心は落ち着いている。  下半身を適度に脱力し、まずは右足を引き抜こうとした。しかし、湖底の主要構成物である土が捉えて離さず、逆にさらなる深みへと沈んだ。湖底の土中に潜む怪物に緩やかに引きずり込まれるように、私の体は徐々に湖底にのめり込んでいく。  沈み始めた時は鎖骨から上が湖面から出ていた体は、あっという間に顎まで浸かった。沈降は止まる気配がない。さらなる水没に備えて唇を閉ざし、息を止める。唇が、鼻が、目が、為す術もなく水面下に沈む。ボールを掴もうと両手を伸ばしたが、虚しく空を切り、私の全身は水中に没した。  両脚が一方的に土にのめり込んでいくのを実感しながら、顔を持ち上げて双眸を見開く。透明度が高いせいか、湖面から水中へと注ぎ込む光が眩しい。湖の上空は木々の葉に覆われ、木漏れ日は殆ど差していなかったはずだが、それでも眩しかった。現時点では、手を伸ばせば辛うじて湖水の外に指先を出せそうだ。  体の一部だけでも構わない。水の外に出たい。手を伸ばそう。  そんなことをして何になる。こうなった以上、私は死ぬのだ。辛うじて指先に覚えた外気の感触を名残惜しみながら無に同化するくらいならば、潔く死を選ぶべきだ。  相反する思いがせめぎ合う間も、私はのめり込み続ける。脚が膝よりも深く埋まり、手を限界まで伸ばしたとしても、湖面から指先が出ない距離に達した。  死ぬのだな、と思う。  思うだけで、実感は伴わない。桃色の球体を目前にしてから、死に直通するベルトコンベアに追いやられるまでがあまりにも性急で、あまりにも劇的で、死にゆくのは自分でも、自分と直接繋がりがある人間でもない、赤の他人であるかのようだ。  沈み始めた当初抱いていたはずの、恐怖と焦りの感情はいつの間にか消滅している。走馬灯が流れることもない。もうすぐ死ぬとはとても思えない。  私は死なないのだろうか?  そんなはずはない。私が死ぬ未来は確定している。それは絶対に揺るぎない。  死とは、実感を伴わないものなのだ。だから私は、死のうとしているにもかかわらず、死ぬという実感を抱いていない。  私の解釈が正しいのだとすれば、実に呆気ない。こんなにも呆気なく、掛け替えのない命が、個性が、永久に、完全に消滅してしまうとは。  実感も恐怖も走馬灯もないが、嫌だな、とは思う。可能ならば、死にたくない。  当たり前だ。私にはベアトリーチェに到達するという目的がある。  しかし、沈下が止まらないのだから、自力では止められないのだから、死ぬしかない。呆気なくても、嫌でも、死ぬしかない。回避したくても回避できないのだから、運命を受け入れるしかない。いくら運命といえども、自らに不都合な運命は受け入れたくないが、回避できないならば致し方ない。そう諦める気持ちもあった。  生を諦めたくない。生を諦めるしかない。どちらに心を定めようとも、私が死ぬことに変わりはない。  そう思う私は、現時点ではまだ死んでいない。死ぬことに変わりはない、などと思考できているのが、その確たる証拠だ。  私はもうじき死ぬ、などと思っている間は、人は死なないのではないか。そう考えた瞬間に死ぬ気もしたが、死なない。  死が遠い、と思う。私は近い未来に確実に死ぬはずなのに、死なない。近いはずの未来が中々訪れない。そのせいで、愚にもつかないことを考え、死を回避できない事実を何度も何度も噛み締めさせられ、消耗している。不要な苦痛を味わっている。  何と馬鹿げたことだろう。いくら大いなる存在の所業といえども、軽侮の念を抱かずにはいられない。  さっさと殺してくれ。無にしてくれ。思考能力を奪い去ってくれ。  叫んだ直後、私は死にたくないのだった、と気がつく。ベアトリーチェに到達するために、死ぬわけにはいかないのだった。  しかし、私は死ぬ。なぜなのか? それは、確定済みの未来だからだ。  咀嚼すれば咀嚼するほど、何という結末だろう。逍遥の果てに待ち受けていたものが幸福ではなく、死だったとは。  私の体は着実に湖底の土に埋まっていく。光り輝く湖面は着実に遠のいていく。私は確実に死ぬのだろう。  まだ息は苦しくない。しかし、いずれ苦しみが襲ってくる。この「いずれ」というのが恐ろしい。時期が分かっていれば心構えができるが、分からないから不可能。いっそのこと、今すぐに殺してくれ。そう叫びたくなる。  しかし、言うまでもなく、私は死にたくない。ベアトリーチェに至るその瞬間まで、呼吸が、命が、継続することを懇望している。  それでも息は止まる。命は無に帰す。今のところは死んでいないが、近い未来に死ぬ。絶対に死ぬ。ほぼ確実に、ベアトリーチェに到達するよりも先に。  確定した未来を回避する方法はないだろうか?  自力では不可能だろう。では、他力ではどうかと言うと、湖周辺には人間の一人はおろか、動物の一匹も存在しないのだから、その可能性も同じく絶望的だ。  やはり、どう足掻いても私は死ぬようだ。  顧みれば、これまでの道のり、誰の助けも借りずに歩いてきた。ずっと一人だった。よくぞここまで歩いてこられたものだ。その褒美として、誰か私を助けてはくれないだろうか。  厚かましく願ったところで、湖畔に私以外の人間は存在しないのだから、叶わぬ夢だ。大いなる存在も、ベアトリーチェも、救いの手を差し伸べてはくれない。  婉曲に死刑を宣告した、ということなのか。私を現在の境遇に陥らせた首謀者の感がある大いなる存在はともかく、彼女がそのような対応を取ったのだとすれば、ショックだ。しかし同時に、彼女らしいな、と微笑ましくもある。  悔やむ気持ちや納得がいかない気持ちはあるが、致し方ない。よくぞここまで歩いてきた。自画自賛を浴びせながら、浴びながら、死のう。  腹を括った瞬間、体が軽くなった。それと共に沈降が止まった。  二つの変化を合図に、私の体は水面に向かって上昇を開始した。私の力ではない力が私を動かしている。  沈む時よりも心持ち速い速度で湖面が近づいてくる。体の埋まった部分が土中からせり出していくのを感じる。眩しさが次第に強まる。  出る、出る、出る、  と思っているうちに、私の顔は水面から出た。
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