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目が覚めた。
寝汗はかいていない。呼吸は乱れていない。鼓動は平常だ。それでいて、悪夢を見たという実感が強く胸に残っている。爽やかな目覚めでは明らかにない。
寝覚めの悪さを言い訳に寝そべり続け、半時間近く経って漸く、病人顔負けの緩慢さで体を起こす。
カーテンを開いて外を窺ったが、力士の姿はない。
やっぱりな。
そう思った直後、夜間に男の怒声と女の悲鳴を聞くのに続いて、朝に力士が道を歩いているかを確認するのが日課になるのでは、という予感を抱いた。
「……くそっ」
見なければよかった。余計なものを背負い込むのは、もう懲り懲りだ。
明日の朝は、絶対に見ないようにしよう。閉ざされているのが通常の状態なのだから、開かなければいい。
故意に大きな音を立てて幕を閉ざし、窓外の景色を隠蔽した。
午前十時半を回っていた。朝食は抜こう、と即決する。
買い溜めしてある食料の総量を考えれば、近いうちに買い出しに行かなければならないのは確実だ。『エンブリオ』へ行けば、また彼女に会えるだろうか? 昨夜、泣きながら自宅から出てきた彼女は、道を『エンブリオ』とは逆方向に歩いていった。
朝食を抜くことに決めたのは、昼食の時間が迫っていたのに加えて、全財産が残り僅かだからだ。残金が十万円を切ったのを確認したのは、何か月前のことだっただろう? ジーンズのポケットから財布を取り出し、中身を確かめる。
千円札、三枚。
小銭、なし。
以上。
「……冗談だろ、おい」
冗談か否か。真実を明らかにするべく、洋箪笥の最上段の引き出しを引き開け、中を引っ掻き回す。いざという時のために一万円札を一枚置いていたはずなのだが――見つからない。
保管していた段を勘違いしているのだろうか?
引き出しを下へ下へと順番に開けていく。最下段まで確認したが、探しているものは出てこない。もう一回同じ順番で、一回目よりも入念に調べてみたが、結果に変わりはなかった。
置き場所は箪笥の中というのが、そもそも思い違いだったのでは?
仮説を実証するべく、箪笥以外の場所に手をつける。幸い、時間は有り余るほどある。部屋の隅々まで徹底的に探した。
探して、探して、探し尽くしたが、一万円札はどこにもなかった。
僕は悟る。というより、認めざるを得なくなった。
一万円札は既に使ってしまったのだ。「いざという時」は過ぎ去っていたのだ。
贅沢さえしなければ、千円で一週間ほど保つ。三千円ならば三週間。一回あたりの食事量を切り詰めたとしても、せいぜい一か月が限度。
一か月が経てば、僕はこれ以上、生を続けていけなくなる。
『馬鹿だなぁ。後悔するくらいなら、つまらないポリシーなんか捨てて、硬貨の釣りを受け取っておけばよかったのに』
『何を大げさに嘆いているんだい。若いんだし、健康体なんだから、働いて金を稼げばいいだけの話じゃないか』
また聞こえてきた。どこからともなく聞こえてきた。僕が深刻な金銭上の危機を自覚するたびに聞こえてくる、見知らぬ誰かの嘲笑の声が。
「うるさい!」
腹の底から声を発し、見えない敵を怒鳴りつける。凄烈な一声によって嘲笑の声は消滅したが、込み上げてくる感情は抑え込めない。両手で頭髪を滅茶苦茶に掻きむしる。
「違う、違う、違う――」
違うのだ。僕にとって、硬貨の釣りは受け取れないものであり、労働はできないことなのだ。
硬貨の釣りを受け取ればいい? 働けばいい? そんな簡単に言うな! お前は犬に空を飛べと命じるのか。お前は上から下へと流れる水を軽蔑するのか。お前は老衰で死んだ老人を気の毒がるのか。お前は――。
「あああっ! 畜生! 畜生畜生畜生っ!」
右手を固く握り締め、白亜の壁に続け様に叩きつける。鈍い衝突音が断続的に響く。泉の如く滾々と湧出する、様々な感情が猥雑に錯綜した怒りに突き動かされて、僕はひたすら壁を殴り続けた。
やがて右拳が虚空に停止した。壁に衝突する寸前の位置だった。右腕の肘から先が細かく震えている。拳の前側を手前に向けると、壁への激突を繰り返していた箇所が擦り剥け、鮮血が滲んでいる。
看過しがたい負傷を目の当たりにしたことで、漸く冷静さが戻ってきた。
傷の手当がしたかったが、一万円札と同様、絆創膏や包帯の類はこの部屋には存在しない。箪笥の中から白色のシャツを選び取って布状に引き裂き、包帯代わりに右手に大雑把に巻きつける。出血は酷くなかったので、間に合わせの処置でも事足りた。所々に滲んだ鮮やかな赤は、何らかの儀式のために描かれた紋様に見えなくもない。
「……うん、悪くない」
実感の上では実に久しぶりに、顔に微笑みに類するものが滲んだのを自覚した。イミテーション? 微笑みは微笑みだ。微笑みがイミテーションか否かを判別する公式の基準はこの世には存在しないのだから、それでいい。
時計の針はとうに十二時を過ぎ、一時が近かった。財布をジーンズのポケットに押し込み、使い古されたスニーカーに足を入れる。その最中、声なき声に呼びかけられ、後方を振り返った。
部屋の白い壁、先程まで執拗に殴りつけていた箇所に、血の絵の具によって抽象画が描かれている。画は無数の赤い点によって構成されていて、点の一つ一つが蟻のように蠕動している。
虫か否か、確かめるために歩み寄った途端、点は動きを止めるに違いない。
顔を背けて自宅を発った。
『エンブリオ』は一顧だにせずに通り過ぎた。
信号以外で初めて足を止めたのは、表札に「後藤」と記された門の前。敷地内を窺うと、門と玄関を結ぶ小道の右手のスペースに黒のセダンが駐車されている。
ベアトリーチェの家族が所有している車だろうか? 彼女は自動車の運転免許を取得できる年齢に達しているとは思えないから、そういうことなのだろう。昨夜怒鳴り散らしていた人物の愛車? そこまでは分からない。判断のしようがない。現時点で僕が得ているベアトリーチェに関する情報は、あまりにも少ない。
視線を切り、昨夜ベアトリーチェが泣きながら歩いたに違いない道を歩き始める。
十分ばかり道なりに進むと、前方に鮮やかな朱色の鳥居が見えた。背の高い木々に囲まれた、こぢんまりとした神社だ。その鮮やかさがいかにも意味深長で、導かれるように歩を進めた。
鳥居から境内を覗き込んだ瞬間、心臓が止まるかと思った。陳腐な表現だが、本当にそうなるのではないかと思ったくらい衝撃を受けた。
拝殿に通じる短い石段の最上段に、少女が腰を下ろしている。周囲が仄暗い上、俯いていたため顔は窺えなかったが、服装を見れば正体は明らかだ。
全く、何て呆気ない発見なんだ。時間的にも、手段的にも。航海士が新大陸を発見するまでの過程のように、波乱万丈の体験をさせてくれよ。ああ、口角を司る筋肉を制御できない。辿り着くまでに支配権を取り戻さなくては。取り戻せるだろうか? きっと大丈夫だ。万が一大丈夫ではなかった場合は、仕方ない、彼女からの厳しい言葉に甘んじよう。さあ、進め。
境内に足を踏み入れる。彼女は僕に気づかない。歩を進める。彼女は俯いたままだ。鳥居からベアトリーチェまでの中間地点で足を止める。依然として最上段で体を硬直させている。薄暗く、なおかつ距離があるので断言はできないが、僕の存在に気がつかないふりをしているわけではなさそうだ。
「後藤さん」
漸く顔が持ち上がった。声を発した瞬間、声を発したのは僕だと分かったはずだが、それ以上の反応は示さない。真っ直ぐに歩み寄る。
「何をやっているの、こんなところで。平日の昼間だっていうのに」
返事はない。例によって無表情だが、顔色は悪いようには見えない。怪我などもしていないようだ。
返事を待つ間、僕はタンクトップの膨らみに視線を注いだ。薄暗さに祟られて、ノーブラにタンクトップという格好ならば見えて然るべきものを視認できないのは残念だったが、キュートな膨らみを堂々と眺められるだけでも充分にありがたい。
「あなたこそ、どうして神社に来たの」
鑑賞に集中していられた時間は十数秒で終わりを迎えた。表情にお似合いの平板な声だった。
「暇潰しに散歩をしていたら、たまたま君を見かけたんだよ。ニートだから暇だけは有り余っているんだ」
「よく平然と打ち明けられるね、そんな恥ずべき事実を」
「そういう君は、どんな立派な理由があってここにいるの?」
「ストレスを発散していたの。あそこで」
僕の体を避けるように前方を指差す。境内を囲む木々と比べて一回りも二回りも大きな樹がそびえ立っている。背丈は二階建ての住宅の屋根よりも高い。
ベアトリーチェは石段から腰を上げると、僕に向かって小さく顎をしゃくり、大樹へと歩を進める。僕はその後ろに従う。
「これ、全部わたしの仕業」
人差し指で幹を指し示す。猫が引っ掻いたような切り傷が夥しく刻まれている。
「これで傷つけたの」
そう言ってジーンズのポケットから取り出したのは、カッターナイフ。威嚇するような、薄気味悪い音が聞こえ、鈍色の刃が五センチほど突出した。思わず顔が強張ったが、彼女は敵意も殺意も破壊衝動も醸していない。思わず苦笑を漏らしてしまう。
「チョコに針を刺したり、樹を傷つけたり……。君、いつもこんなことをやっているの?」
「いつもじゃないよ。どうしてもストレスを我慢できなくなった時に、仕方なくやっているだけ。例えば、お腹が空いた時とか」
「何だよ、それ。……何はともあれ、そのカッター、早いところ仕舞ってくれないかな。君、無表情だから、おっかないんだよ。何をしでかすか分からない感じが」
ベアトリーチェは素直に要求に従った。僕は溜息をつき、顔から苦笑を消して彼女と目を合わせる。
「君、昼ご飯はまだ? まだなんだったら、一緒に食べに行こうよ。僕が奢るから」
「何を企んでいるの?」
「人聞きの悪いことを言わないでよ。他意なんてない。一緒に食事がしたいと思ったから誘ったまでのことだよ」
ベアトリーチェは溜息を洩らした。そして口元を僅かに、しかし明白に緩める。
「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかな」
微笑んだ。そう形容するにはあまりにも小さすぎる変化だったが、彼女が自ら無表情を崩した前例はなかった。小さいが大きな一歩というやつだ。
「――ただし」
しかし、誘いを受け入れてくれたことに謝意を伝えようとした時には、口元から笑みは消えている。
「わたしから個人情報を訊き出そうとしないと約束して。わたし、人に干渉されるのは嫌いだから。それを約束してくれるなら、付き合ってあげてもいいよ」
店にこだわりはないようだったので、神社から近く、値段も安い、駅前のファミリーレストランで食事を摂ることにした。
道中、僕とベアトリーチェは会話を交わさなかった。神社から店までは五分少々。取り上げるべき話題に迷っている間に終わった、という感じだった。
昼食には少し遅い時間だったので、順番は待たずに済んだ。案内されたのは、窓際のボックス席。
「何でも好きなだけ注文していいからね。遠慮しなくていいから」
声をかけたが、ベアトリーチェはメニューを眺めていて、反応を示さない。こちらも、彼女が見ているものは別のメニューを手に取る。一皿で満足できるという観点から候補を絞り込み、カレーピラフを注文することに決める。
「もう決まった?」
急かすようで悪いな、と思いながらも、現状確認のために言葉をかけると、
「じゃあ、わたしはミートドリアで」
ベアトリーチェはメニューを閉じ、水を一口飲んだ。
ベルを押して店員を呼び寄せたところで、はたと気がつく。ミートドリアは確か、メニューの中で最も料金が安い料理だったはずだ。
「遠慮しなくてもいいのに。ニートにも昼食を奢る金くらいある」
「遠慮なんかしてない。好きだから注文しただけ」
「……それなら別にいいけど」
個人情報を訊き出そうとしたと見なされるのを回避するため、僕はもっぱら自分について話した。全財産が残り僅かなこと。右手の怪我は実質的な自傷行為によるものだということ。趣味、嗜好、幼少時代の思い出。遠藤寺桐について話すことは意識的に控えた。
ベアトリーチェは黙々とミートドリアを食べた。口を挟むことも、相槌を打つこともない。ただ、話はちゃんと聞いているらしく、勿体ぶって間を置いたり、強調するために声に力を込めたりするたびに、皿から顔を上げて僕の顔を正視した。
無愛想なりに誠意らしきものは感じられたが、やはり物足りない。
やがて話題が枯渇してきた。
僕は無学で、無趣味で、友人は皆無。金がなく、中学校を卒業してからはずっと引きこもりがちな生活を送っているので、楽しめるような話題は持ち合わせていない。遠藤寺桐とは同じ中学校に通っていたという共通点があったが、ベアトリーチェとは一昨日知り合ったばかりだから、語り合うほどの思い出もない。加えて、「個人情報は訊き出してはならない」という厳しい制約がある。こうなるのも必然というべきか。
たかが暇潰し相手に過ぎなかった遠藤寺と、あれだけ会話が続いていたことを思うとこの結果は不満だが、無理にでも満足するしかないのだろう。
とりあえず、今日のところは。
やがてカレーピラフの皿が空になった。ベアトリーチェはまだ食べているが、あと二・三口という残り具合だ。食べるのは彼女の方が圧倒的に遅いが、僕の料理の方が量が多く、話をしながら食べたため、食べ終わるのがほぼ同時になったらしい。
「お手洗い、行くね」
自分の皿を空にすると、ベアトリーチェは紙ナプキンで口元を拭い、トイレに立った。途端に、テーブルの上とその周囲が空疎になった。こぼれそうになった溜息を押し留め、窓外に注目を移す。
雑踏の只中に、異様な身なりの人物がいた。狐の顔を象った面を被り、死装束じみた真っ白な着物を着ている。人間が狐の面を被り白装束を身にまとったというより、近隣の森から抜け出してきた狐が人間に化けたという印象だ。中腰の姿勢でファミリーレストランに正対し、右手を懐に差し入れて小さな黄色い球を掴み出しては、路上にばら撒いている。球は大きさも色合いも、熟した酢橘の実に似ている。
男は一度に五個ばかりの球を、幼児相手にゴムボールを投げてやるように、前方に向かってやんわりと放つ。球は遅い球足で、てんでばらばらの方向に転がる。一個たりとも通行人の体に接触しない。無生物に突き当たるか、自然に運動を停止するか、そのどちらかの形で動きを止めた。
通行人は男や球には見向きもしない。男も通行人には全く注意を払わない。仮面によって顔が覆われ、視線の方向が定かではないため、何に注目しているのかは分からない。
ベアトリーチェが戻ってきた。僕は顔を彼女に、人差し指を窓外に向ける。
「あの狐の面を被った男、何をしているのかな?」
ベアトリーチェは外を見た。返答までには五秒ばかり間があった。
「誰のこと? お面を被った人なんてどこにもいないけど」
話し相手と同じ方向に顔を向けると、狐の仮面の男の姿は消えていた。それどころか、百も二百も散らばっていたはずの黄色い球さえ、一個残らず。
「じゃあ、わたしはこれで。食事、ご馳走様」
店を出てすぐ、ベアトリーチェは抑揚のない声で告げた。
『これからどうする? 行きたいところがあるなら、付き合うよ』
そう言葉をかけようとした僕の心中を読み取り、発言を制するかのようなタイミングでの発言だった。
まだまだベアトリーチェと一緒にいたいと考えていた僕は、当然の如く留意しようとした。しかし、彼女の瞳を見返した瞬間、よくも悪くも肩の力が抜けた。「わたしは意志を絶対に曲げません」と、太字でくっきりと明記されていたのだ。
「……分かった。食事には付き合ってもらったんだから、これ以上無理は言わないよ。また会えるかな」
「『エンブリオ』に来れば、恐らくは」
僕に背を向け、去っていく。
ああ、味気ない。一時間に満たない短時間とはいえ、いかにも仲睦まじくという感じではなかったとはいえ、仮にも楽しいひとときを過ごしたというのに、こんな別れ方は味気ない。味気なさすぎる。
呼び止めて、あまりにも味気ない別れに一波乱起こそうかとも思ったが、思い留まる。
ベアトリーチェは、『エンブリオ』に来れば会える可能性があると明言したではないか。
絶対ではないが、可能性はある。
ならば、今はこれで満足するべきだ。
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