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人が大勢いる。誰もが水着を着ていて、表情は軒並み明るい。緑色と茶色ばかりだった景色は一変し、あらゆるものが華やかな色に染まっている。子供のはしゃぐ声。若い女性の歓声。男性の笑い声。
湖で溺れていたはずが、私はいつの間にかプール場にいた。さほど広くはなく、家族連れの姿が目立つ。市民プール、といった風情だ。
私は胸まで水に浸かっている。湖でボールを手にしようとしていた時とほぼ同じ水深だが、底には黒土も朽ち葉も木の枝も積もっていない。透明度は湖水以上に高いが、こちらは人工的な透明さだ。透明すぎるほどに透明なお陰で、自分が紺色の水着を身に着けていて、裸足だと分かった。水温は冷たくもぬるくもない。大きく油断をすれば流されかねない強さの水流を体に感じる。その流れに乗り、何十人もの水着姿の老若男女が移動している。目的地に到達することが目的の移動ではなく、移動自体を楽しむための移動。流れるプールだ。
山中の湖で一人沈んでいたはずが、老若男女で賑わう市民プールの流れるプールにいる。
私の身に何が起きたのだろう?
為す術もなく沈んでいる最中、体が急に上昇を開始したと思ったら、顔が湖面から出た。あの上昇する力は、私以外の何者かがもたらしたものに違いない。
では、誰の仕業なのか。そして、私はなぜ、湖ではなくプールにいるのか。
あのような状況に置かれたにもかかわらず生きているということは、誰かに助けられたと考えて間違いなさそうだ。しかし、湖ではなくプールにいる理由、それが分からない。私は既に死亡していて、ここはあの世なのだろうか? 非現実的だと理解しながらもそう疑ってしまうほどに、理解しがたい。
あの時、私の周りには誰も、少なくとも、沈みゆく私を助けられる範囲内には誰もいなかった。水中に潜んでいた? 有り得ない。体が上昇したのだから、下から押し上げられた可能性も当然考えられるが、直径五十メートルほどの面積で、最深と思われる箇所の水深でも私の背丈よりも浅く、なおかつ、湖水の透明度は高いという環境なのだから、潜んでいる者がいたならば、湖畔からでも発見できたはずだ。ボールに注意が向いていたとはいえ、存在を感知できなかったというのは考えにくい。
そもそも呼吸が続かないはずだ。私が湖に辿り着いてから沈み始めるまで、十数分はかかっていた。科学的な限界は知らないが、十分以上も息を止め続けられる人間など、存在するはずがない。
仮に存在したとして、あの時あの場所にいたのだとすれば、わざわざ水中に潜んでいた理由は何なのか。私を助けるため? 私があの日あの時間に湖を訪れ、湖水に足を踏み入れ、あの地点まで歩を進めることを予知していたとでもいうのか?
私の体が上昇したのは、水中に潜んでいる何者かに押し上げられた結果ではない。では、誰が?
ベアトリーチェ。
彼女の仕業としか考えられない。人智を超越した存在である、神にも等しい彼女が、絶体絶命の窮地から私を救い出したのだ。
ベアトリーチェが私を助けた真意について考察しようとした時、自らの左側に何者かが佇んでいることに気がつく。現在地は流れるプールなのだから、水流に従って移動するのが普通だ。それにもかかわらず、一点に留まって動こうとしない。
その人物は、裾が膝と踝の中間まである鼠色の水着を穿いている。贅肉がついた両脚に多量の毛が生えていて、一目で男性だと分かった。現在私の視野に映し出されているのは、鼠色の水着を中心に、腹の一部、脚の一部、並びに背景。
顔を確認すると、やはり男性だ。五十歳前後だろうか。坊主頭に近い短髪で、面長で、額がやや広く、無精髭を薄く生やしている。顔面が広いわけではないが目が小さく見えるので、目そのものが小さいのだと分かる。坊主頭に近い短髪に無精髭という取り合わせは、一般的には野性的という印象を受けるが、その男性はどちらかと言うと理知的な雰囲気を漂わせている。
視線が重なった。目が合えばそうすると最初から決めていたとでもいうように、男性は間髪を入れずに唇だけで微笑んだ。
「大丈夫か?」
質問の意図は定かではないが、現状、明らかに大丈夫ではないことは一つもないので、首肯する。男性はただでさえ小さい目をさらに小さくし、自らも頷く。刹那、気がついた。
この男性は、私の父親だ。短髪。広い額。面長の顔。笑うと益々小さくなる目。全ての特徴が合致する。
「ああ、よかった。歩ける?」
今度の問いかけにも、私は首肯した。
父親が示した反応も、頷き返すという、前回と全く同じものだった。しかし前回とは異なり、体の向きを百八十度回し、水流に沿って歩き出した。五十歳という年齢を考えれば、腹回りの贅肉がいささか過剰な割には、身のこなしは軽やかに感じられる。足取りはまるで、流れるプールの中ではなく、陸上を普通に歩いているかのようだ。
「歩ける?」と確認を取ったということは、私は歩かなければならないのだろう。そう判断し、父親が進む方向へ向かって歩き出す。選択が正しいのか、誤っているのか、判断を下せないままに。
水流がいささか強く、底を踏み締める足に力を込めないと流されてしまいそうで、歩行速度は必然に遅くなる。水着姿の老若男女が次々と私を追い抜いていく。
そういえば、回転寿司店の外の歩道を歩いていた時の私の歩行速度も、平均を下回っていた。流れるプールを歩く速度が遅いのは、水に流されることを恐れているからだが、当時の私も何かを恐れていたのだろうか。
思案しながら歩いている間にも、父親との距離は徐々に開いていく。プール内は人口密度が高い上、中肉中背、平凡なヘアスタイルに平凡な髪色、穿いている水着の色も平凡と、父親の後ろ姿は平凡極まりないので、今にも人混みに紛れそうだ。仮に私が、四十歳の父親と共に市民プールまで遊びに来た八歳の私だったならば、「お父さん」という悲痛な一声を発していたに違いない。
子供の頃の私は、不安という感情を人並み以上に覚えやすい、臆病な寂しがり屋だった。齢を重ねるに従って多少は改善したが、就学前の私は、常に何かに怯え、庇護者の背中に隠れていた。
よくぞ性格的な欠点を克服して、よくも悪くも平凡な大人になったものだと、我ながら感心してしまう。
大人になった今では、父親とはぐれそうになっても感情は揺れない。不安も恐怖もなく、焦燥に足を速めることもなく、ただ「ああ、行ってしまうな」と思いながら、次第に遠ざかる父親の背中を追視している。
無感動。
私の父親にもその一面がある。例えば、私が十八歳ではなく八歳で、現在の私が置かれているのと同じ状況に置かれたと仮定して、「お父さん」と叫んだとしても、せいぜい少しばかり歩を緩めて私の方を振り向くだけで、足を止めることは決してないはずだ。
そんな父親を、子供時代の私は愛していただろうか? 大喧嘩をした記憶はないから、好悪はともかく、それなりに上手に付き合ってはいたのだろう。
私が生まれた日、父親はコンビニエンスストアの駐車場に停めた車の中で朝食をとった。本当の意味で冷酷だったならば、新しい命を産むために苦しむ妻のことなど顧みずに、生まれてくる命のことなど気にも留めずに、自宅のダイニングで長閑に朝食をしたためていたはずだ。年に一度は泊まりがけの旅行に連れて行ってくれたし、高校と大学の学費だって出してくれた。本当の意味で冷酷だったならば、日帰り旅行にすら行かなかっただろうし、他人のために大金を拠出しなかったはずだ。
あくまでも、子供の目には冷酷に見えることもあっただけ。世間一般の基準に照らし合わせれば模範的な父親であり、私の母親にとってはよき夫だった。血の繋がった息子として、そう信じたい。
父親は考え方が古色蒼然としていた。夫の役目は働いて金を稼ぐことで、妻の仕事は出産・家事・育児。そんな旧弊な思想に囚われていた。私は父親が家事をしている姿を一度も見たことがない。母親は私が小学校中学年の二年間、パートタイマーとして働いていたが、その時期も家事は母親任せだった。私は食器洗いとトイレ掃除を担当した記憶があるが、父親は家事を全く手伝わなかった。
好意的に解釈するならば、母親がパートタイマーとして働いていない時期も含め、家事の手伝いを免除されて当然と自他共に認める働きを見せてきた、ということだったのだろう。父親が考える「一家のために自らが最も貢献できる方法」が、家事を手伝うことではなく、仕事に精を出して給料を稼いでくることだったのだろう。
しかし当時の私は、ただただ納得がいかなかった。自分でするとなると面倒な仕事を、もっともらしい理由をつけて他者に丸投げしているとしか思えなかった。
私は父親を快く思っていない。子供の頃もそうだったし、十八歳になった今でもそうだ。大人になり、そう悪い父親ではないと思うことも時々はあるが、よき父親だと認めることは未だにできない。
結婚し、子供が産まれ、彼と同じ父親という立場になれば、考え方に変化が現れるのだろうか?
何かしらの変化はあるだろう。しかし、果たして、よき父親だと認められるかどうか。絶対に認めることはないと言い切るつもりはないが、相当な時間を要するはずだ。よき父親だと思えるようになった時、父親は老人ホームで寝たきりになっているかもしれない。よき父親だったな、と過去形でしか評価できないかもしれない。
困った時にあると思うな、親と金、という言葉を思い出す。口癖というほどではないが、父親がよく口にしていた言葉だ。親と金は大事なものだが、身近にあるが故にありがたみを実感しにくい。欲しても手に入れられない状況となって初めて、真の意味でありがたみが実感できる。そのような大意だろう。
親が大事。金が大事。そんなのは分かり切ったことだ。子供であっても、真の意味では理解できないかもしれないが、おぼろげながらも合点がいく類の真理ではある。
父親の、分かり切った事実を繰り返し述べ立てる悪癖、それが私は好きになれない。父親の、言動の端々に滲み出た押しつけがましさ、それが私は気に食わない。
「困った時にあると思うな、親と金」という言葉には、親の権威を認めさせようという思惑が窺える。金の威力を思い知らせようという意図が読み取れる。その言葉を頻繁に聞かされていた当時、私は子供で、金を稼ぐ力はなかった。「困った時にあると思うな、親と金」という指摘は、正鵠を射たものだと漠然と理解しながらも、反撥心を覚えたのは、それが最大の理由だったのだろう。反撥心を抱かざるを得ない言葉を頻発する人間は、たとえ親でも好きになれないのは当然だ。
私が実家を出て以来、父親はその言葉を殆ど口にしなくなった。少なくとも、私に対しては。接する機会が激減したことを差し引いても、少なくなった気がする。
私が親と金のありがたみを、子供の頃よりも理解できるようになったと肌で感じたから、口にする機会を意図的に減らしたのだろうか? 完全に理解できるようになった時、父親はその言葉を私の前で一切口にしなくなるのだろうか?
そうは思えない。父親の性格を考えれば、私が完全に理解したとしてもなお、「困った時にあると思うな、親と金」としつこく言い続けるに決まっている。親と金のありがたみを実子の私に理解させたいからではなく、押しつけがましい発言によって私を不愉快な気分にさせることこそが、父親が「困った時にあると思うな、親と金」という発言を多用する所以ではないか。そんな気がしてならない。
それにしても、私はなぜ、こうも父親を悪者にしたがるのだろう。過去を遡ってみても、彼と大喧嘩をした記憶を発見できない事実を思えば、不可解なまでに嫌悪していると言わざるを得ない。
父親との間で小さな諍いが起きた記憶自体ならば、いくつも残っている。しかし、具体的に何を巡ってどのように争ったかまでは思い出せない。親元を離れて暮らし始めてからは、小規模な対立さえも発生しなくなった。
そもそも、私は本当に、父親と争ったことがあったのだろうか。
父親との対立に関する明瞭な記憶を掘り起こせないのは、忘却してしまったからではなく、その経験が皆無だからではないのか。父親に悪しきイメージを持っているが故に、大小の諍いを幾度となく経験したと思い込んでいるだけで、実際には一度もないのではないか。数だけは多いくせに、詳細を何一つ思い出せない小規模な争いの数々は、その場しのぎ的に拵えた作り物だからこそ、詳細を思い出せないのではないか。
集中力が途切れ始めたのを悟り、一刀のもとに断ち切るように思案を打ち切る。
相も変わらず老若男女の声が一帯を満たしている。父親はそろそろ人混みに紛れそうだ。歩き出してから現在に至るまで、父親は一度も私を顧みなかった。紛れてしまう前に一声かけるべきではないかと思ったが、実行に移す気にはなれない。
そんなことよりも、流れるプールから早く脱したかった。プールの中に長々と留まっているうちに、湖底へと為す術もなく沈んでいた最中の記憶が、というよりも感覚や感情が甦り、居心地の悪さを感じ始めたのだ。
水流に従って歩を進めながら、プールから上がれる場所を探していると、前方五・六メートル右手に階段を発見した。
体の向きを四十五度ほど回し、一直線に突き進む。コースの左寄りを歩いていたため、流れに乗って進む人々を横切る形となる。迷惑をかける人数を少しでも減らすべく、移動速度を上げようかとも考えたが、実行には踏み切らない。そうした場合、人とぶつかる確率が高まり、その人に強いダメージを与える共に、自分自身も強いダメージを受けることになるからだ。
幸い、流れるプールの利用者は軒並み上機嫌なため、少々ぶつかったくらいでは怒り出さない。予期せぬ物理的な衝撃を受けたことに驚き、反射的に顔を向けてきたとしても、こちらが軽く頭を下げて謝意を示しさえすれば、旋毛から足の爪先まで納得し、自らの世界へと戻っていく。
階段まで二メートルを切ったところで、不意に何者かと接触した。ぶつかった際の感触が人体とは異なっているようで、確認のために振り向く。双眸に飛び込んできたのは、ピンク地に真っ赤な苺が散った浮き輪。輪の中に収まっているのは、ビキニタイプの、浮き輪にプリントされた苺と同じ、鮮やかな赤色の水着を着た十二・三歳の少女。自らの浮き輪に私がぶつかったことを気に留める様子もなく、私を一瞥することすらなく、水流に乗って先へ進んでいく。顔は見えなかったが、檸檬色のゴムで、少し茶色がかった黒髪を後頭部で結んでいる、という情報を掴むことができた。
柑橘系の淡い芳香が鼻先を掠めた。檸檬色の鮮やかさが連想させたのではなく、少女の髪の毛から漂ってきたものらしい。水に浸かるというのに、わざわざ香料をつけたのだろうか。それとも、昨夜のシャンプーの名残か。本人に問うてみれば、瞬時に解決に至る可能性が高い謎ではあるが、彼女は最早、私の目が届かない場所にまで行ってしまった。
少女にまつわる謎はもう一つある。私は彼女を十二・三歳だと判断したが、その年齢の少女が、ビキニなどという露出度が高い水着を着るものだろうか。
苺柄の浮き輪からは子供っぽい印象を受けたが、案に相違して派手好きなのか。恋人、もしくは片想いの相手と一緒に市民プールを訪れていて、自らを魅力的に見せるために、あるいは露出度を高めることで手っ取り早く心を掴むために、羞恥の念を抑えつけて着ているとも考えられる。それとも、彼女のような年齢の少女がビキニタイプの水着を着てプールに出かけるのは普通ではない、という私の認識が誤っているのだろうか?
内心首を傾げたのと、流れるプールから上がるための階段の一段目に右足をかけたのは、ほぼ同時だった。
清掃は毎日行っているはずだから、藻の類が付着しているはずはないのに、足の裏がどことなくぬめるようだ。鉄製のスロープにしっかりと掴まりながら、慎重すぎるほどに慎重な足取りで階段を上がる。
その最中、先程の少女は一見少女に見えるが、実際には女性と呼ぶのが相応しい年齢に達していて、だからビキニを着ていたのかもしれない、という考えが忽然と浮かんだ。
しかし、それ以上の考察は実施しない。階段を上り始めた時点で、プールの中で起きた出来事は全て忘れてしまおう、という気分になっていたからだ。赤いビキニの少女だけではなく、父親のことも。
理解不能な出来事に立て続けに襲われ、混乱しているのは理解できるし、同情もするが、冷静になって考えてみろ。お前の目的はベアトリーチェに到達することだ。それを失念してはならない。軽視してはならない。常に胸の中央に固定しておかなければならない。
ベアトリーチェに命を助けられたのだから、絶対に無駄にしてはいけない。到達されることを望んでいるからこそ、彼女は私を助けたのだから。
自惚れだとしても、勘違いだとしても、それで構わない。そう思い込み、信じ込み、原動力にしよう。
若い女性という共通点を持つにもかかわらず、ビキニの少女はベアトリーチェの変形かもしれないと考えなかったのは、なぜなのか? そのような疑念が脳裏を過ぎったが、黙殺した。
階段を上り切ると共に足を止め、周囲の状況を確認する。三十メートルほど進むと、左手にコンクリート造りの平屋の建物が建っていて、多くの人々が出入りしている。そちらへ向かって歩いていく。
半分に当たる十五メートルほど進むと、市民プールの敷地を区切っているらしい金網フェンスの前に差しかかる。金網には一か所、大きな破れ目が生じている。力士級の大兵肥満の男が三人横並びになって通っても、せいぜい右端の男の右肩と左端の男の左肩が金網に掠れる程度、といった巨大な破れ目が。
足を止めた私と、問題のゲートとの間に隔たる距離は、五・六メートル。フェンスの向こうの世界には、アスファルトで舗装された地面が広がっていて、何台もの車が停まっている。駐車場だ。
破れ目を通って市民プールから出よう、と私は方針を転換する。
破れ目を発見するまでは行き先と定めていた平屋の中には、更衣室があると推察される。私は水着姿なのだから、更衣室で着替えてから市民プールを後にするのが定石だ。
しかし私には、更衣室のどこを探しても、私の着替えは見つからない気がしてならなかった。その思いは、顧みてみれば、プールにいると自覚した当初から漠然とながらも抱いていた気がする。
私は、どのロッカーに自らの着替えを入れたかの記憶を有していない。ロッカーの鍵を所持していない事実からは、そもそも更衣室を利用していない可能性さえ疑われる。平屋の中に私の着替えが存在しないのであれば、足を運ぶだけ無駄だ。そんな思いが、破れ目の発見に伴って確固たるものになり、移動ルートの変更を決断させたのだ。
私の頭の中を覗いた者がいたならば、平屋に入って探してみなければ分からないだろう、と苦言を呈したかもしれない。もっともな意見だと思うが、実際に平屋に入り、更衣室で自らの着替えを探すのは、苦言を呈した者ではなく、私だ。その私が、平屋の中で私の着替えが見つかる可能性は低いと判断し、平屋に入る意思を放擲した以上、仮に探せば見つかるのだとしても、私の着替えは実質的には存在しないに等しい。存在しないならば、探す理由も、足を運ぶ理由もない。
唯一脱出を躊躇わせるのは、私が水着姿だということだが、平屋の中に着替えはないのだから致し方ない、と思うことにしよう。
私の父親に水着の在り処を尋ねる、もしくは探すのを手伝ってもらうという手も、あるにはある。しかし、彼は最早、私の視野の外に消えた。流れるプールから出た以上は、流れるプール内で起こった出来事は忘れると決定済みでもある。
今も流れるプールを延々と巡っているのか、既に出たのかは定かではないが、彼の存在は忘れてしまおう。父親は父親が望むように過ごす。私は金網フェンスの破れ目から駐車場に出る。それでいい。
急くことも勿体ぶることもない足取りで直進し、破れ目を潜り抜ける。
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