幻影の終焉

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 駅前の往来を歩いていると、個人経営らしきケーキ屋を見つけた。  外観からも、硝子越しに覗いた店内からも、特定の性別や年齢の人物を拒む雰囲気は感じられない。自動ドアを潜った。  硝子ケース内に陳列されたラインナップは、まずまず豊富だ。迷った末、苺が載ったショートケーキを二つ選ぶ。定番中の定番、捻りも何もないが、恋人への贈り物ではないのだし、まあいいだろう。支払いは千円札一枚を差し出せば事足りた。 「お釣りは募金でもしておいてください。ほら、この前もあったじゃないですか、大きな災害が」  釣り銭を返却しようとしてきたレジの女性店員に一方的に告げ、店を出る。店員はどの災害を念頭に浮かべただろう? 去年の今頃の天気くらいどうでもいいことだ。  ベアトリーチェは甘いものは好きだろうか? 出会った日、ソックリマンチョコに縫い針を刺していた件に関して、ストレス解消のためだと彼女は説明した。チョコレートを僕に勧めたくらいだから、甘いものは好き。きっとそうだ。  遠藤寺に会いに行っているのに、ベアトリーチェのことばかり考えている。  アパートの遠藤寺の部屋の前まで来た。インターフォンを押すのに抵抗を覚える。一人暮らしの妙齢の女性の部屋だからか。それとも、遠藤寺桐という存在が待ち受けているからか。  ケーキの袋をドアノブに引っかけておけば、遠藤寺とは顔を合わせずに済む。  そう思いつき、実行に移そうとした瞬間、気がつく。遠藤寺のもとを訪れたのは暇潰しが目的でもあるのだから、彼女に会わなければ意味がない。  何をやっているんだ、僕は。何をびびっているんだ、たかが遠藤寺ごときに。  苦笑をこぼし、改めてインターフォンを鳴らそうとした瞬間、ドアがひとりで開いた。  隙間から顔を出したのは、遠藤寺桐。昨日と同じメイク、髪型、服装。相も変わらず病的に青白い、幽霊じみた顔には、驚きの色が浮かんでいる。 「湯川くん、どうしたの?」 「えっと……」  いつだって第一声が一番難しい。事前に名目を用意していたので、今回はまだ楽な方だが。 「昨日、ほら、僕がここで人を待っている間、話し相手になってくれたでしょ。そのお礼がしたくて、ケーキを買ってきたんだ」 「本当に? うわー、ありがとう!」  目的を告げた際の驚きの表情と声も、直後の満面の笑みも、どこか大げさだという印象を受ける。遠藤寺のリアクションが不自然というより、滅多なことでは感情を表に出さないベアトリーチェと無意識に比較したから、だろうか。  ……ああ、また彼女のことを考えている。 「ちょうどティータイムだし、私の部屋で一緒に食べようよ。その箱のサイズ、二人分以上入っているよね?」 「うん、苺のショートケーキが二つ。でも、二人で一緒に食べるために買ったわけじゃないから、僕は無理に……」 「いいから、食べよう。家の中、ちょっと散らかってるけど、どうぞ。飲み物、紅茶でいいかな?」 「でも、悪いよ。遠藤寺さん、一人暮らしなんだよね。迷惑じゃないかな」 「湯川くんなら、迷惑どころか大歓迎だよ。さあ、入って」  そういえば僕は暇潰しがしたいのだった、と再び思い出し、苦笑をこぼす。遠藤寺の目には、あるいは照れ笑いに見えたかもしれない。 「じゃあ、お言葉に甘えて」  笑みの絶えない遠藤寺に続いて、ドアの内側へ。 「散らかってるけど」と謙遜した瞬間に察しがついたが、案の定、遠藤寺は部屋をそつなく片づけていた。  室内には、雌の匂い、としか形容しようがない匂いが充満している。体臭と化粧品の匂いが混在したそれだ。ワキガの人間が、自らの腋の下から悪臭が発せられている自覚に乏しいのと同様、遠藤寺からすればせいぜい「淡く漂っている」程度の認識なのだろうが、部外者の僕の鼻には強烈だ。系統としては、決して不愉快ではない。むしろ快い部類に入るが、その強烈さ故に萎縮を強いられる。 「ケーキをお皿に入れて、紅茶を淹れてくるね。座って待ってて」  勧められるままに、どんな内装の部屋にもマッチしそうな純白の座布団に腰を下ろす。遠藤寺はケーキの袋を手にキッチンへと消える。  一人になったところで、室内を観察する。女の子らしいデザインや色調の小物が多く、不自然ではない程度に女らしい、という評価が適当な風景だ。素人目には値が張る代物に見えるオーディオ、整然すぎない程度に整然と書籍が並べられた本棚、桜色の液体が僅かに残った何かの小瓶。僕の部屋よりも少し広い程度だが、僕の部屋と比べて格段に楽しげだ。  唯一違和感を覚えたのが、オーディオの右端に置かれたユニコーンのフィギュア。乳幼児が中に入れそうな巨大さで、灰褐色の体毛は古びて薄汚れた結果とも、元々そうだったともつかない。額から突出した角は鋭く、三十センチに達しているだろうか。デフォルメが効いた顔は、女性や子供の嗜好に合致しそうな愛らしさで、一定の年齢までの女性の持ち主としては何ら不自然ではない。  ただ、根拠は示しづらいのだが、この部屋には調和していない印象を受ける。  雌の匂いが充満する、女性らしい部屋に置かれた、女性の持ち物らしい巨大なフィギュアが放つ、確かな違和感。これはいったい何なんだ?  二人分のケーキと紅茶を手に遠藤寺が部屋に戻ってきた。木製のローテーブルに皿とティーカップが置かれ、ティータイムが始まる。 「あ、美味しい」  一口食べての遠藤寺の感想だ。 「口に合ったみたいで、よかったよ。初めての店で買ったから、不安で」  まあ、ケーキ自体滅多に買わないんだけど。 「紅茶はどう? インスタントなんだけど」 「うん、美味しい。ケーキにとても合う」  防がれることを前提にしたジャブをウォーミングアップ代わりに繰り出し合うように、他愛もない話をしながら、ケーキと紅茶の量を減らしていく。昨日別れてから、今日再会するまでの間、何をしたか。それが話題だ。 「今日の昼はファミレスで食事をしたよ」 「あ、そうなんだ。何を食べたの?」 「カレーピラフ」 「カレー味の料理、好きなの?」 「うん。ていうか、カレー料理が嫌いな人って、あんまりいなくない?」 「それもそうだね。日本人は好きだよね、カレー」 「でも、日本のカレーと違って、本場のカレーは凄く辛いんだよね。スパイスが効いていて」 「そうそう。日本人は何でも自国流にアレンジするが得意だから」  ああ、何という意味に乏しい会話! 遠藤寺が「湯川健次の暇潰し相手」という役目を神から命じられていないのだとすれば、彼女が暇人なのは間違いないだろう。  空疎。  中一の時の同級生とケーキを食べて、紅茶を飲んで、くだらない話をして――何なんだ、これは?  少量のホイップクリームを皿に残して、苺のショートケーキが尽きる。  紅茶が尽きる。  話題が尽きる。  遠藤寺は食器をキッチンへ片づけに行く。戻ってくる前に話題を見つけねばと、僕は軽く焦る。  いっそのこと、何もかもが尽きたのを潮に辞去し、ベアトリーチェの家まで行こうか? そうも考えたが、実行に移すとなると抵抗感を覚える。  僕はなぜこうも、彼女の自宅を訪問することを恐れているんだ?  知恵を絞って話題を捻出するのと、ベアトリーチェの自宅のチャイムを鳴らすのと、僕にとってどちらがハードルが低いだろう?  いっそのこと、ユニコーンのぬいぐるみを入手した経緯でも尋ねてみようか。波乱に満ちた、世にも素晴らしい物語が聞けるかもしれない。  投げやりな気持ちでそう思った直後、ベアトリーチェについて話す、という選択肢があることに気がつく。  遠藤寺が戻ってきた。元の位置に腰を下ろし、僕を見つめる。僕が何か言いたいことがあると察している顔つきだ。 「昨夜のことなんだけど」  勿体ぶるのも馬鹿馬鹿しいので、さっさと切り出した。 「昨日、遠藤寺さんと別れた後で『エンブリオ』の前の道を西に進んだんだ。神社とか駅なんかがある方向に。そうしたら、民家から大声が聞こえてきたんだけど」 「大声?」 「うん。男の怒鳴り声。驚いて思わず足を止めたんだけど、そうしたら食器か何かが割れる音が聞こえてきて、それからまた怒鳴り声が聞こえて、静寂、みたいな感じだったんだけど」  遠藤寺は相槌を打たないが、話題に一定以上の関心を抱いているらしい表情を見せている。自宅に近い場所で起きた出来事だから、だろうか。 「考えすぎかもしれないけど、DVとか、児童虐待とか、そういう犯罪の臭いがしたんだ。野次馬根性っていうのかな、そういうのって凄く浅ましいと自分でも思うんだけど、何だか気になって。その家について、知っていることがあったら教えてほしいんだけど」 「それって、後藤っていう人の家じゃない?」  絶句してしまう。いきなりその名前が出てくるとは。 「あ、門札は見なかった? 湯川くんが言及した家は、多分だけど――」  遠藤寺は後藤家の外観の特徴を羅列してみせる。今朝見た後藤家の外観の特徴とことごとく合致していて、驚きが深まった。こうも次々と言い当てられると、却って間違っているような気がしてくるものだが、羅列が終わった頃にはそのフェイズを通過し、遠藤寺が想定している人家と、僕が昨夜怒鳴り声を聞いた人家が同一だと、僕ははっきりと認めた。 「遠藤寺さんも、怒鳴り声を聞いたことがあるの?」 「声はないんだけど、物が壊れたみたいな音なら聞いたことあるよ。夜に前を通ると、結構な音量で物音が聞こえてくることが頻繁にあるから、やばい人が住んでいる家なんだなっていう認識は前々からあって」  ベアトリーチェに対する暴力は、あの日の一回だけではなかった。それどころか、日常的に行われている可能性が高い。  見る見る気分が落ち込み、何もかもがどうでもよくなってくる。極限まで飾りを削ぎ落とした表現を用いるならば、疲れた。同時に、僕に対する遠藤寺の役目は終わった、という意識も芽生えた。 「湯川くん。もしかしてその人、昨日言っていた、湯川くんが捜している人と何か関係があるの?」 「いや、全く関係ないよ。たまたま前を通ったら、そういう声が聞こえてきただけだから」  嘘だ。関係ないどころか、本人だ。  ああ、疲れたなぁ……。 「それにしても、どうしてそんなことをするんだろうね。僕は理解できないよ。誰が誰に暴言を吐いているのかは分からないけど」 「そう? 私は見当つくけどな、DVの加害者の正体」 「えっ?」  ローテーブルの天板に向けていた顔を持ち上げる。遠藤寺は僕から顔を背け、何者かに複数の糸で引っ張り上げられたかのような、どこかぎこちない挙動で立ち上がる。 「ごめんなさい、お手洗い」  黒衣に包まれた後ろ姿が遠ざかり、トイレのドアの向こうに消える。内鍵がかかる音が、何かを明確に拒絶するように響いた。  僕が考えている以上に、遠藤寺は後藤家のことを知っている。  遠藤寺はまだ、僕に対する義務を全うしていない。遠藤寺と会話をすることには、暇潰し以上の意味がある。  そんな確信に、思わず居住まいを正した。  ――正したのだったが。 「……遅いな」  キャビネットの上の置き時計が狂っていないならば、遠藤寺がトイレに入ってから既に五分が経過した。この時間以内に出てこないということは、あちらの穴を使用しての排泄、ということに必然的になる。生理現象だからやむを得ないとはいえ、文句をつける権利はないとはいえ、何となく嫌な気分だ。  もっとも、原因はそればかりではない。  僕に都合の悪い質問をされるのが嫌で、トイレに逃げ込んだのでは?  さらに五分が経過したが、音沙汰はない。トイレの傍まで行き、中の様子を探ろうかとも考えたが、女性相手にそれは流石に躊躇いを覚える。  ユニコーンのフィギュアが目に留まった。なぜかは分からないが、最初に見た時よりも造形が精巧に見えた。腰を浮かして身を乗り出し、手を伸ばして掴み取る。大きさから想像した通りの重さと、体勢の不安定さから、危うく取り落としそうになったが、咄嗟に指先に力を込めてその事態を回避する。  命の次に大切にしているフィギュアを勝手に触られたことに憤慨して、遠藤寺がトイレから飛び出してくるかもしれない。そう後づけしてみたが、ドアは開かれない。安全地帯の膝の上にユニコーンを置き、一息つく。  改めてその姿を眺める。相変わらず顔立ちは愛らしく、それと比べると、長い角が少し雄々しすぎるような、鋭すぎるような気がしないでもない。見れば見るほど巧みに作られているように感じられるのが不可解だ。  一通り眺めた後、フィギュアの後部に注目したことに深い意味はない。精巧な作りだが、見えにくい部分も手を抜いていないか確かめてやろう、くらいの軽い気持ちだった。  それを目の当たりにした瞬間、僕の体と思考は束の間、完全なる停止を強いられた。  臀部に穴が空いている。  直径は親指が入るほどで、深さは定かではない。内側はボディとは異なる、ボディとほぼ同色の素材でコーティングされている。手触りからゴムだと判明した。  位置的に、肛門を表現しているのだろう。しかし、記号としてではなく、比較的リアルに表現されている理由が腑に落ちない。  出し抜けに、慎ましやかなノックの音が聞こえた。  遠藤寺がトイレのドアを叩いたのかと思ったが、方向が違う。窓からだ。  僕のすぐ背後にある窓は、花柄のカーテンに分厚く覆われている。その合わせ目を掴み、左右に開く。  ベランダに馬がいた。成人男性でも乗馬可能と思われる大きな体を横に向け、首から先を室内に向けている。銀色の体毛は、白い体毛が汚れた結果なのか、地毛なのか、判断がつかない。額から斜めに突き出した角の長さは、一メートル弱にもなるだろうか。  その角を使って馬は――いやユニコーンは、窓硝子を二度、弱い力でノックした。  カーテンを閉ざす。  姿は隠れたとはいえ、今もユニコーンが窓のすぐ外にいるのだと考えると、とてもではないが呑気に座ってなどいられない。フィギュアのユニコーンを元の場所に戻し、玄関へ。 「遠藤寺さん、急用が入ったから帰るね。紅茶、ごちそうさまでした。――また来るから」  トイレのドア越しに言葉をかけ、部屋を飛び出した。返事はなかったが、荒い息づかいが微かに聞こえた気がした。  通路の手すり越しに見た西の空には、夕焼けの気配が滲んでいた。  一階に下り、アパートのベランダ側に回ってみたが、遠藤寺の部屋のベランダには何もいなかった。  遠藤寺の部屋で予想外の目に遭ったせいで、予定よりも一時間以上早く『エンブリオ』の自動ドアを潜ることとなった。  売り場を一通り見て回ったが、ベアトリーチェはどこにもいない。  店内の一隅に設けられた、飲食も可能な休憩スペースに足を運ぶと、椅子は客でほぼ埋まっている。夕食の時間には少し早いが、食事をしている者が何人かいる。  ソテツに酷似した観葉植物の傍らに空席を見つけ、腰を下ろす。同じテーブルに着くことになったのは、三名。  左手に座る、ハワイアンシャツを着た若い男性は、試合中のプロスポーツ選手を思わせる真剣な顔つきでスマートフォンを操作している。指の動きを見るに、ゲームをプレイしているらしい。  真正面に座っているのは、五十見当の、これも男性。環境のことなど気にしないで、店員からもう一枚もらえばいいのに。そう言いたくなるほど肥満した袋を膝の上に置いていて、その口からは青々とした大根の葉が覗いている。  椅子を引いた際、足が床に擦れて比較的大きな音が立ったが、二人は僕には見向きもしない。ハワイアンシャツの男性はゲームに夢中だ。中年男性は顔を後方に向け、視線を忙しなくさ迷わせていて、多少の物音に注意を払っている場合ではないらしい。買い物をしている連れの帰りを待ち侘びているのだろうか。  同席の三人の中で唯一、右手に座る三十過ぎと思しき小太りの男性だけが、椅子の音に反応して僕の方を向いた。弁当を食べている最中で、箸につまんだおかずを口に運ぼうとしていたが、視線と注意が箸から僕へと移った拍子に手元が狂ったらしく、つまんでいたものがテーブルの上に落下した。  双眸は僕へと向けられていたが、箸にかかる重みが消失したことで、おかずを落とした事実に気がついたのだろう。男性はテーブルに視線を落とし、再び僕の方を向き、眉をひそめて舌打ちをした。落ちたおかずに注目を戻すと、箸ではなく手でそれを掴んで口に入れ、おしぼりでその手を拭き、眉根を寄せた表情のまま食事を再開した。食べているのは、天丼弁当。  ベアトリーチェと出会った日、上げ底をしてあることを理由にカツ丼弁当を選択せず、幕の内弁当を買ったことを思い出す。男性は、体型的には健啖家に見える。丼物の弁当は量が見た目ほどは多くない、という事実を知らないのかもしれない。  店の出入口に近い場所にあるという立地を活かし、客の出入りに絶えず目を光らせたが、ベアトリーチェの姿は視界には映らない。  相席の中年男性と、どちらが先に相手を見つけられるだろう。  そう思った瞬間、中年男性がおもむろに椅子から立ち上がり、レジ袋を手に休憩スペースから出て行った。通路の真ん中で、ショッピングカートを押した温厚そうな中年女性と合流し、そのまま店を出る。  僕は僕、彼は彼だとは分かっていたが、溜息をつかずにはいられなかった。  空になった弁当箱をゴミ箱に押し込み、舌打ちをした男性が舌打ちをせずに去る。僕が着いたテーブルの椅子が二脚空いたことになるが、新たに座る者は誰もいない。夕食をしたためるには遅い時間になり、スペースを利用する人間の数が減ってきているからだ。  僕とハワイアンシャツを着た男性、どちらが先にテーブルを離れるだろう。  そう思って数秒も経たないうちに、予感していた未来が現実と化した。男性がスマートフォンをハワイアンシャツの胸ポケットに仕舞い、休憩スペースを後にしたのだ。  全く、どうなっているんだ?  メカニズムならば理解している。彼らには現在地を離れる何らかの理由があった。僕はない。ただそれだけのことなのだと。  窓外に目を移すと、真っ暗でこそないものの、かなり暗い。何片もの灰色の雲が、西から東へ、夜空を緩慢に横切っていく。  何が終わろうとしているのか。  何が始まろうとしているのか。 「神が定める、定めた、定められた……」  昨日今日の遠藤寺桐との対話のどこかで、神という――言葉? 存在? 概念? とにかく神を、より正確に言うならば神的なものを、意識した瞬間が確かあったはずだ。真相を確かめる術は最早ないが、そんな記憶が残っている。  どのような思考の流れの中で、思考の流れのどのようなタイミングで現れたのかは、全く覚えていない。最新ではたった一時間ほど前の出来事とはいえ、彼女との会話は全くのアドリブだった。予め台本が用意されていたならば、思い出すことも容易だったのだろうが。  休憩スペースに存在する人間は、いつの間にか僕一人だけになった。まだ夜の早い時間帯であることに加え、来店当初の空席を見つけるのが難しかった状況を思えば、異常にも思えるが、現実と化した以上は現実だ。神がお得意の気紛れを起こし、少々奇異な筋の脚本をしたためた結果なのだろう。  神が執筆した脚本。その通りに動く、人、生物、事象。  似たような考えを抱いたことがある人間は、地球史上、何兆人もいるだろう。しかし、僕史上では恐らく初めてだ。 「神の操り人形、か」  始まりはこの世に生を享けた瞬間。それは理解できる。では、この人形劇が終わるのはいつなんだ? そして、誰が、どのような形で終わりを告げるんだ? 事前に予知する術はあるのか?  それは神のみぞ知る。そう言ってしまえばそれまでだが……。  俯いていた顔を、おもむろに店の出入口へと向ける。僕の予測では、視線を転じた直後に、純白のタンクトップにブルージーンズという出で立ちの小柄な少女が、自動ドアを潜って入店するはず――だったのだが、誰も入ってこない。しばらく待ってみたが、僕の双眸にはメデューサのように生物を石化させる能力が備わっていて、それを恐れているかのように、出入りする客自体が皆無だ。  己に都合のいい未来を予測した時点で、その未来が実現する道は閉ざされた、ということなのか? だとしたら、僕の人生に光は射さないことにはならないか?  悪態の代わりに溜息をつき、僕は休憩スペースを後にした。  出入口の自動ドアを潜り、何気なく店舗を振り返った拍子に、鎖で繋がれていた女児のことを思い出した。目撃した当初はかなりの衝撃を受けた記憶があるが、現在に至るまで一度も思い返さなかった。  女児が鎖に繋がれている映像を思い返してみたが、あの時のように心が揺さぶられることはない。 「……何がどうなっているんだ」  答えてくれる者は誰もいない。  この世界が終焉を迎えたにもかかわらず、僕だけが終焉していないみたいだった。
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