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昨日よりも早くパート先に着いてしまった弥生は今日入荷された本を一人で荷車から降ろしながら、昨日のことをぼんやりと考えていた。
あの後、洋介は自分が達すると、そのまま行為を止めて眠ってしまった。
弥生は絶頂に達さず、もどかしい気持ちを抱えながら眠るしかなかった。
腹の中心から広がるもどかしさは、まるで奇妙な生物のように胎動して自分の存在感を示し、弥生が黒く塗りつぶして誤魔化そうとしても湧き上がるように出てくる。
よく懐いた猫の様に体をこすり付けながら、その奇妙な生物は耳元で鳴く。
甘い砂糖菓子のような鳴き声ではなくて、べたべたの蜂蜜にシロップを混ぜたような過剰な甘さで鳴く。まるで雄猫が雌猫を呼ぶような声で。
『声を発して、自分の発情を誰かにアピールしろよ』
そう言っているかのような鳴き声。
頭に響くその声が眠りを妨げた。
目を閉じて開けたら、起きる時間の五分前で、眠った気がしなかった。
仮眠したい。昼休憩まであと、何時間だろうか……。
時間を見ようと左腕を見たら、腕時計が無い。
疲れの所為でするのを忘れていたようだ。
仕方なく、壁掛け時計が見える位置に移動すると、大学生ぐらいの男がこちらを見ていた。
「おはようございます」
華奢な体つきから発せられるその太い声は、何だかミスマッチだった。
フロアの電気が全部点いていない薄暗い中で彼の顔を確認しようと弥生は目を細めた。
全ての顔のパーツを確認したが、ここに居る店員の誰にも似ていないことに気付き、眉間に皺が寄る。
「お、おはようございます」
明らかに怪訝な顔をして挨拶をする弥生に向けられたのは、困り顔だった。
「あの……、こちらでバイトとして今日から入ります郁仁真いぐに まことと言います……。あの、店長様は?」
弥生はその言葉を聞いて、内心で溜息をつく。
『また結城さん、伝達するの忘れてるよ』
結城は幾度かこういうミスをしていた。
弥生が初めてこの場所に来た時も誰にも伝達されておらず、キョトンとした顔を向けられた。その直ぐ後に到着した結城は「おはよう、この人今日から入るからね」と言った後、皆の驚きの顔を見て事態を把握し、すぐさま「あ、もしかしてアタシ、忘れてた……?」とバツの悪そうな顔をしていた。
この「もしかしてアタシ、忘れてた?」は弥生がこのパートに入ってからも何度か聞いていた。
温和な物腰と丁寧な接客、それに今日何の本が入ったのかを、明日には何が入るのか、今の売れ筋はどんなジャンルの本なのか……、仕事に関することの全てが入っていると言っても過言ではない彼女の、新人を忘れる癖だけはいつまで経っても改善されない。
眉間に皺を寄せながら少し昔を思い出していた弥生は、はたと気付いて目の前に居る『忘れられた新人君』に笑顔を向けた。
「まだ出社してないから、こちらの休憩室へどうぞ」
先導して歩き出した直後に、後ろから「おはようご……」と中途半端で挨拶を止めた声が聞えた。
振り向くと、バツの悪そうな顔で立ち尽くす結城の姿があった。
「おはようございます」
礼儀正しく挨拶する真の声でなお一層結城の顔がバツの悪そうな顔になり
「ええと……、アタシ……、忘れてたみたい」
と、言うと弥生は溜息をつきながら、言う前に気付いたから少しは成長してるのかも、と一人納得した。
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