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『ママ、ごめん』  そんな件名で来た美樹からのメッセージを読んだ弥生は、目の前にある弁当箱を見つめながら、途方にくれた。 『絵のコンクールが近いから』と言って洋介よりも早くに家を出た美樹は、見事に弁当を忘れた。自分の分はもう既に弁当箱に詰め終わり、出勤の際に持っていく鞄に入れてある。  ……一つ余分だ。  明日の分として使う訳にもいかない。  かと言って、捨てるのも何だかもったいない話だ。  いっそのこと、誰かにあげた方がいいかもしれない。  そう思った弥生の脳裏に、真の顔が浮かんだ。  そう、いっそ真にあげれば話をするキッカケにもなるし、恩だって……。  下世話な思いが浮かび、頭を横に振りながらその浮かび上がった泡のような思いを細かく散らしていく。  しかし、泡は細かくなるだけで、浮き上がり、その存在を消そうとはしない。  水面に出て弾ける瞬間、弥生の心に波紋を残して、揺さぶりを掛けてくる。  波紋は心のそこら中で多発的に起こり、水面を歪ませる。  波紋に揺れる弥生の背中を、誰かが叩いた。 「おはよう、朝メシまだか?」  洋介だった。  焦った弥生は、弁当箱を持ちながら体を強張らせた。 「お、おはよう。急に話しかけないでよ、ビックリするじゃない」  デリカシーが無いのね、という言葉を含みながら、そう言うと、洋介は少しムッとした。 「何度も『おはよう』って言ったんだけどな」  考えの中に沈んだ弥生の耳には、思考という名の水が入り込んで、洋介の言葉を遮っていたようだった。  いつもならそれでも、声がしたことぐらいは直ぐに分かった筈だった。今日は深く沈みすぎて、鼓膜を押した圧力が大きくて、どんなものも耳に届くことが出来なかった。  真のことばかり考えていたから深く深く思考の海に潜りすぎてしまったのだ。 「ごめんなさい、気付かなかったわ」  弥生が困り顔でそう言うと、洋介の眉間の皺は無くなった。 「まあ、いいさ。……、あれ?美樹の奴、弁当忘れたのか?」 「ええ……」  ドキリとした。  このまま『じゃあ、俺がたまには弁当食うよ』と言ってきたら、洋介に渡さなければならない。真に渡せば、キッカケを作れるこの弁当を。 「そうなのか……、アイツも間が抜けているな」 「そうね……。まあ、私の分として食べてしまうわ」 「そうか、残念だな。たまには弁当代浮かせようと思ったのに」 「明日からお弁当作る?」 「いいよ、会社の弁当の方が作るよりは安いし、やめておくよ」  洋介はそう言って新聞を広げた。  弥生は洋介の朝食を手早く並べ終えた後、部屋に戻り、自分の鞄の中に美樹用に作った弁当を入れる。美樹の為に作った弁当の下には、今朝方用意した自分用の弁当が入れてある。間にハンドタオルを挟んで上手くカモフラージュした鞄を見て、弥生はホッと胸を撫で下ろす。  胸中では、真に弁当を渡すことが出来ることの喜びと、洋介を騙したことの罪悪感が斑模様になりながら同居していた。
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