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6
「ただいま」
風呂上りの美樹と弥生が話をしていると、扉の閉まる音と共に玄関から洋介の声がした。時計を見ると針は九時を指す寸前で、いつもよりも一時間ほど遅い帰宅だった。今日は何かトラブルがあったのだろうか。
「おかえりなさい」
自分が言うよりも、先に美樹に言われてしまった。
「おかえり」
「ああ、ただいま」
「ご飯、いるわよね?」
「ああ」
直ぐに席を立って、芋のハンバーグをレンジに入れて時間を指定してスイッチを入れた。洋介はネクタイを緩めると青色の茶碗に自分でご飯を盛り付ける。以前にご飯の盛り付けが少ない、多いで小競り合いが起きて以来、洋介は自分で茶碗にご飯をよそうようになった。無駄な小競り合いを起こさないのは、夫婦生活を長く続けるコツでもある。それを互いが知っていた。
テキパキと準備を進め、夕食を揃えると、洋介は両手を合わせて「いただきます」と言って、食べ始めた。
「ほら、美樹。そろそろお風呂に入っちゃいなさい」
「え~、まだ早いよう」
「それに明日の授業の準備とかしないといけないんじゃないの?」
「ん?美樹、まだ何もしてないのか?もう九時だぞ……」
「はあ~い」
美樹はバツが悪そうな顔をしながら、自分の部屋へといそいそと戻っていった。
「もう、あの子ったら……」
弥生の言葉を聞いてないのか洋介は夕食を摂り続けていた。
静かな台所に、箸と食器の音だけが響く。
その沈黙を珍しく洋介が破った。
「なあ……、今日君から変なメッセージが届いたんだが、どうした?」
「え……、なんのこと?」
「ん……、何だか君らしくないメッセージだったからな。絵文字も多用してたし、何だかくすぐったくなるような言葉ばかりで驚いたんだが」
美樹の仕業だった。
「ああ、美樹に返信してもらったんだけど、そんなに変なメッセージだったの?」
「ああ、美樹か……。道理で、な」
「ねえ、読ませてよ」
「自分のアプリに入ってるだろう?」
洋介に軽くたしなめられ、弥生は自分のスマホを開いた。
『洋介さん、早く帰ってきてよお(ハート)寂しいわ(破れたハート)もうっ!こんなに遅くなるなんてアタシを愛してないのね!離婚よ離婚!帰ってきてキスしてくれなきゃ離婚なんだからね!』
タオルで口元を押さえながら笑ってしまった。
「な、君が送ってくるにしてはなんだか変だったから、ビックリしたよ」
「こんな絵文字、打ったこと無いわよ」
ころころと笑いながらスマホを閉じると、洋介が真剣な顔でこちらを見てきた。
「指、どうした?」
「え?これ?」
「ああ……。見せてみろ」
右手を洋介の前に差し出すと、洋介が手を優しく握った。
ゴツゴツして少し冷たくなってる手の感触がする。学生の頃よりも少し肉が付いたが、今でも十二分に魅力的な手だ。
「何かで切ったのか?」
「ええ、ジャガイモを擦ってる時に、ちょっと……」
「気をつけろよ」
そう言った後、目を見てホッとした溜息をつく洋介を見て、胸の内側が満たされた。手を離そうとする洋介の手を握りながら、弥生は隣に座った。
「キスしてくれなきゃ、離婚よ」
「おいおい、悪ふざけは……」
「だって、メッセージに書いたんですもの」
「それは美樹が……」
「いいから、早く。洋介さん」
目を閉じて、洋介の唇が触れるのを待つ。
少しの沈黙の後、手を少し強く握られた後に唇が重なった。
ケチャップとソースの香りのするキスは、少し荒くて、刺激的だった。
「なあ、弥生……。たまには、しないか……」
恥ずかしそうにそういう洋介の声に弥生は大きく頷いた。
美樹の部屋のドアの開く音がして、二人は何事も無かったかのように離れて、平静を装った。
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