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【00】老女
『それでねぇ、魚屋の良助さんたら、アタシに色目を使うもんだから、奥さんの久恵さんにバレてねぇ。ええ、ええ、そりゃああたしは昔はたいそうな美女だったから、仕方無いんですよ。良助さんだけじゃないんだもの。八百屋の敏夫さんも、デパートにお勤めの金一郎さんもですよ。みんなあたしが好きでね…』
もう何時間、話続けているんだろう。
この老女は。
眠いのに寝ることができない。
頭の中に直接話しかけてくる。相槌ひとつ打つ暇がないほど、老女の語り口は早かった。
大体、脳に直接話しかけてくるものに、返答のしようがなかった。
一方的に話されるというのはこんなに疲れるものなのか。
渚は魘されながら、そんな風に考えた。
「それでね、その殿方たち全員と……ふふふ、つまりはそういうことなのよ。男達は体が欲しいのよ。いつの時代もね」
いつの時代も、老人の語りは長いということか。
明日には久遠が編集部の温泉旅行から帰ってくる。
それまで我慢しなければ。
今回ばかりは、絶対大丈夫、と見栄を切ったのだから。
久遠がお守りにかけてくれた呪文。
あれは確かに効いたのだ。
ただ、渚はその守りを幼子にあげてしまった。
そうして幼子についていたこの『語る女』が渚についたのだった。
『早く帰ってきて。久遠先生。このままじゃ、おかしくなってしまう』
取りつかれて僅か一日。
けれど、一日中話しかけられているのは、相当なストレスだった。
渚は祈るように、久遠の帰りを待った。
明日まで、自分の正気が保てることを信じて。
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