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 ポーン  エレベーターが6階に到着した。  上の階層はテナントではなく事務所や、住居スペースとして使われているらしく、窓のない薄暗い廊下の両端には束ねた新聞紙や割れた花瓶、つぶされたアルミ缶の詰まった袋などが、やや雑然と積まれてあった。  どこかの部屋からテレビの音が漏れてきている。  香ばしくソースの焦げる匂いは焼きそばでも作っているのか。  部屋番号の横に掲げられた手書きの表札を一つ一つ眺めながら、あたしは今が土曜のお昼時で、本当なら好きな男の子といっしょにランチを食べながら 「これからどうする~?」 なんて楽しい相談でもしているはずの時間だったことを苦々しく思い出していた。  安堂くんは一番奥の扉の前までくると足を止めてこちらを振り返った。 「ここ?」 「犬が居るから気をつけろよ」  安堂くんはそう言ってから、呼び鈴を押した。 「美帆子さん、祥一です」  扉の向こうは静まりかえって物音ひとつしない。  どこかの部屋でトイレの水を流す音がした。 「留守なんじゃない?」    そのまま30秒近く待ってから、あたしはついにそう訊いた。 「いるよ。ただ年だからさ、遅いんだよ」  安堂くんは何度目か、鉢を抱え直しながら言った。 「だれが、年だって?」  扉の向こうからしわがれた声がした。 「開いてるよ、入ってきなさい」  あたしは安堂くんのかわりにノブを回して扉を開けた。 「ぎゃう!」  次の瞬間、なにか毛むくじゃらで黒っぽくてとてつもなく敏捷な何かに飛びつかれて、あたしは奇妙な悲鳴を上げてのけぞっていた。   ハッハッハ   それはあたしの肩に前足をかけて立ち上がり、顔を寄せてあたしの頭の匂いを嗅いでいる。  縮れた黒い毛の間から、虹彩のない金色の瞳がちらりとのぞき、その下に長い鼻、赤い舌の垂れた横長の口。 「ヤダヤダ! あっちいってよ」  とっさに前足をふりほどいて、あたしは後ずさった。  それは床に着地すると、素早く身を翻して部屋の奥へ駆け去って行った。  その動きは速すぎて、残像がまるで黒い布のようだった。 「なな、ななななに? 今の」  動揺するあたしの脇を通って安堂くんが鉢を運び込む。 「なにって、犬だろ」 「ウソっ」  あれのどこが犬なのよ、と言いかけたが、奥からこの部屋の主らしい老婦人がよろよろとした足取りで出てきたので口をつぐんだ。 「キリンジーが悪ふざけしたようだね、あれは人なつこいがね、悪気はないんだよ」 「はあ」  仕方なくあたしは頷いた。  現れたのは白い髪を高く結い上げた背の低い老婦人で、 「いいモノが手に入ったね、これでしばらくは材料にはこと欠かないよ」  安堂くんが運び込んだ植物の葉をしげしげと調べて、満足そうに頷いた。 「沙也香は店を閉めるらしいじゃないか、どこか遠くへ旅にでもでるのかい?」 「そういえばインドがどうとか言ってました」 「インド? あちらは人手不足なのかい?」 「というより、人が多すぎるんじゃないですか」  安堂くんは陶器の鉢を老婦人の指示した場所に置くと、ようやく使えるようになった手で額の汗をぬぐった。 「お茶を飲んでいきなさい」 「せっかくだけど、また今度にします」  安堂くんは部屋の奥にちらりと視線をやった。 「キリンジーならカゴにでも閉じ込めておくよ」 「犬もヘビも苦手なんです」 「お菓子を焼いたところなんだけどね」 「お土産なら遠慮なくもらっていきますよ」 と、安堂くん。  何を言われてもこれ以上奥へは足を踏み入れたくないらしい。  老婦人はふふふっと笑った。 「そうかい、それじゃあ沙也香によろしく伝えておくれ」 「こないだ美帆子さんが調合してくれた薬、よく効いたって喜んでましたよ」 「そりゃそうだろう、医者には作れない秘薬だよ」 「また作ってくれって」 「次の満月までには調合しておくよ」  扉がしまると、ほっとした。 「こんなビルで、犬……動物なんか飼っていいの?」 「美帆子さんはこのビルのオーナーだよ」  エレベーターに乗り込み壁にもたれて安堂くん。眠そうにごしごし顔をこすりながら教えてくれた。 「すごい。お金持ちなんだ」  薄暗いビルから出てくると、風が涼しくて気持ちよかった。 「不思議な人だね」  あたしはビルを見上げた。  日射しが眩しい。 「うちのばあちゃんと同窓生だったらしいよ」 「小学校の? それともえっと女学校とか?」 「さあ、よく知らないけどそんなもんかな」  なにげなく聞き返したあたしに、安堂くんはなぜかどぎまぎと語尾を濁した。 「ふうん。ねえ、おばあさんのお店ってどこにあるの? 遊びに行ってもいい?」  そんな安堂くんの様子に興味をひかれたってわけじゃないけど、あたしは聞いていた。  家に帰るには早すぎるし、街をぶらつくのも一人じゃつまらない。  安堂くんはしばらく考え込んでいたが、やがてうなずいた。 「いいよ」  あたしはほっとして、安堂くんのあとをついて行った。
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