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 それらしい看板も出ていないし、花屋だ、と説明されなければうっかり見過ごしてしまいそうな屋敷だった。  ぐるりと敷地を取り囲む白い石壁、アンティークな鉄製のアーチをくぐると見上げるようなソテツが植えられた芝生の前庭があり、石張りの歩道でその前庭を突っ切った先に、レトロな洋風の家が建っている。  玄関のドアを開けると、カランコロンとベルが鳴り、天井の高いホールから飴色に磨き上げられた長い板張りの廊下が奥へと続いている。 「ただいま」 「お邪魔します」  廊下の右側には木製の扉がならび、左側は額縁のある大きな窓になっている。  安堂くんの後について歩いていると  コポコポ、コポコポ    建物のどこからか不思議な音が聞こえてきた。  懐かしいような物悲しいような優しい音だ。 キョロキョロと視線を巡らせるあたしに気付いて安堂くんが歩調をゆるめた。 「水の湧く音だよ、地下から水を引いてるんだ」  廊下の突き当たりを右に折れると、ガラスの引き戸があり、その向こうにしたたるような濃い緑のジャングルがあった。 「わぁ」  空気にまでさわれそうなほど湿度の高い室内には、足の踏み場もないほど様々な植物が、ランダムなレイアウトで植えられていた。  肉厚の大きな葉をつけた見慣れない木々、垂れ下がる斑模様のツタには鮮やかに赤い多弁な花が群れ咲き、水鉢には睡蓮の花。  巨大なシダ植物の葉陰をくぐると、見たこともない艶やかな青いハネを持った蝶の群れが乱れ舞う広い場所に出た。 「ばあちゃん」  安堂くんは、籐の長いすに寝転んで本を読んでいた女の人に声を掛けた。 「おかえり、ご苦労さま」  あたしはぎょっとして安堂くんを見た。  ばあちゃん、と呼ばれた彼女が、どう見ても40代、いやもしかしたら30代後半、という若さだったからだ。 「あら、お客さん? ごめんなさいね、ここにあるのはもう売り物じゃないのよ、お店を閉めることにしたの」  彼女は読んでいた本を、正確にはインドの歩き方の本を、テーブルに伏せて立ち上がった。 「い、いえ、あの」 「同級生だよ」  口ごもるあたしのかわりに、安堂くんが紹介してくれた。 「まあ、そうなの。祥一がお友達を連れてくるなんて珍しいわね」 「はじめまして、西井瑞穂です」 「沙也香です」  と沙也香さんは言った。  安堂くんとの続柄についてはなにも言わなかったので、あたしはますます困惑した。 「美帆子は元気にしてた?」  沙也香さんは安堂くんに訊ねた。 「薬は満月までに作っておくって」 「ありがたいわ」  と沙也加さん。 「瑞穂ちゃん、お花は好き?」  あたしを振り返って尋ねた。 「見るのは好きです。でも花の名前なんか全然覚えられなくて…」  あたしは正直に言った。 「花の色には意味があるのよ。花弁の数も蜜の濃さも決して偶然ではないの」  そう言って、かたわらの鉢植えを持ち上げる。  小さな黄色い花が無数についている。 「お花屋さん、やめちゃうんですか?」 「ええ。とても楽しかったしここはいい街だと思うけど、長く居すぎたのね、最近、怪しまれちゃって」 「怪しまれ……?」 「そうなの、三十年以上も姿が変わらないと、さすがに変に思われちゃうのね」 「あ~ごほんごほん」  意味がわからずきょとんとしているあたしの前で、安堂くんが大きく咳払いをした。 「あら、風邪? 美帆子に風邪薬を調合してもらえばよかったのに」 「湿疹が出るんだ、美帆子さんの薬」 「動物性の成分が多すぎるんだわ」  沙也香さんは綺麗な眉をしかめた。 「お店は閉めるけど、この温室の世話は祥一に継いでもらいたいと思っているの」  鉢を元の位置に戻して、沙也香さんは言った。 「ここでしか栽培できない植物もたくさんあるのよ」 「そうなんですか……」  あたしは感心してうなずいた。  頭の上には幾重にも重なり合って繁る明度の違う緑があり、そのさらに上はドーム状のガラスをはめ込んだ天窓になっている。  温室の広さはここからではわからないが、空気に流れがあり、かなり奥行きがあるようだった。  水は天窓の真下の泉から湧き出ていた。  石囲いをした小さな源泉から延びているあの幾筋かの水路が、この楽園を養っているのだろう。  安堂くんはあたしたちの会話には加わらず、樹の根元に落ちた葉や枝をかき集めたり、バケツに入った液肥を撒いたり、細々と忙しそうに立ち働いている。  そういえば、バイトだと言ってたっけ。  沙也香さんはそんな安堂くん働きぶりをしばらくじっと見詰めていたが、やがてふりかえると 「そうだ、お腹すいてない? お茶の用意が出来てるわ。召し上がって行ってね?」 とあたしにすすめてくれた。  テーブルの上には、いつのまにか新しいクロスが掛けられ、湯気の立つティーポットと焼き菓子を満載したトレイが乗っている。 「今日のおやつはブラウニーよ」 「クルミは入ってないだろうな」 「好き嫌いはだめよ」 「レーズンは?」 「あれはあたしも嫌いだわ」  安堂くんがあたしのために椅子を引いてくれた。  でもあたしは動けなかった。    いつのまにか?  この温室には、あたしたち3人しかいないはずなのに。
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