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「どうかした?」  沙也香さんは小首を傾げて不思議そうな顔をしている。  不意に何もかもが不自然な気がして、あたしは後ずさった。  住宅街の真ん中に水の湧き出る温室、同級生の妙齢の祖母、忽然と用意されたお茶のセット。  湿度と熱気に眩暈がして、あたしはそばの木の幹に手をついた。  腐熟した熱帯の花から立ち昇る濃厚な蜜の匂い、頭上の枝をなにか小さな獣が渡ってゆく。  蜂たちの羽音、燦めく瞳をした大きな猫。    猫? 「きゃあ」  大きな、とてつもなく大きな、闇色の猫が藪の中からのっそりと姿を現し、あたしの膝にぐりぐりと額を押しつけた。 「レイン、どこへ行ってたの? 昨夜は帰らなかったじゃない」  沙也香さんが甘やかす口調でレインを問い詰める。 「にゃー」  とレイン。  わざとらしいほどはっきりとした発音でわざわざ「にゃー」と言ったようにあたしには思えた。 「これ、猫なんですか?」  失礼も顧みず、あたしは聞いていた。  沙也香さんは笑って 「大きくて特別な猫なの」 「特別?」 「雨乞いが出来るの、特待生だったのよ」 「???」 「冗談だよ」  ますます面食らってしまったあたしに、安堂くんが言った。 「まあ失礼ね、祥一」 「だって困ってるじゃないか」 「でも名誉なことなのよ、主席で卒業したし」  レインの首に腕をまわして、沙也加さん。  なんだかさっきより大きくなってる気がする。 「卒業って何の学校ですか?」 「なにって魔法学校よ」  沙也加さんはてらいなく答えた。 「は?」  その時、ダージリンの繊細で華やかな香りが舞い上がってあたしの鼻腔を刺戟した。  優雅なアフタヌーンティ。  あたしが何か不足があって席につかないと考えたかのように、三段のケーキスタンドまで立ち現れている。  三分前までは、絶対にテーブルの上に存在していなかった物だ。 「スコーンだわ」  沙也加さんが嬉しそうに言った。 「あの、あの」  あたしは口をぱくぱくさせて、安堂くんを見た。  安堂くんは嘆息して、 「手品だよ」 と見え透いた嘘をついてくれた。  その方があたしが安心すると思ったのだろう。 「いい加減にしなさい、祥一」  沙也加さんが咎めるような眼で安堂くんをにらんだ。 「瑞穂さんは何か悩みを抱えてるんじゃない? だからこの庭へ入ってこれたのよ。庭が選んだゲストなの、歓迎されてるのよ」  落ち着き払って安堂くんを諭した沙也加さんは、手に取ったスコーンにこってりとしたクリームをたっぷりと載せてあたしに差し出した。 「不思議なコトは嫌い? おまじないとか占いとか」 「いえ、大好きです」 「そうよね、女の子ですもの」  スコーンは酸味のきいた軽い生地で焼き上げてあって、こくのあるクリームと一緒にほおばると夢のように美味しかった。 「おいしい!」  思わず声を上げたあたしに、沙也加さんはにっこりと笑ってくれた。 「でしょでしょ!? やっぱりあなたは歓迎されているんだわ。祥一なんか放っておけばいいのよ、所詮男ですもの、理屈っぽくてしょうがない」 「悪かったな、理屈っぽくて」 「やだ、拗ねたわよ」 「………」  むすっとした表情で腕を組んで、安堂くんは沈黙した。 「あなたが信じようと信じまいと、レインは砂漠に雨を降らせることのできる世界で唯一の猫だし、あたしはちゃんと箒にも乗れる魔女なの」  信じようと信じまいと、現にあたしが飲み込もうとしているこのスコーンはテーブルから湧いてでた代物なのだし、さっきからいくら注いでもティーポットの中身が減った様子はないし、レインは今や黒豹ほどの大きさになってながながと籐椅子に横たわっているのだから、沙也加さんが魔女だというならそうなのだろう。   熱くて甘いお茶と香ばしい焼き菓子を前に、コトの整合性を考えるのはなんだかとても億劫な気がして、あたしは安堂くんが引いてくれた椅子に腰を下ろした。 「心に掛かることがあるんじゃない?」  沙也香さんが優しく聞いてくれた。  そこであたしは賢悟のことを話そうとした。  でも。  幾層もの緑に濾過された清浄な空気と絶え間なく湧き出てくる水の音に囲まれていると、胸にくすぶっていた怒りは取るにたらない瑣末な事柄に思えてきて、あたしは首を振った。 「もういいんです、ここにいるとなんだかすっきりした気分になっちゃって」  あたしが言うと、沙也香さんはそお?と首を傾げた。 「じゃあ、学校の事を聞かせて? 祥一はちゃんと勉強しているのかしら」  聞き上手な沙也香さんの話術にはまり、あたしはいつのまにかおしゃべりに夢中になっていた。  楽しい時間はあっというまに過ぎてしまい、 「お店をたたむ前にあなたに会えてよかったわ」  3杯目のお茶を飲み終えると、この奇妙な茶会はお開きになった。 「おいしいお茶をごちそうさまでした」  安堂くんは巨大な羊歯の葉をかき分けて、もう先に行ってしまっている。  あたしはスカートにこぼれたお菓子の粉を払って立ち上がった。 「どういたしまして。久しぶりに女同士のおしゃべりが出来て楽しかったわ」  そのあと、沙也加さんは安堂くんが消えたあたりの茂みをちらりと見ながら声をひそめてこう言った。 「祥一はね、ロマンチストではないけれど、恋占いでは外したことがないの、さすがあたしの孫だと思わない?」  その口調はちょっぴり誇らしげで嬉しそうで、やっぱり孫というのは可愛いものなのか、とあたしは変なところに感心してしまった。 「じゃあね」    レインは組んだ前足にアゴをのせてうつらうつらしている。  天窓から差し込む淀んだ光の中を、蝶の群れが魚のように自在に漂ってゆく。  羊歯の葉をくぐる前にそっと振り返ったら、沙也加さんはもう籐の長いすに横たわって本を読みはじめていた。  安堂くんは玄関の扉を開けて、あたしを待っていてくれた。 「帰り方、わかるよな?」 「うん、ありがとう」  門を出ると、いきなり喧噪が耳によみがえってきた。  眩しい太陽を片手で遮りながら、あたしはゆっくりと来た道を戻りはじめた。  
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