番外編/名前は知らない

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その時の自分の言葉を、俺はいまだに後悔している。 「え……、まじっす?」 「あはは、まじだよ」 「いやでも俺も全然そういうのわっかんねーし、一緒、っすかね?」 「一緒かなあ?」 「これからめっちゃ好きな女子とかできるかな~と思ってます」 だから春さんも大丈夫ですよ、なんて、どうしてわけのわからない気休めの言葉を投げかけようとしたのだろう。 智先輩と結ばれてほしいと思いすぎていたのかもしれないし、そもそも人を好きにならないという選択肢があることを失念していたのかもしれない。 ただ単純に驚いただけなのかもしれないし、恋愛ができない哀れな先輩をどうにか慰めようとしていたのかもしれない。 「だから大丈……」 口にした瞬間、春さんが僅かに表情を無くした。失敗した、と気づくにはあまりにも足りないくらいの変化だった。それなのに、どうして俺は、傷つけてしまったとはっきり理解できたのだろう。 「そうだねえ、好きな人できたらいいよねえ」 優しく微笑んだ春さんは、そのときすでに諦めていた。 自身の生き方を他人の常識に、他人の勝手な善意に否定されて、ぼこぼこにされて、にっこりと笑いながら「大丈夫、君は異常者じゃなくなる、きっと未来は明るいから」と言ってでろでろに赤く染まった、散々殴った手を差し伸べて囁いてくる他者を拒絶することを、すでに、すべて諦めていた。
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