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対面して座る母の顔を見て、頭を下げた。髪にとめられた飾りが動く音がする。
誰一人口を開かない控室は、ちらちらと雪が降る日の早朝のような張り詰めた空気が漂っていた。
言葉にならないものは信じない。そう思っていた。だけど、大人になるたび、言葉にできない思いばかりが増えて、口にすることを忘れていた。
私は物事を表現することは得意でも、それを言葉にしたり、形にしたりするのが苦手だった。形にしてくれるのは、いつも森山だったように思う。
『なんか、俺が良い感じの名前つけてやろうか』
『もう行くなよ。頼むから』
力を貸してほしい。今、どうしようもなく言葉が見えなくなっている私に。
「大切な人がいるの。お母さんが良いと思うような人か、ううーん、少し悩んでしまうけど。そばに居てくれたらいいなと思う人なの。愛とか、恋とか、そういうものではないかもしれないけど、お母さんと同じくらい、私を大切にしようとしてくれる人だよ。……その人の他にもね、あの町には、大事な人がたくさんできたの。良い人と結婚して、子どもができて、幸せな家庭を作るみたいな、そういう人生じゃないかもしれないけど、でも、毎日、楽しいなって思う」
だから、大切にするために、ずっとあの町に居たい。最後まで口にする前に、母がふ、と笑ったように見えて言葉が縺れた。
「おかあ、」
「お仕事、大変そうね。手が荒れてるじゃない」
どうして母は、いつも、私の傷に気付いてしまうのだろう。
「……水仕事だから」
「働くのは大変よね」
「うん、本当に。でも、何とか頑張ってるよ」
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