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「ため息ついたら、幸せ逃げちゃうよ」
花村の家では一度も言えなかった言葉を言った。私の言葉を聞いて、母は呆れたような、おかしそうな顔をしている。
「もう。びっくりして気持ちを落ち着かせてるの」
「そうなの? ごめんね。……だから、お見合いはもうしない、方向がいい」
真剣に願い出て、もう一度頭を下げる。私を見おろす母は、やっぱり疲れたようなため息を漏らしているように感じた。
困らせているだろうか。嫌がられるだろうか。
「おかあさ……」
あれこれと考えていたのに、母がどうしようもない子どもを見つめるような優しい瞳で私を見おろしていることに気づいた時、全ての考えが散らばってしまった。
「……お父さんが知ったらますます躍起になりそうだけど、わかった。春がしたいようにしたらいい。お母さんは、春の味方でありたいから」
母が囁いたのは、いつかの日にも聞いた覚えのある言葉だった。
『いつかきっと、愛おしいと思う人が現れる。その時お母さんは絶対に春の味方になる』
呆れながらも優しくそばにあってくれる。どれほどの間違いを犯しても、母だけは私のことを大切にしてくれる。
「春に大切な人がいるなら、お父さんに、もう春のご縁を探すのはやめるように、ちゃんと言っておくから」
信じ難い言葉に目を見張った。
今までずっと、母から送られてくる封書を見て、私は勝手に、これは母が一人で用意した縁談なのだと思い込んでいた。
誰よりも幸せになってほしいと言ったのは父だった。そのために、わざわざ父が縁談を用意していたのだろうか。
「……お父さんが相手の方を探していたの?」
「……幸せになってほしいって。お節介だからやめたほうが良いって思っていたけど、春も何も言わないから、春が言ってくれるまで、私も待つようにしようって、決めていたの。でも、そういう事情なら、ちゃんと聞いておけばよかった。ごめんね。……森山くん、は、そうね、あんまりいい印象はないけど、……お父さんもたぶん、凄く怒ると思うけど、でも、春を大切にしてくれている人なら、お母さんも信頼できると思うから」
母はいつも、縁談に関してあまり前向きな言葉を口にしなかった。真野さんの言葉を聞いて、私が話しだすのを待ってくれていた。
それならこの三年間、勝手にわかった気になって、母のためにと見合いを続けていた自分が馬鹿馬鹿しい。母は、私の大切にするものを、いつも一番に尊重しようとしていた。
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