運の尽き

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 もう少しだけここにいなきゃと思ってしまったことがもう運の尽きなのだ。訪れたタイミングを決して逃してはならない。彼女はきっとこのまちで朽ちてゆく。そんなことをあの日の僕は密かに思った。  それは三月某日、高校の卒業式が行われた日のことである。もうかなり前のことだから、正確な日付を覚えていない。その場でどんな言葉が交わされていたか、当時の自分がどんな人間だったかもほとんど忘れ去られてしまっている。十年も前の自分なんて最早他人に等しい。  それでも彼女とあの日、写真を撮ったことを覚えている。昇降口横のイチョウの木の下で。その際、二、三言、短い会話を交わしたはずだ。 「いつこの町を出るの」 「向こうでの準備もあるし、明後日には出るよ」 「そっか。次に帰ってくるのはいつ? 夏頃?」 「うん。多分ね」  そしてその時、僕と彼女との間には溝があることを、はっきりと意識させられた。僕はその時、東京での新生活に想いを馳せていたけど、次に帰ってくる時のことなんて微塵も頭の中になかった。一方で彼女の人生のピークは多分いまなのだ。楽しかった高校生活は今日をもって幕を閉じ、四月より家から車で二十分のところにある食品加工会社へ就職することが決まっている。あんなに勉強が出来たのに、それが彼女の運命なのだ。初めてそのことを彼女から聞いたとき、当然驚いたし、すぐに何故か理由を尋ねた。最初、彼女は家計が厳しいからと答えた。その晩、僕は彼女のために色々就学支援制度を調べて、翌日の朝、それを伝えたら、 「ありがとう」 と言って、笑ってはいたけど、目線は斜め下を向いており明らかに困惑していた。 「わたしのために、こんなに調べてくれたのは嬉しいけど、でもやっぱり進学はないかな。今年中三になる妹がいてさ、少なくとも彼女が高校卒業するまでは実家離れられないんだ」  彼女の家は母子家庭で、しかもあまり親子関係はうまくいっていないらしかった。そうして彼女は少し優し過ぎた。過ぎたるは猶及ばざるが如しとは言い得て妙で、それはきっと、生きていく上では良くないことなのだ。  生きていく上で、時に人は非情にならなければいけない。難民が飢えて死んでいる裏で、腹一杯ご飯を食べ、温かい布団で眠りにつく自分に違和感を覚えてはいけない。  僕は結局、その年の夏に地元には帰らなかった。それどころか大学四年間で一度しか帰らなかった。一度帰ったのは自身の成人式に出るためである。でも成人式は小、中学の時のクラスで集まることになって、高校のクラスメイトである彼女と会う機会はなかった。  あの日、僕は本当は彼女に自身の想いを伝えるつもりだった。別に彼女とどうにかなろうとはあまり考えていなくて、ただ、ここで伝えないと後悔するような予感があった。  しかしながらあの時溝を感じた瞬間、もう僕の心は躊躇してしまった。次にいつ帰ってくるかすら全く決めていなかった自分に想いを伝える資格なんてあるのだろうかと考える余地が生まれてしまった。そうして遂に伝えることはできなかった。  いまでは当時の心情も、もう殆ど忘れている。十年も前の自分なんて最早他人に等しいからこそ、こうして冷静に振り返ることができる。やはり訪れたタイミングを決して逃してはならない。基本的にチャンスは二度とやっては来ないからだ。  でもそれは得てして難しいことなのである。
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