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「師匠……」  わたしは小さく呼んだ。  サーデグ師匠は、死の床に伏していた。  東の大国、都の下町に借りた一軒家の小部屋で。蝋燭が一本だけ燭台にあった。すでに深夜と呼べる刻を迎えた。今夜は新月で戸外の闇はいつもより更に深い。晩秋の空に青白い星が光る。  外は人の気配が絶え、遠くで犬の吠える声が長く響く。まえに聞いたことがある。人が生まれるのは日の出のとき、亡くなるのは夜……と。  わたしは寝台の横にひざまずき、師匠の手を握った。師匠には握り返す力はなく、ときおり指が跳ねるように動く。  師匠の指先に触れる。長いあいだ楽器を演奏してきて、弦を押さえ続けた指先はすっかり硬くなっている。  この指が紡ぐ音にどれほど憧れただろう。澄んだ高い声にどれほど憧れただろう。 「ルー」  わずかに扉を開けてゾランが顔を覗かせた。かすかな灯りに照らされる彫りの深いゾランの濃い影を見て、自分の眉間にも皴が寄っていることに気づいた。 「どんなようすだ」  問われてわたしは首を横に振る。 「交代しよう。おれが見ているから少しは休め。昨日から、ろくに飲まず食わずに眠らずだ。おまえが先に倒れちまう」 「だ、だって、わたしが離れているあいだに、もしも……」  ああ、もしも……ではないんだ。師匠は黄泉へと旅立つ。それは変えようがないことなのだ。わたしたちとの時間は、あとどれくらい残されているのだろう。  喉の奥が熱くなる。込み上げるものに抗えず溢れそうになる涙をこらえた。 「大丈夫だ。何かあったら必ず呼ぶ」  ゾランはわたしを厚い胸板に抱きしめた。  小さな頃から、なんどゾランや師匠の腕の中に抱き留められたことだろう。  家族を失った悲しさ、帰る家を失くした淋しさ。生まれた故郷を離れて数えきれないほどの夜を過ごして来たと思っていたけれど、わずか十年と少しだったと今気づく。 「自ら男を捨てた者は、老いやすいときいていた。おれとさほど違わない歳なのに、いまではサーデグが十も年上にみえる」  自宮した者の定めだと師匠が、話したことがある。 『自分は、少年の声を保つために体を変えたのだ。今となっては、それがよかったのか、悪かったのか。ただ、この歌声のおかげで生き永らえたから、悪くはなかったのかも知れない。  癒えない哀しみは、今もあるけれど』  それは、繰り返し聞かせてくれたお話だった。  王宮の奥にあった、宝石箱のような場所。師匠のサーデグと若き東の姫との思い出の。  わたしはゾランに背中を押され、厨へ行くと水を飲んだ。水をくむときに、手が細かくふるえて甕に何度も椀がぶつかった。寒いわけではないのに、体のふるえが止まらない。こんな夜は、追手が迫る気配を思い出してしまう。  気持ちを落ちつけるためにわたしは自分の肩を抱いた。厨の小さな木の椅子に腰を下ろし、竈に薪を一本放り込む。ゆらめく炎を見つめていると肩から力が抜けて溜め息が出た。  両の頬に手を当て、うずくまるようにして座ると、自然に瞼が下がり始める。  炎を前にすると忘れられないあの日を思い出す。わたしと師匠たちとの出会いを。  侍女のメイが裏切ったと分かったのは、繋いでいた手をメイが振り払うようにしてほどいたときだった。父からわたしを託された護衛の兵士へメイはしなだれかかり、わたしに意地悪するときと同じ顔をして見せた。  東西の門へと逃げていく人の波から外れ、メイと兵士は横道へとそれた。建物の中に隠れて男たちはいた。暗くてよく見えなかったけれど、数人の男たちが息をひそめていた。メイは子守のふりをして、ときおりわたしをほったらかしにしていたが、そのときに会って話し合っていたんだろう。  眼窩が深く肌は褐色、布を頭に巻き付けていた男たちは典型的な西の民だった。 「こいつが皇女? 薄汚い坊主じゃねぇか」 「お妃さまが男の子に変装させるのに髪を切ったのよ。正真正銘の第一皇女。西の連中に差し出して礼金貰うなり、なぶりものにするなり好きにすればいい」  メイは兵士の腕にぶら下がり、邪悪な笑みを浮かべた。メイはオアシスの近くの貧しい村の出で、東と西の混血だった。東西の血が混じると美形が生まれるという定説どおり、メイは目鼻立ちがはっきりした美しい娘だったが、七歳のわたしにも容赦ないほど意地悪だった。母や乳母が見ていないところで、なんど肌をつねられたか分からない。  頼りにしていた若い兵士は、メイにまるめこまれていたのだろうか。ニヤニヤとだらしがない顔をしてメイを見つめている。  わたしは背にくくった月琴だけは離すまいと思った。男たちがわたしをどうするか話している。そのすきに、じりじりと入り口へと後ずさった。  逃げなきゃ、逃げなきゃ。メイは駄目だ。裏切った、母さまに嘘をついたんだ「さいごまでお守りします」なんて。逃げなきゃ、母さまに、父さまに言われたんだから。  周囲は人が動き回る音で地面が揺れている。悲鳴や怒号が響き、あまたの足音が混じる。わたしは建物を飛び出して人々の流れに混じったが、すぐに腕をつかまれた。 「逃がすか」  そのまま引き寄せられ、抱き上げられた。思いきり足をばたつかせて男の太い腕から逃れようとする。でも幼いわたしに何ができただろう。 「たすけて!」  わたしの声なんて誰も聞いてくれない。みな、荷物を担げるだけ担いで家族の手を引き、口々になにかをわめき、あるいは口をつぐみ必死の形相で門へと殺到している。  門は閉ざされている。城塞のうえの兵士たちが、下へ向けて弓を引き、石を投げ落とし応戦している。攻めてきたのは、かつてのオアシスの王の末裔たちだと聞いた。  男はわたしを抱えたまま、逃げていく者たちに何度も突き飛ばされたが、わたしを離さなかった。逆に笑い声をあげていた。  このまま西の者の手に渡ったなら、きっとひどい目にあわされて殺される。幼いながらに、それは分かった。  最後の手段とばかりに、男の腕に歯をたてようとしたわたしの頭上を赤い光が飛び去った。  突然のことに、男もつられて空を見上げた。  (くれない)の光は次々と空を横切る。 「火矢だ!」  誰かが叫んだ。とたんに、家の屋根から火の手が上がった。暗闇から一転あかあかと焔がゆらめき、周囲を撫でるように動き始めたかと思うと、路地を強い風が吹き抜けた。  火は風にあおられ、一気に膨らみ火柱となった。  遠くに近くに悲鳴があがる。東西の門が開けられたのだ。  オアシスから外へ逃げるには門を通らねばならず、けれど門の外には敵が待ちかまえている。  男が炎にひるんだ一瞬の隙をついて、わたしは腕に思いきり咬みついた。歯が肌に食い込む気味悪さに背中が粟立つが、がむしゃらに喰らいついた。  野太い悲鳴をあげて、男はたまらずわたしを振り落とした。地面に尻もちをついた痛さなど感じる(いとま)さえなく、そのまま逃げ惑う人に紛れた。  すでに西の兵たちがなだれ込んでいる。討ち合う剣の音や、疾走する馬のひづめの音は腹に響くようだった。敵味方が入り乱れるなか闇雲に走っていたわたしは突き飛ばされ、転んだ。  転んだ拍子に体が半分溝に落ち、頭から水に突っ込んでしまった。溝の蓋は誰かが外したのか、馬の走る勢いで外れてしまったのか。石で組まれた溝は流れる水は少なく、わたしがしゃがんでも頭がつかえないほどの余裕がある。わたしはそのまま溝へと体を隠し、蓋がかかったところまで這っていくと背中の月琴を前に回してうずくまった。  頭上の騒ぎは、さらに増していった。ガタガタと蓋のうえを多くのものが行き過ぎる。いつ木の蓋が割れたり外れたりするかと肝を冷やしながら、わたしは体を冷たい水に濡らしたままじっとしていた。体を固くし、息を殺して。王宮に残った母や乳母は無事だろうか。父や兄たちは戦っているのだろうか。  昨日からろくに飲まず食わずだったが、不思議と空腹は感じていなかった。
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