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息子が「ちょうちょは何を食べるの」と聞いていた。公園に遊びに行くと言っていたのは覚えているが、いつの間に帰ってきていたのだろう。手に持った緑の小さな虫かごの中に、白い蝶々が入っていた。モンシロチョウ。私はソファに横たわったまま、「知らない」と言った。
「どうしてもしりたいの」
公園までついていかなかった負い目があり、私は手元のスマートフォンで調べる。簡単に見たところ、蝶々はそもそも飼育に向いていないようだった。明るい緑のプラスチックの虫かごで、蝶々はもう苦し気に見えた。蝶々にとってはずいぶん狭いだろう。虫かごは確か、息子が三歳の頃、だからニ年ほど前に、百均で買ったもので……だめだ。もう疲れてきた。
「砂糖水がいるみたい。用意してあげるから、かごは暗いところに置いておきなさい」
「わかった」
息子はぺたぺたと廊下を歩いて行った。私はしばらくぼんやりしてから立ち上がり、普段は醤油を入れている小皿に砂糖水を作った。短い廊下の奥、普段は閉まっているドアが、少し開いている。中に入ると、うちのマンションの一番小さな部屋だ。三面が全て本棚で、ドアの横に小さなパソコンデスクがある。そこに、虫かごが置いてあった。砂糖水を入れた皿をそうっとその中に置くが、蝶々は微かに羽ばたくだけで、関心を示さない。
もうすぐ死ぬだろう。
はっきりとそう思い、胸が痛んだ。私は冷たくなっている。
「ちょうちょ、どうだった」
子供部屋で、息子はタブレットで恐竜の動画を見ていた。
もう死にそうだよ。捕まえたりしたから弱ってる。
そう言う自分をはっきりとイメージしながら、
「わからない」
と答えた。息子はタブレットを置いて、私に両手を伸ばした。私は崩れるようにして、息子を抱きしめた。息子の体はあたたかかった。
蝶々は、その翌日死んでしまった。砂糖水に白い羽が浮いている。私は皿ごと蝶々を出して、ゴミ箱に捨てようとして、どうしてだか、できなかった。ビニール袋にそっとその小さな亡骸を入れて、虫かごのある部屋の、本棚の上のところに置いておいた。息子の身長では見られない場所だ。
リビングの二人掛けのソファは、もう私の形のへこみがついている。しばらくそこに横になっている。何も考えたくない。しばらくするとアラームがなるので、仕方なく起き上がって、ぼさぼさの髪を手櫛で直して、マンションの前に立つ。幼稚園バスがやってきて、息子が下りてくる。丸い頭に紺色のベレー帽をかぶり、真っ白くて大きな襟のブラウスを着た息子を見ると、可愛くて可愛くて、苦しくなる。
「ママ!」
飛びついてくる息子を抱きしめて、バスの先生に頭を下げる。先生は挨拶をして、バスはすぐに行ってしまった。息子と手を繋ぐ。
「ちょうちょげんき?」
死んじゃったよ。
言いかけて、やめる。
「ごめん」
謝ると、息子はじっと丸い目で私を見上げてきた。
「砂糖水交換したら、逃げちゃった」
「とんでっちゃったの?」
「うん。ごめん」
息子は小さな口を引き結んで、難しい顔をしている。
「いいよ。ゆるしてあげる」
息子はいつも、私を許してくれる。
私たちは抱き合った。息子を愛している。はっきりと確信する。涙が出そうになる。
「ちょうちょ、とぶのがすきだから、しかたないよ」
「うん」
「だいじょうぶだよ、ママ」
「ありがとう」
どうして私は、あなたに大丈夫だと言えないんだろう。
ぼんやりとソファに横になって、時間になったら買いだめした焼きおにぎりと冷凍の野菜とウインナーを温めて、息子に出す。それでも息子は喜んで食べる。息子はお風呂にも一人で入るようになった。私はただぼんやりとしている。ぼんやりとしていなかったときに、どうしていたのか思い出せない。
寝る前に、息子と二人で布団に入る。布団のなかで、息子の体は普段よりなおあたたかい。愛している。そう思う。物語と違って、愛が力になることはない。
「あのね、ママ」
眠たい息子の声は小さい。
「あのちょうちょ、パパだったんだよ」
そう、と、いつものように適当な返事をしかける。
「え?」
「パパがね、ちょうちょになったの」
私は黙って、息子の頭を撫でた。息子は小さな声でそっと、私に教えてくれる。
「だからいっしょにいたかったけど、むずかしいね」
「きっと、元気にやってるよ」
かろうじて、私はそう言うことができた。
「うん」
息子はもう眠ってしまいそうだ。私はやわらかな体をぎゅうっと抱きしめる。
「大好きだよ」
伝えなくてはいけない、と思った。伝えられるときに、伝えなくてはいけない。
「ぼくもだいすきだよ」
息子はいつものように、素直にそう伝えてくれる。
「ママは、どこにもいかないでね」
息子は私の胸に顔を埋め、そのまま眠ってしまった。私は黙って、喉をひきつらせて、泣いた。息子を愛している。息子が、可哀想だ。それでも私はまだ、立ち直ることができない。蝶々は死んでしまった。夫は、死んでしまった。もう帰ってこないのだ。愛していたのに。あんなに突然に。起きたら生きていけないようなことが、起こる。
それでも、生きていかなくてはいけない。そして、私は、生きていくだろう。そのことが、不意にわかった。
明日、息子が園にいる間に、蝶々を埋めに行こう。その帰りに、スーパーに行こう。息子の好きなきゅうりとちくわを買おう。
私は優しい寝息で眠る息子を抱きしめて、自分の涙で温まった枕の上で、目を閉じた。眠るために。明日、目覚めるために。
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