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第十二話 倉田文彦
嘘をつきました、と。
定期船にて、真司と向かい合う男はおだやかな顔でいった。その視線のなかに車中で感じた狂気と緊迫感はなく、いまも水しぶきがついた眼鏡を服の袖でぬぐっている。熱海港を出港して五分、いまだに東南東小島は島影さえ見えない。
(嘘ってなぁいったいどれのことだよ)
真司の背筋に汗がつたう。
男は眼鏡をポケットにしまってほほ笑んだ。
「ああすみません。倉田さんがお察しのとおり、僕は本物の成増弘之ではありません。本物は七十年前、すでに死亡しています」
「────」
「僕は宮沢一敏。あなたには七十年前死亡したとお伝えしていた抗体軍人のひとりです」
「み、宮沢さん。あんたが?」
「ええ。テニアンの戦いで負傷しまして、そのときに成増さんのところに拾われました」
「前にうちで話していた七十年前の話。あれはどこからどこまでが真実なんですか。まさかぜんぶ嘘?」
「まさか。ほぼ真実です、嘘だったのは──宮沢が死んだということと成増が眠りについたというところくらいかな。……」
丸眼鏡のない彼は、いつもとすこし印象がちがう。
つい昨日まで絶対的な信頼をあずけていたこの男のことばを、いまはいったいどこまで信じたらよいのか真司は測りかねている。が、現時点では答え合わせのしようもないことである。証拠は、と真司が低い声でつぶやいた。
「おのずとわかることです。おそらくは響さんも、もう気付いてる」
「……もともと最後まで隠し通すつもりはなかったと」
「できればそうしたかったんですが。──響さんの記憶障害が治ってきたと聞いたときから、それはむずかしいだろうことは分かっていましたから」
「そもそもなぜそんな嘘を」
「僕も感染者だからですよ」
「…………、え?」
真司のくちびるから血の気が引く。
「余計な混乱を招くことは避けたかった」
お話しします、と。
宮沢と名乗った男はふっと息を吐きだして、ぽつりぽつりと話しはじめた。
※
先に言っておきましょう。
”我々”は七十年の時を経たいまさら、この国を細菌で溢れさせようなどとはおもっていない。というのもこれは僕の意思ではありません。僕たちはあくまでも『母体』の意のままに動くにすぎません。──つまり僕たちはあなたたちにとって、脅威ではあれど敵ではないということです。
それだけは先にお伝えしたかった。あなたにはとくにね。
ええ、そのとおり。いま僕があなたにこうして話しているのも、我々の母たる者が「話せ」と命じているというわけです。いや言葉で命令を賜ったわけではありません。ふふふ、この感覚ばかりは、人をやめねばわからぬことでしょうな。
そうだな、まずは。
成増弘之についてお話ししたい。
もちろん、本物の成増さんについてですよ。──そう。僕は以前に「宮沢一敏が仮説を立てた」とお伝えしましたがそれはちがう。頭がよく切れたのも、『母体』という可能性を提示したのも彼、成増さんでした。
常識にとらわれない方で、さまざまな発想で仮説を立ててはみなに展開しましてね。まったく彼の頭脳に敵う者は当時の日本にはいなかったのじゃないかな。思考が柔軟だったんです。
ええ、成増さんは軍人ではなく研究員でした。
一度は手違いで戦地へ赴いたようですが、命からがらなんとか帰還したのちは登戸研究所で一文字正蔵とともに研究をしていたようです。当時は、毒の開発だったのかな。そのあたりは僕もくわしくは聞いちゃいません。
パイロットと守備隊員が発見されてから、しばらくは登戸研究所で調べていたらしいです。が、感染の危険性を考えて、本土から切り離したところに隔離施設を置くべきだと成増さんが提言、一文字が私財をなげうって東南東小島をそのための施設として購入したとか。
そうです、成増さんの一声で。
鶴の一声とはこのことですねえ。
──さて、ここまでは聞きかじった話。
なにせ響さんも僕も、まだ大和やテニアンにいましたし、研究員の数だってそう多くはなかったようですから。
誰に聞いたかって?
ふふふ──僕たち感染者はね、人には見えない方法で情報を伝達しているんです。
だってほら。いまだって母なる者はここにいないのに、僕が話すことを命じている。よほど遠くにいる以外には分かるんです。こればっかりはなかなかどうして、興味深い生態だとおもいますよ。自分でも。
話をもどします。
一文字正蔵がこの世で唯一信頼していたものがある。──部下である成増さんの頭です。しかし反対に成増さんは、登戸研究所のころから正蔵に対して不信感を抱いていたようです。
逐一報告する義務を課せられていても、なんとか正蔵に知られぬよう行動を起こした。響さんと僕が東南東小島へ運ばれたのもそんなときです。
彼は人目につかぬよう、重体の軍人相手にいろいろなことを試したらしい。──正蔵にも『抗体軍人』の存在すら報告しなかった。おそらく彼は、すでにそのときから抗体軍人が解決の糸口になるであろうことを察していたからでしょうな。
僕たちにどういった治療を施したのか、当人である僕だってくわしく聞いてない。
いやなに、彼は身上も家族についてもあけっぴろげに話をしていたが、なぜか心の内だけは見えぬ男でした。もしかしたら響さんには話していたかもしれないけれど──ああ、僕は昔から影の薄い人間だったものですから。………
そこまで細菌研究に関するデータを隠匿するほど、成増さんが正蔵に抱いていた不信感。
理由はおわかりですか。
もしかすると、あなたのお父上である文彦さんも、心のどこかで感じていたかもしれません。
ええ、そうです。
この細菌がいったいどこからやってきたのか──という疑問について、成増さんは自然発生的なものとは考えていなかった。
ええ、…………。
彼は、細菌発生の原因に、一文字正蔵が絡んでいるのではないかとうたがっていたんです。
────。
ここまでいって、宮沢が沈黙した。
(細菌兵器)
真司はうつむく。
かつて、関東軍防疫給水部──通称『七三一部隊』が黄熱病、ペスト菌などの病原菌に目を付け、特殊実験をおこなっていたとする噂がある。それが事実か否かは別として、正蔵がこの部隊に所属していた以上、少なからず可能性はあるだろう。
だとすれば、これは殺人である。
「な、成増さんは証拠を掴んでいたんですか」
「いや、疑念については彼の勘にすぎません。でもそれは勘違いじゃなかった」
(なんだと?)
と、真司のこめかみに冷や汗が流れる。
宮沢は目を細めて、ボートの舳先に見えてきた島影を見つめた。
「真司さん」
「は、はい」
「実をいうとね、僕がこの時代で目覚めたとき──僕はほんとうに眠る直前の記憶がなくて、自分が感染者であることを忘れていました」
「え?」
「でも、つい先日になってようやく思い出したんです。なぜ僕がおよそ七十年ものあいだ、眠りにつかされたのか。自分のほんとうの役目を」
「…………」
緊張した真司は上唇を舐めた。
島影に投じられていた宮沢の視線が真司に向く。その目はひどく哀しげに歪んでいた。
「我が母なるものを、どうか助けていただきたい」
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