第十二話 倉田文彦

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 ────。  いつからだったろう。  大好きな潮騒の音が耳障りになったのは。  故郷で海辺を駆け回ったあの頃、たしかにこの音が好きだった。  ザザ、ザ。  けれどいまこの耳に届くのは、絡まった蜘蛛の糸のような騒音でしかない。いつからだろう。いつから──なんて。  本当は分かっている。  分かっていた。  波打ち際で聴いていたはずが、気付けば波間のなかに揉まれて、潮騒は轟々と唸る荒浪の声に姿を変えた。あのときから、すでにこの身は囚われて、海のなかへ引きずり込まれていたのだ。  海は悪くない。  波音も、白く泡立つ波飛沫も、悪くない。  何が悪いかなど、問うこと自体に意味はない。正義も、ない。  あるのは自身に対する虚しさだけ。  もういい。ようやく。  煉獄の炎でこの身を焼き付けるときがきたのだ。  いずれも、消印日のペースはバラバラである。  以下関連する書簡についてほぼ原文ママで記載することとする。  ※※※  前略 先日は御訪問有難う。  又、突然の書簡を失礼致します。  杉崎茂孝軍曹について方々御尋ねされて居るとの事、私が力に成れると思い、一筆執った次第。  先日御伝えした通り、経緯は私の上官である井塚憲広軍曹より杉崎家の保護を頼まれた故です。  製薬の一文字社は御存じですか。実験場上りの一文字正蔵が興した会社で、井塚さんはそちらに入社されました。井塚さん曰く杉崎さんは社に保護され御存命との事ですから安心下さい。  ただ、語れぬ訳が有り未だ小田原に戻る事叶いません。其については手前の方で対処致します。いつか必ず栢山へ御連れ致しますからそれまでどうぞ御元気で。 早々  ※※※  前略 御手紙有難う御座います。  先日御会いした際には多江さんの元気な御姿を拝見できまして、改めて敬服致しました。怪我の塩梅は如何ですか。御無理なさらず安静にお過ごし下さい。  一文字社の名は僕も聞き及びの有る処。伊豆沖の島を買い上げたと新聞に載って居りました。杉崎さんとはペ島の捕虜収容所に入る処まで御一緒したものの、本土帰還時は既に不在でしたが一文字社に保護されていたとは驚きです。  もし今後も杉崎さんの現状御分りになれば御教え下さい。  そうそう、僕も縁あって冨士製薬で勤める事と成りました。御役に立てるかもしれないから申し付け下さいね。 早々  ※※※  前略 心遣いを有難う。  一文字社へ入社致しましたが、井塚さんより聞いた話と少し違うようで混乱して居ります。当人の姿も無いので暫く探ってみます。  呉々も手前と連絡を取って居る事、周囲に漏らしませぬよう。 早々 追伸 秋も深まって参りましたから多江さんが紅葉狩りを希望して居ます。御一緒に如何ですか。お返事お待ちして居ります。  ※※※  前略 有難う御座います。  紅葉狩りの御誘い嬉しいです。家内も連れて其方へ伺います。詳しいことは電話にて話しませう。下記番号ならば僕に繋がります。早々  ──この間半年ほどの書簡は不明──  ※※※  前略 此方では御無沙汰しております。  手紙は指示の通り処理しましたから安心下さい。先日御会いした時の話は耳を疑いましたが、事実は小説より奇なりとはこの事でせうね。  研究に関する機密書類は全て燃されたとの事ですが残った書類は有りませんか。流石にゼロからだと研究は困難かと。  研究関係者も、其の方を除いて何れも消息不明なのは不穏ですね。井塚さんのノートと鍵を持っていた其の方に頼るしかなさそうだ。  此方でも南硫黄島について調査の機会が有りそうですから岩滴含めて調査結果を共有します。  微々たる協力で恐縮です。宜しく。 早々  ※※※  前略 心遣いを有難う。  返信が遅れて申し訳ない。  手前自身話すべきかと迷ったことを聞いてくれてどうも有難う。心が軽くなりました。  井塚さんについて、死亡したと見なされていると小耳に挟みました。信じられない。何かの間違いと思って居りますが、其の真偽は怖くて確認出来ていない。御恥ずかしい事です。  言い忘れて居りました。  杉崎さんや他数名の軍人の生存をこの目で漸く確認致しました! 成増という研究員を頼るよう井塚さんのノートに有りました。顔は知らないが軍服を着ていたので氏名が分って安堵して居ます。  が、これは長期戦です。  一文字正蔵が厄介。監視されて、小田原に帰るのも恐ろしい状態に有ります。何より井塚さんの事で手前は暫く立ち直れていない。いろいろと物事が重なり気が狂いそうです。  ワクチン製造などと無理を言ってすみません。  とはいえ南硫黄島調査について頼もしく思います。有難う。御待ちして居ます。 早々 追伸 次の紙に研究室解散の原因を推考して居ります。読み終えたら燃して破棄下さい。宜しく。(※二枚目はない)  ※※※  前略 その後御変り有りませんか。  自分も変り無く。杉崎軍曹の行方が分っただけでも安堵致しました。島から御帰還なされましたらまたどうぞ一報の程御願い致します。  此度二点報告したく筆を執った次第です。一点目は、先日の御手紙に書かれていた井塚さんの”死亡宣告”ですが、彼の内縁の妻が提出していました。  二点目は、細菌調査について。  南硫黄島岩滴を分析しましたがこれといって特殊な成分は見つかりません。再三の確認を恐縮ですが、破棄を逃れた研究資料はないですか。ワクチン製造しようにも、細菌デヱタがないことには難しい。  南硫黄島調査を進めてみます。  口惜しいですが一文字氏の監視が解かれぬ限りは、派手な動きもむずかしいかと。それでも、文彦さんまでいなくなっては全て終わりですから、どうぞ悔恨は胸に留め今後も慎重に事をお運び下さい。頑張って。 早々 追伸 東南東小島支部の研究室解散の原因は、やはり文彦さんの仰る通りでせうね。研究室にひとり知り合いが勤めて居りましたが、解散宣言の後は其の消息も分っていません。呉々も一文字には気をつけて。  ──ここから長期にわたり、雑談のみの書簡に留まる──  ※※※  (前略)ところで、先日話した冩眞を同封しました。当時の研究員と対象が冩ったものとか。見知った顔は有りますか。  提供者は元研究員の御内儀で、御主人は研究施設内にて病死したと連絡を受けたそうです。  此の研究対象、今の島にて見かけないのでしたら、やはり他の対象と同様に焼却処理されたとでも言うのでせうか。  取り急ぎの報告です。  御身体気を付けて。 早々  ※※※  (書簡一枚目がないため二枚目より)ので、正蔵の監視が消える迄、手前は当分動けそうにない。息子の真司には一生、謝っても謝り尽くせぬ責を負わせてしまいそうです。  (中略)  君を巻き込んだ事も本当に申し訳無く。  生きてきて初めて、井塚さんと出会ったことすらも後悔しました。無論本心じゃないけれど……。  ※※※  年賀状を有難う。  真司くんの冩眞を拝見しました。とても大きくなって居てビックリ! 人の子は早いと言いますが本当ですね。  (中略)  僕は貴方ほど抱えるものはないけれど、この件で貴方と出会えて良かったと思って居ます。なぜなら喜代子さんの作る飯は家内よりも上手いから!  冗談です。又一緒に旅行しましょう。停滞した問題を考えると塞ぎこみますからね。電話します。御元気で。 早々  ──ここから先、雑談のみの書簡に留まる──
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