第十三話 宮沢一敏

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第十三話 宮沢一敏

「本日を以て、これまでの研究を中止する」  昭和二十年十二月某日、東南東小島研究室。  朝礼時に突如発表された研究室閉鎖の旨は、関係者のほとんどには寝耳に水のことであった。号令者の名は、成増弘之。  この研究チームにおける要、その発言力は絶対的なものであったため、研究室は混乱に陥った。ざわつく研究室をツイと見回して、彼は声高に言った。 「すべての研究資料は焼却処分しろ。いいか、すべてだ。現在隔離されている腐敗兵たちも、感染した仲間たちもすべて。この島は抹消する」  理由は語らなかった。  しかし研究員たちは、驚愕とともに心の底で安堵した者も多かったことだろう。研究員仲間が感染し、焼却してきた彼らにとって、焼却室内にいるおのれの姿を幾度想像したか知れない。  一同は素早く研究資料、培養液、細菌サンプルほかすべての資料を焼却室にて灰にした。しかしこのなかに、研究筆頭である一文字正蔵、メイン研究員であった井塚、宮沢含む抗体軍人の姿はなかった。  成増弘之もまた、研究室を出る背中が最期の姿となる。 「余計なことをッ」  東南東小島地下第二研究室。  響くのは一文字正蔵の怒号である。部屋のなかはがらんどう、かつて積み上げられた資料の山は見る影もない。つかつかと歩みを寄せる一文字など目もくれず、成増は腰に短剣を携えて研究室を出た。  腕を掴まれ、肩を掴まれ、荒々しくその歩みを止めんと迫る一文字を振り払い、成増はうす暗い廊下をすすみ剣の柄に手をかけた。 「なにをするつもりだ!」 「断ち切る」 「なに?」 「それを望むヤツがいる」 「待て。──させるか!」  と、一文字は成増の胸倉をつかむ。  成増は眼鏡を軍服の胸ポケットに突っ込み、にやりとわらった。 「いまさら往生際が悪いですよ、室長。こんな馬鹿げた研究、幕引きをどうすべきかと悩みましたが──ようやく見えた」 「幕引きだと。勝手は許さん、これは私の研究だッ」 「センズリ掻くならひとりで勝手にやれば良かった。アンタの自慰に振り回されて、いったい何人の仲間が死んだとおもっていやがる。室長様がはじめたものをこっちで始末つけてやるってんだから、感謝してほしいくらいだ」 「貴様──成増」 「阻むならてめえを先に斬る。どのみちそのつもりだ!」 「調子に乗るなッ!」  一文字が成増の持つ剣の刃先をつかむ。  瞳に怒りを湛える成増は、短剣を引かんと腕に力をこめる。そのときであった。 「やめてェッ」  と。  成増の背後より声を聞く。  同時に、成増の背中がカッと熱を帯びた。一文字の目がぎょろりと剝く。白目が血走る。口が、わらう。  成増の手はやがてふるえ、剣を落とし、膝をつく。  ゆっくり、ゆっくりと背後に目を向けた先には、涙に濡れたおんなの顔。 「…………は」 「ごめ、なさい──ごめんなさい」 「はは。はっはっはははは! ちとせ。恩田ちとせ。キミ、よくやった! はははははッ」 「ごめんなさい──」  おんなは顔を手で覆い、その場に崩れ落ちる。  成増の目がその挙動を追いかけ、腕で地を這い、おんなの顔を覗き込む。ふたりが見つめ合ったのは一瞬の間であった。おんなはパッと立ち上がり、一文字の手を取り駆けだした。取り残された成増へは一度も振り向くことはなかった。  一文字は狂ったように笑いつづけた。  『箱』から出て、船に乗り、おんなに見送られるなか本土へとたどりつくその時まで、いつまでもいつまでも狂ったような笑い声が響いていた。  成増はふるえる腕で地を這う。  寒々しい暗がりにぼんやりと浮かび上がる扉に手をかけた。開ける。中からひんやりと凍える空気が流れ出て、成増の背中の傷を撫でてゆく。  背中に突き立てられた短剣もそのままに、ぐっと膝に力を込める。冷たいベッドに縋りつきながら立ち上がる。見下ろした先に眠るひとりの軍人。 「は、……恐れ入るな。貴様に比べりゃこんな傷は、かすり傷のようなもんだってのに」  いってえなぁ、と成増は紙と筆を手に一筆をしたためる。  それから軍人のズボンを脱がし、下帯に手をかけ、紐の結び目をあらわにした。 (──これはおまえに託すべきだ。たのむぜ)  自身のポケットから銅製の鍵を取り出し、紙を巻き付け、結び目に挟む。ふたたびズボンを整えたのをさいごに、成増はガタンとベッドの下に倒れ込んだ。  もう動けまい。  吐き出す息は荒く、白い。ぼんやりと眠気が成増を襲ったとき、研究室の扉が開く。駆けこんできたのは宮沢一敏であった。 「な、成増さんッ」 「よう」 「まさか──無茶なことを!」  と、宮沢は成増を抱き起こした。 「いいか」その手を成増がぐっと掴む。おどろくほど力強かった。 「聞け。そこに、書き置いた」 「え?」 「これからてめえが、やるべき、ことだ」 「で、でも僕は母体感染を」  とまどう宮沢に、成増はつらそうに瞳を閉じる。 「まったくだ。ったく、めいわく、かけやがって──」 「成増さん」 「はあ、……あっちいな」  荒い息を吐く。  異常なほど温度の低いこの部屋で、吐き出された息は白い。成増の肩を抱く宮沢の手がふるえる。成増は、ふっとほほ笑んだ。 「おまえなら、あらがえる」  期待してるぜ。  これが成増弘之の最期のことばとなった。  何度ゆすっても、彼は二度と目を覚ますことはなかった。けれど不思議なことに宮沢の手をがっちりと掴んだその手だけは、いつまでも離れることなく、宮沢は外すのに苦労した。  彼が書き置いたというメモを見る。  読みすすめるうちに、手がふるえた。がちがちと奥歯がかち当たるのは、決してこの部屋が寒いからだけではない。 「──僕に、できるのか」  むかしからこうだった。  卑屈で、なにをやらせても平均的。そんな自分が秀でるものなどなにひとつなかった。だから期待されることには慣れていなかった。また幻滅されてしまうだろうとおもうから。でも、だけど──。 「……やらなきゃ。そう、そうだ。やらなくちゃ」  どくんと鼓動が跳ねた。来た。  と、おもうのと同時に研究室の扉が開く。  宮沢が視線を向けると、おんながひとり立っている。 「────」 「成増さんは」 「いま、亡くなりました」 「……鍵は?」 「え」 「鍵の場所は言っていませんでしたか」 「鍵、ですか。いや──」  先ほど成増が言い遺した書置きをちらと見る。  しかしそこには『鍵』についての言及はない。 「なにも聞いてません」 「なんてこと──」  おんなは崩れ落ちた。  宮沢が支えようと手を伸ばすも、おんなはそれを振り払う。 「成増さんはなんと」 「…………」 「……一文字をころせ?」 「!」  宮沢はサッと青ざめる。  なりませんよ、とうなだれた顔をわずかにあげたおんなは、青白い顔で言った。 「一文字をころすことは、このわたしがゆるしません」
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