第十五話 一文字孝正

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第十五話 一文字孝正

「どうぞお掛けになって」  東南東小島一般棟管理室にて、倉敷ぼたんはソファをさした。  旧棟裏で彼女と顔を合わせたのちに彼女がここで待っているというので、いそぎクルージングボートに乗って戻ってきたところである。その道中から幾度か着信を告げる倉田の携帯だが、肝心の持ち主にそのよゆうはない。先ほどから小此木、彰、宮沢の三名はまるでつぎの指示を待っているかのようにぼたんをまっすぐ見据えたまま動かなかった。  ロイと倉田は互いに目を合わせる。  管理室の給湯スペースで珈琲をいれるぼたんをちらと見て、倉田は距離をとるかたちで部屋の隅に腰かけた。察したのだろう、ぼたんはクスリとわらう。 「ずいぶん警戒されたものですね」 「そりゃあ──俺にとって”母体”ってのは、この四十年でさんざん悪の権化と刷り込みされてきたものだもん。ま、その正体がぼたんちゃんだってのはいまだに信用しきれねえがな。後々になってまた替え玉だったなんてのはナシだぜ」 「フフ。まあそうでしょうね。一見すればふつうの人間となんら変わりませんから」 「証拠はあるのか」 「わたしとキスでもすれば身を以って体感できます。いかが?」 「…………やめとこう」  くすくす、とぼたんはおかしそうに笑った。  わらいながら人数分の珈琲をテーブルに置く。彰や小此木はなんのためらいもなくカップに手を伸ばすが、宮沢は浮かない顔で倉田とロイの珈琲を見つめて動かない。そのようすにぼたんが口角を歪める。 「またカップを倒す気ですか、宮沢くん」 「そ、そんなつもりは」  ハッと顔をあげてまたうつむく。  これまで見てきた冷静沈着な彼のすがたはどこにもなく、いまはただ、目の前に座る柳のように細い女に怯えている。感染者にとって母体は恐怖なのか、とあとのふたりを見てもそんなようすはない。  それについて、ロイが倉田の意見を聞こうとした矢先。  彼は手元の珈琲カップをじっくりと見つめてから「カップ?」とぼたんへ顔を向けた。 「惜しかったんですけれどねえ。あのとき、先に倉田さんが飲んでくださっていたら」 「そ、そっちのロビーで話してたときのことか。あの珈琲になにか入ってたのか?」  と、倉田が管理室扉の先を指さす。その手はわずかにふるえている。  ご存じなかったんですか、とぼたんはほほ笑んだ。 「宮沢くんの目を覚ましてあげようとおもって、珈琲を入れたんですけれどね。でも倉田さんがわたしの子になるのも面白いなァなんておもったら、つい」 「なに入れてたんだよ──いったい」 「まあ宮沢くんがわざと倒しちゃったからそれも無意味になりましたけれど」 「わ、わざと?」  倉田の声が裏返る。  いまだにうつむいたまま動かない宮沢に、彰と小此木が冷めた目を向ける。なにを言うこともなかったが、視線には確実に軽侮の念が込められていた。  言うまでもなく、母体の意思に反した行動をとった者に対する軽蔑であろう。さきほどまで宮沢に対して柔和にわらっていた彰の表情が、ぼたんの指摘を聞いた瞬間からがらりと変わっている。 (なるほど)  と、ロイはこめかみに流れる汗をぬぐった。  彼らの関係性は明白だ。あくまでトップは母体である倉敷ぼたんであり、下に属する母体感染者の一文字彰、小此木、宮沢は同列扱いとなる。しかしその過程で、宮沢が母体の機嫌を損ねた瞬間から、彼のヒエラルキーは最下層となってしまったわけだ。  まさか個々人の心理状態すらも、細菌による操りが可能だとでもいうのだろうか。  アッ、とロイはちいさく声をもらした。 「おい彰さん。アンタが言ってた差し入れってもしかして、オレが倉敷さんからもらった握り飯のことか。まさか──あれにもなにか入ってたわけ?」 「だからさっきからそう言ってるじゃんかよ。かあさまからの差し入れがなかったら、僕もう死んでたって」  マジかよ、とロイは顔色を青くする。  ちらとぼたんを見れば、彼女はいつもより少し大人びた表情で微笑んでいた。 「……オレが食うとおもってた?」 「ええ、そのつもりでした」 「感染させたかったのかよ」 「貴方のことはとくに」 「は?」 「でも──いまはもう、そうでもないです」  といってうつむく。  一瞬の沈黙ののち、ぼたんはふたたび顔をあげて倉田とロイを見た。その瞳は、これまで見たことのないほど苦痛に満ちたものであった。  おもわず倉田がたじろぐほどに。 「ぼ、ぼたんちゃん」 「倉田さん」彼女は深々と頭を下げた。 「たった半年でしたけれどほんとに良くしてくだすって、ありがとうございました。わたし本当に感謝しているんです。ほんとにもうこのまま──わたしがただの人だったなら、きっとずっとたのしい毎日だったはずなのに」 「な、なんだよ急にそんな」 「宮沢くんからの報告ずっと聞いていました。文彦くんや貴方が抱えてきた葛藤も、一文字からかけられてきた圧力も、……貴方たちが目指す最大の目的が、母体をころすということもぜんぶ。本来背負うべきものではなかった。わたしが一番分かっています」  報告、と倉田がつぶやく。  彼ら感染者は人にはわからぬ方法で情報を伝達しているという。これまでもこちらが、ひいては宮沢本人すらもが気付かぬうちに母体であるぼたんへと情報が通じていたということだろうか。  だったら、とつぶやいた倉田の声は昏い。 「俺たちがどうしてほしいのかも分かるよな。アンタという存在があるかぎり、倉田家の使命も、七十年前の軍人たちの夏も終わらねえんだ。この意味わかるかい? 俺は一刻も早く──アンタに死ねと言ってるんだよ」 「く、倉田さん」  ロイは目を見ひらいた。倉田がまさか、七十年前の人間とはいえ若い女に対して過激なことを言うとはおもわなかった。しかしぼたんは冷静だった。 「分かっています。でも、まだ死ねない。死ぬわけにはいかないんです」 「往生際がわるいぜアンタ、……」 「助けたい人たちがいる」  ぼたんは涙をこぼした。  こぼれた雫が頬を伝って床へ落ちると同時に、彼女も膝を折ってその場に頽れる。彰と小此木が駆け寄ってその身を支える。張りつめた空気に倉田はたじろいだ。 「ぼ、ぼたんちゃ」 「お願いします。おねがい」  あの子をたすけて。  ぼたんの涙声が響く。おなじくして、また倉田の携帯が着信を告げている。
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