第十五話 一文字孝正

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 ※  明治三十五年、東京葛飾の柴又という活気ある下町で恩田ちとせは生まれた。  兄と妹、弟がひとりずついたが、兄と妹は病で、弟は水の事故で相次いで死んだ。十歳にしてちとせは四人兄妹からたったひとりの子どもになり、それからは両親にずいぶん大切にされた。  蝶よ花よと愛された彼女は、世のなかの穢いものを極力見ぬまま過ごした。さいわいに財力がある家であったから貧しさとも縁遠く、国が困窮するなかでもとくになに不自由ない生活を送っていたのである。  とはいえ親の金に頼ってばかりいたわけではない。  高校を卒業後、ちとせはお国に尽くすためと製糸工場につとめた。  その頃は、第一次世界大戦も終結し、大日本帝国は政府の推進によって訪日外国人が増加していた。たまの休日に出かけた先で稀に見る外国人のすがたは新鮮で、ちとせは珍しいもの見たさのためによくひとりで遠出をしたものだった。  このとき、彼女は十九歳であった。  職場近くの小道を歩いていたちとせは大柄な三名の白人男性に声をかけられる。彼らはちとせに対して愛想よく笑いかけては早口に言葉を並べたてた。女学校で学んだ英語などネイティブの前には役立たず、世間知らずの娘はただ、困惑した笑みを浮かべるしかできなかった。  彼らは、わずかに間を置いてなにごとかを聞いてきた。  ちとせにはわからない。けれど、見た目の威圧感に圧されて「いえす」とうなずいた。その直後から男たちの顔は変わった。ブルーの瞳に情欲を湛え、薄いくちびるをだらしなくゆがめた彼らは、ちとせの肩と腰をがっちりと掴んで林の奥へと連れ立ってあるいていく。  どこに連れてゆかれるのかわからず、ちとせは「やめて」と抵抗した。  けれど男たちは、さきほどまで浮かべていた愛想笑いを鬼の顔に変えて、ふたたび早口でちとせを怒鳴りつける。ことばの意味はわからずとも雰囲気は察した。  彼らは「お前がいいと言った」「お前がわるい」というようなことを繰り返しさけんでいたような気がする。もはや抵抗する術はなかった。なにも知らぬまま育った箱入り娘は、流れに身を任せれば命はとられまいと能天気な考えですらあった。  だから、である。  服を破かれたとき、ちとせの身は理解出来ぬ恐怖に凍り付いた。この後どうなるか想像すら出来ず、四肢を掴まれたときは暴れもがくことさえ忘れていた。地に引き倒され、股を裂かれ、身体中を唾液で穢された。経験したことのない痛み、恐怖、嫌悪に泣けど叫べど、だれひとり助けにくることはなかった。  おのれの状況をようやく理解したのは、三人目の暴欲を受け止めたころ。男たちはさんざん嬲った挙句、ちとせの持ち物から金を抜き取り、さっさとその場から立ち去った。  彼らが誰で、その後どうなったのかは知らない。  けれどちとせにとっては──すべてが狂いはじめた。  襲いくる吐き気と身体の違和感。  それが妊娠のためであると親が知るや、これまでの日々が嘘のように態度が変わって、部屋に閉じ込められるようになった。  彼らが気にしたのは世間体である。  男の影すらなかった娘がとつぜん、婚前であるにも関わらず子種をこしらえていたなど、古臭い慣習に縛られた恩田家には恥でしかなかった。ゆえに堕胎を強要されたが反抗した。親に逆らうなど、生まれてはじめてのことであった。  臨月も間近のころ、家を飛び出した。  行く宛もなく放浪していた矢先、腹が痛んだ。  ドクン、ドクンと身体中が脈打つ感覚。いまにも下半身が張り裂けそうでその場に崩れ落ちる。周囲にはパラパラと人影はあったものの、みな遠巻きに眺めるばかりで助ける気配もない。  あまりの痛みに気が遠くなったときだった。 「大丈夫ですか」  肩を叩かれた。  大丈夫なものか。死にそうだ。と喚きたいが、痛みのため呻き声しか出てこない。男がどこの誰かもわからぬ。  すると男はひょいとちとせを抱き上げて、そばに停まった車の後部座席へと運び入れた。そこにはすでにひとりの青年が座っている。  襟元まで留めたシャツと上等なベストとズボンを履く、いかにも良いとこの坊っちゃんのごとき出で立ちである。 「父さん?」 「お前は前に座りなさい。臨月の妊婦さんだ。小石川の施設へ」  運転手に告げ、自身は後部座席に滑り込むとちとせの手を握った。 「大丈夫だよ、がんばれ。すぐにつくからね」 「────」  息もつけぬ。  けれど握られた手はこれまで親からもらったどの温もりよりも温かく、優しくて、ちとせは必死でうなずいた。  この男が財閥格と名高い富豪、一文字孝正であると知ったのは、五時間に及ぶ出産を終えたあとのことである。  小石川にひっそり佇む白い建物は、一文字家所有の研究施設だと聞いた。設備が整っているゆえ、病院より近いこの場所を指定したという。  ちとせのそばに寝かされた赤子は、栗色の髪とその面立ちから、相手が日本人でないことは明白だった。  けれど孝正は気にも留めず、紅葉のような赤子の手を人差し指でいじくっている。  あのう、とちとせは横になったままつぶやいた。 「ほんとうになんとお礼を申し上げたらよいか──」 「いえ、ひとりで心細かったろうによく頑張りましたね」 「お世話になったのに、わたしいま無一文なんですの。お恥ずかしいことですけれど……」 「お金などいいです。拾ったのもここに連れてきたのも僕の判断ですから。それより、産後の療治が今後に影響していきますから、しばらくここにおりなさい。身体が動けるようになったら、家のことなどお手伝いでもしてもらえばいい。正蔵」  と、孝正はうしろを見た。  ひょっこりと顔を覗かせたのは、齡十六ほどの男子。あの品の良い青年であった。 「息子の正蔵です。なにか困ったことがあったら、こいつに申し付けください。いいね正蔵」 「はい」 「そ、そんな。ご子息さまにご迷惑かけられませんわ」 「気にすることはありません。これも勉強のうちですから」 「勉強──?」 「なあ正蔵」 「はい」正蔵はゆっくりとちとせを覗き込み、笑んだ。 「一文字正蔵です。どうぞ宜しく──」  ひとつひとつの優美な所作に、ちとせの胸はどきりと跳ねた。  それからちとせは、産後療治を終えてもなおずるずると一文字家へ厄介になることになる。  子どもの名は、(はじめ)と名付けた。  実家に戻る決心もつかぬまま、ちとせは一とともに一文字家へ居候を続けた。産後に一度体調を崩した際、治療のためだからと孝正や正蔵に引き留められたこともあってから、気付けば三年の月日が経過していた。  とはいえ、理由はほかにもある。 「正蔵さん」 「おはようちとせさん。具合はどう?」 「もうすっかりいいんですのよ。一文字のお薬が効いているみたいで」 「それはよかった」  ちとせ二十二歳、正蔵十九歳の春である。男がなんたるかも知らぬまま、果ては乱暴を受けたこともあるちとせが、優しさをくれるこの青年に恋をするのは一瞬だった。はやくここを出なければと思う反面、毎朝彼と顔を合わせるたび「あとすこし」と甘えてしまうのである。 「しかし急に薬をやめるのはお身体にわるいですから、今日もがんばろう」  青年はうっそりとわらう。  月に一度の薬投与である。手際よく準備をして、ちとせの腕に注射を刺した。これがなんの薬かはよく知らないが、投与されてしばらくの期間は身体の調子がとてもよくなる。  なにより製薬会社お墨付きの薬なのだから、きっとよいものなのだろう、というくらいの認識だった。 「またなにか身体に変化があれば教えてくださいね」 「はい」  ちとせは、幸せの絶頂にいた。  息子の一が三歳になってすぐのこと。  孝正に呼び出されたちとせは、一文字家の客間へと通された。なにかと多忙であるという彼と顔を合わせるのは数ヵ月ぶりになる。  すでに部屋のなかにいた孝正を見て、ちとせはパッとわらった。 「まあ孝正さん。ご無沙汰しておりました」 「や、しばらく顔を出せずに申し訳なかったね」 「とんでもございませんわ。正蔵さんがとってもよくしてくだすって──」 「好きでやっておるんだろう。このあいだも、一が懐いてきたのが可愛いのだと頬を弛めておったんだよ」 「まあ、そんな」 「どうぞ掛けなさい」  ちとせはソファにちょこんと掛けた。  そろそろ出ていけと言われるのか、と不安に駆られた。けれど孝正は表情から察したようで「わるい話じゃないですよ」とわらった。 「じつはね、────」  このとき語られた話は、今もって忘れることはかなわない。
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