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清潔な朝だった。
夜半から夜明け前にかけて雨が降り、宙に漂う埃を地面に落としてくれたおかげだろう、空は透き通るような薄い青色をしている。朝日が稜線から顔を覗かせると宙に残る水分に反射してきらきらと細かな宝石が光っているように見えた。
杉の木が生い茂る渓谷に小さな人里があった。人の出入りは滅多にない寂しげな里だった。里の中を横断するような一本道があり、その脇にちらほらと家がある。その一本道を東に逸れるともう一つ道がある。その道を進むと見上げるほどの石段があり、息を切らして登り切ると、里の規模に不釣り合いなほど大きな屋敷が現れる。
板張りの廊下は顔が写りそうなほどに磨き抜かれ、大きな庭は手入れが行き届いている。梔子(くちなし)が白い花を咲かせ芳しい匂いを屋敷全体に程よく漂わせていた。
西の対屋(たいのや)には六人の男女がいた。
そこはこの屋敷の奥方の自室だった。
部屋の中央には褥(しとね)が敷かれており、その褥を囲うようにして全員が座っている。
皆、疲れ切った顔をしている。
女中の一人は袖で口元を隠し、もう一人は歯を食いしばりながら涙をこぼしまいと物凄い表情で耐えている。
藤色の小袖に白い袴姿の医師(くすし)が上座に座る青年の前に座った。若い医師(くすし)は両手をお椀のようにして、目の前の青年に手のひらの中を見せた。
「どうにか産声だけでもと思ったのですが・・・・・・」
手のひらの中には小さな赤子がいた。膝を抱えて針のように細い親指を口に咥えている。しかし、ぴくりとも動かなかった。肌は血が巡っていないのか痛々しいほどに白かった。
青年は小さな我が子の頬を指先で撫でてみた。柔らかいのに冷たかった。
「ついていないから、姫だったか」
「はい」
「ツキマチは?」
青年は冷たいと思われそうなほど起伏のない声で言った。
若い医師(くすし)は顔を歪ませながら首を横に振った。
「滋養がたりないとはわかっていたのですが、奥方さまは、里の者にしめしがつかないといって、最後まで遠慮なさっていました」
青年は冷たくなった妻の頬に手のひらを添えた。何かを感じようとしていたのかもしれない。しかし、青年は相変わらず冷静な声で
「そうか。立派な女(ひと)だ」
と言っただけだった。
その時だった。
「ううう」
涙を堪えていた女中がついに泣き出してしまった。声を押し殺しても嗚咽が漏れていた。その涙と声が伝播してもう一人の女中も医師(くすし)も涙をこぼさずにはいられなかった。誰もがこの夫婦の幸せを願っていた。里の者は誰一人としてこの夫婦のことを悪く言うことはないほどだった。
「葬儀の段取りは私がやっておく。みんな一晩中よく頑張ってくれた。妻も娘もみんなのおかげで心安らかに逝けたとおもう。本当にありがとう」
青年の声は特徴的だった。優しくて厚みのある声とでも言うのだろうか、言葉数が少なくても耳にじーんと響く心地よい声を出すことができた。この声を聞くと波だっていた感情もたちまちに凪いでいってしまう稀有なものだった。妻と娘が亡くなっても声が震えることはなかった。
女中たちが部屋を辞する中、若い医師(くすし)だけが残っていた。
「申し訳ありませぬ」
「何がだい? お前はよくやってくれたじゃないか。今日のことだけを言っているんじゃないよ? ツキマチのことをずっと診ていてくれたじゃないか。それは私がよく知ってるよ」
「そうではありませぬ。主人(あるじ)殿の胸の裡に効き目のある業(わざ)を私は知らない。だからそれが申し訳ないのでござりまする」
「大丈夫。私はいつも通りだ。いや、それがいけないのか。でも心配しなくてもいいんだ。言葉にすると嘘のように聞こえるかもしれないけれど、ちゃんと悲しいよ。涙や嗚咽が出ないだけでね。いや、そうじゃないな。お前にだけは話すけど、多分悲しみが大きすぎるんだ。人の胸の裡では受け止めきれないほどに悲しんでいるんだと思う。だから涙も嗚咽もでないんだ。一度でも涙を流してしまったらきっと私は干からびて死ぬまで涙が止まらないと思う。だからそうなる前にやっておかなければならないことがあるんだ」
「やっておかけないといけないこととは?」
「旺我(おうが)だよ」
若い医師(くすし)は糸のように細い目を見開いた。決して口に出さないが信じられないといった表情だった。
青年は安らかな顔をしている妻の顔を見ながら微笑んだ。
「この悲しみは人の身では耐えられない。こんな私だから、誰にもわからないと思うけれど、今私はとても悲しいんだ。今すぐにで剃刀で喉をかき切って二人の後を追いたい。こんなにへらへらしていたらわからないのも無理はない。でもね。悲しいんだ。ちゃんと悲しいんだ。言葉にするのも辛いくらいに、体が悲しみでばらばらになってしまうほど悲しいんだ。でも私は涙を流すことなく笑っている。不思議だよね」
青年は微笑みを浮かべたまま胸の裡を語った。いくらか落ち着いたのか、一度、深い呼吸をした。表情は変わっていないが、またゆっくりとした口調に戻った。
「しかし、私は今死ぬわけにはいかない。簡単に死ぬわけにはいかないんだ。やるべきこともできたからね。だから旺我(おうが)を行わないといけないんだ」
「私は反対です。そのような外法(げほう)を行えば、主人(あるじ)殿魔に変じてしまいまする」
「あはは、そういうと思ったよ」
青年はお包(くる)みに包まれた小さな我が子に触れた。
「人の胸の裡というものは変だ。きっと大いなる理(ことわり)の外側にいるんだね。だって泣きたいほど悲しいのに笑うこともできるし、笑いながら怒ることもできる。しかし、それはやっぱりおかしなことで、知らず知らずのうちに体に苦役を強いてしまっているんだ。それは善人が人を殺してしまったり、悪人が虫を助けるのと一緒だ。胸の裡にあるほんの小さなやましさがそうさせるんだと私は思う。私にはそれが耐えられない。だから今のうちに人の道を外れようと思う。そうすれば棘のように引っかかるやましさは全てなくなる。何もかもが理(ことわり)に乗っ取った車輪のようになるんだ」
若い医師(くすし)は奥歯を噛み締めた。
同じ屋敷に住んでいて、毎日のように顔を合わせている主人(あるじ)の胸の裡がどうなっているのかわからない。
今正気を保っているのか、そうでないのか。酔狂なことをいう人でないこともわかっているし、やると言ったら朝廷すらも敵に回すことを辞さない果敢な人であることも知っていた。だからこそ、今ここで旺我(おうが)を許していいものかわからなかった。旺我(おうが)をすれば取り返しのつかないことになると若い医師(くすし)は知っていた。
若い医師(くすし)の沈痛な顔を見て青年は言った。
「さっきから言っている通り、お前がそんな顔をするよ必要はないよ。だって、お前には共に人の道を外れてもらおうと思っているから」
「私にも旺我(おうが)をしろと?」
「いいや、違う。旺我(おうが)は特別な儀式だ。私とツキマチと娘の間でしかなすことはできない」
「では何を?」
「神をね、殺そうと思うんだ」
青年は微笑みながら言う。
「なんと」
「ツキマチと娘のために調べ物をしているときに見つけたんだ」
青年は懐から一冊の本を若い医師(くすし)に渡した。若い医師(くすし)はそれを受け取って中を見た。外国(とつくに)の言葉で書かれていたが、若い医師(くすし)には教養があったために読むことができた。数枚、本を捲ると、若い医師(くすし)の顔が曇っていく。おぞましいものを見てしまった時のような顔だった。若い医師(くすし)は顔をあげて青年を見た。
「毒ですな」
「そう。でも、それを作るには人の道を外れなければならない。その本を見ればわかるだろう?」
「はい」
青年は若い医師(くすし)の手の上に自分の手を重ねた。
「協力してくれないか?」
青年は顔を伏せていて、表情はうかがえない。しかし、声が震えているのははっきりとわかった。
若い医師(くすし)の胸の深い場所が青年の声の震えに呼応するようにびりびりと震えた。普段は自分でも手の届かない井戸の底のような場所が激しく揺さぶられた。その揺れが何かを壊して、目に見えない何かが胸の裡から溢れてきた。それは涙になって若い医師(くすし)の頬を伝っていった。
「わかりました。地獄巡りに付き合いましょうぞ」
「ありがとう」
それから青年は三日かけて妻と娘を喰らった。
髪の毛一本残すことなく、妻子は青年の体の中に取り込まれた。二人の肉は青年の魂のありかとも言える深い場所にそっとしまわれた。
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