身毒姫(しんとくひめ)

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一 ヒダカは怒った。 枯れ枝のように細い腕を振り上げて、飯の入った茶碗を思い切り投げた。 ごつんと鈍い音がした。 茶碗は運悪く、膳を運んできた女中の顔にぶつかった。女中は唇を切ってしまったのか、口から赤い血を流していた。 女中は突然のことに気が動転して、目をぱちぱちとさせていた。 しかし、ヒダカがキーキーと金切声をあげながら、すぐにその答えを教えてくれた。 「女! こんな、犬の糞とかわらないような不味い飯などよこして、わらわを誰だと思っているのかえ!?」 不味い飯などではない。 脱穀もしてある白い飯だ。 食事の度に白い飯を食べられるなんて贅沢を女中は知らない。白い飯は催事や祭のようなめでたい時にしか食べられないご馳走のうちの一つだ。しかも、ここ数年、疫病による人手不足から不作が続き、米の収穫量もずいぶんと減った。今、ヒダカが投げ捨てたご飯はヒダカの家の者が里の家を一軒一軒回ってかき集めてきたものであった。 「いいえ、そんな滅相もありません、おひいさま。私はただ、運べといわれたものを運んだだけで」 すると、今度は吸い物が入った椀が飛んできた。 女中の顔に吸い物がかかる。 「お前は自分の不手際を人のせいにするのかえ?! 運べと命ぜられれば、わらべにだって膳くらい運べるわ! 誰がこの飯を口に入れるのか考えれて、飯の良し悪しにも気を配るのがお前の仕事だろうが! そんなことさえできぬのかえ? 恥を知れ! この役立たずが!」 ヒダカは小さな口を大きく開けて女中に向かって罵声を浴びせる。 役立たず、などと理不尽に言われ、女中は苛立った。一回り以上も年下の小娘にそんなことを言われたことなど今までなかった。 一度苛立ち始めると、怒りは飛び火していって、茶碗をぶつけられたことや、せっかくの食事を粗末にする態度にも腹が立ってきた。しかし、十三の小娘にムキになって言い返しても大人気ない。ここは怒りを正義感に変え、今後のヒダカのためにと心を鬼にして一度懲らしめようと思った。 「おひいさま。お言葉ですが、そのような言動は謹んで頂いてもよろしいですか? いくら、目が不自由とはいえ、今のような言動は道徳に反します。このように食べ物を粗末にして、恥を知るのはあなたさまの方だと私は思います」 この女中は最近、長者の屋敷に仕えるようになった女中だった。もともとはどこぞの豪族の家の女中で、その時奉仕していた主が大層仁義に厚い立派な男だった。誰に対しても平等に接し、勧善懲悪を是とする正義の人だった。しかし、その豪族の何某というものが朝廷に滅ぼされ、仕えていたこの女中は奴隷として売られた。そして長者がこの女を買ったのだ。 豪族に仕えていた時の癖が女中にはまだ残ってしまっていた。いや、恨みだったのだろう。 感情的になっていた。 それがいけなかった。 ヒダカは普段閉じている目をすぅっと開けた。 女中はその目を見て、ギョッとした。 大きな瞳は灰色一色に濁っていて、死者の瞳とほとんど同じ色だった。 何か嫌な予感がした。 ヒダカの華奢な肩がわなわなと細かく震えた。 女中はまた何かが飛んでくると身構えた。 しかし、女中の予感とは裏腹に、ヒダカはその濁り切って死んでいる瞳から透明な涙をぽろぽろと流し始めた。 「ううう」 「おひいさま?」 「わらわは、おいしい飯を食べたいだけなのじゃ。盲(めくら)のわらわは手引きの者がおらんとろくに出歩けもしない。だから一日中家の中にいるしかなくて楽しみといえば食事くらいしかないのじゃ。でも、この飯は本当に不味い。毒が入っているんじゃないかと思うくらい変な味がするんじゃ。でも、みんな、うまいぞ? うまいぞ? といって、無理矢理食わせようとする。誰もわらわのことをわかってくれないのじゃ」 予想外の出来事に女中は呆気に取られた。 ヒダカは体が弱く食は細い。もしかしたら、他の病気も患っていて、味覚も目と同じようにおかしくなっているのかもしれないと女中は思った。 「す、すみません。おひいさま。そのようなこととはつゆ知らず、無礼をお許しください」 「いいの。いいの。でも、わらわはこの食事は食べられないの。だから、代わりにお前が食べてくれんかえ? 飯を残すと父(とと)さまに叱られてしまうんじゃ」 女中はびっくりした。ヒダカの食事はとても豪華なもので名前も知らないものばかりだった。庶民が一生食べることのないようなものがたくさんあった。 一体どんな味なのだろう。 ごくりと喉がなった。 「ええ。ええ。それはもう。おひいさまが怒られなくてすむように私が代わりに食べてあげましょう」 「本当かえ? 残さず全て食べてくれるかえ?」 「はい。もちろん」 女中がそう言った瞬間、ヒダカは桃色の唇から真っ赤な舌をちろりと出して笑った。 蛇のような笑みだった。 「そうか。ありがとう。でも、嘘はつくなよ」 ヒダカはそう言うと、目の前にあった膳をひっくり返した。 「え?」 女中は意味がわからなかった。 がしゃんがしゃんと食器が床板に落ちて音を立てた。料理が落ちた。そして、ヒダカはにわかに立ち上がると、裾をたくし上げ、血の気の通っていない真っ白い足で床に落ちた料理をぐしゃぐしゃと踏みつけた。 「な、なんてことを!」 ヒダカは女中の情け無い声を聞いて楽しそうに笑った。 「あはは、いやな、お前のような貧乏人は食べたことのないものばかりだろうから、わらわが食べやすいようにほぐしてやっているんじゃ」 泥遊びでもしているように床板の上に散らばった料理の上で何度も足踏みをした。 女中は切なそうな顔をして「ああ、ああ、」と声をもらすばかりだった。 一方ヒダカは足踏みをやめなかった。 米や豆腐や肉をぐちゃぐちゃと踏み潰す。 雅な作りの顔に童女の笑顔が浮かんでいた。 「あはは、ほら、早く食べろ女。食べ物を粗末にするのはいけないことなのだろう? そろそろ食べごろだぞ?」 女中は我に返り、説教をするような口調でヒダカに言い返した。 「そ、そんなぐちゃぐちゃになったもの、食べられるわけ無いではないですか! 食べ物を粗末にするなと言ったばかりでしょう!?」 ヒダカは床板を思い切り踏みしめた。 ドンと大きな音がした。 もう、原型を留めていない料理がぴしゃぴしゃと飛び散った。 「おい、女。約束しただろう? 残さず食べると。わらわに嘘をつくのかえ?」 「嘘などではありません。常識を言っているのです! こんなこと許されません! お館様に言いつけますからね!」 「わらわの言うことをきけないのかえ?」 「聞けるわけないでしょう!」 女中はヒダカを叱りつけた。 ヒダカは女中の顔キッと睨みつけると、まるで目が見えるかのように一直線に女中へ向かって走り出した。 「な、なにを・・・・・・」 女中が戸惑っている隙に、ヒダカは女中に体当たりをかました。 女中は体当たりをまともに喰らって、床に背中と頭を床に叩きつけた。 体を起こそうとすると、胸にヒダカの足が振り下ろされた。 「うぇ」 と、女中はうめき声を上げた。 息を吸おうと女中が口を開けると、その中にヒダカが足を突っ込んだ。 「舐めろ! 女! いやいやをする聞き分けのない奴には特別にわらわが飯を食わせてやる」 女中は口を動かしてもごもごと何かを言っているようだった。 口の中にどろどろになった料理が女中の口に入り込み、喉を通り、胃のなかに落ちていった。 「わらわの言うことをきけ! この役立たずが!」 その後、騒ぎを聞きつけた他の女中たちがこの現場を目撃し、暴れるヒダカを三人がかりで女中から引き離した。 騒ぎ疲れて大人しくなるまで、ヒダカはずっと女中のことを罵っていた。 三日後、その女中は仕事の最中に突然倒れ、その日のうちに死んだ。
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