クロいユリ

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クロいユリ

「ねえ、冗談だよね……?」 「……ごめん」 それは何の前触れもなく訪れた。そしてその言葉を最後に、彼は私の前から姿を消した。 後に聞くところによると、新しい彼女ができたらしい。私は何処の誰とも知らない他所の雌猫に負けた。五年も一緒に居たのに、一緒に話したのに、一緒に歩いたのに、一緒に笑ったのに、一緒に……。私の何がいけなかったの? 私のどこが嫌いになったの? 知りたい。答えを、全て。 欲しい。貴方の、全てが。 私は貴方を、愛してる。 「おいユリ! 何の真似だ!」 「まだ何もしてないよ。ただ少しだけ、私の話を聞いてほしくて」 「こんなところに縛り付けてまだ何もしてないってふざけてんのか!」 睡眠薬なんて市販でいくらでも売ってるし、眠らせるまでは簡単だった。しかしここまで運ぶのは本当に骨が折れた。この為だけにコンテナまで借りたからお金もかかった。でもそんなものは些事に過ぎない。全ては準備。私の心の奥底から溢れて止まない愛を伝える為には手段は選ばない。 「ねえ、あの娘は誰?」 「お、同じ学部の子だよ」 「ふうん。じゃあ随分前から知ってたんだ。でも安心して。彼女には何もしないから」 「俺には何かするってことか……勘弁してくれよ。俺が悪かった!」 「遼……何を勘違いしてるの? 私は怒ってない。逆だよ。愛してるの。だから聞きたいのはそんな上っ面の謝罪なんかじゃない。私は、ずっとずっと、貴方を愛していたいの」 でももう、無駄かもしれない。今の貴方は怯えてる。これはこれで愛おしいけど、私が求めているものじゃない。きっと期待してた私が馬鹿だったんだ。 「なぁユリ、こんなことされちゃまともに話なんてできない。解いてくれよ」 「じゃあ、その前に聞かせて……また私を愛してくれる?」 「……ああ」 そう言うと思った。そうするしかないもんね。でもそれじゃ駄目。無事に帰りたい一心からの嘘だって分かってるから。自分では気付いてないんだろうなぁ……右の眉が上がってるよ。ああ、可愛い。 「私、嘘が嫌いなの知ってるよね。どうしてそんなつまらない嘘つくの……?」 「う、嘘じゃない!」 「でも…遼の嘘なら許すよ。死ぬまで愛していたいから。愛してるから」 「少しは話聞けよ! 全く噛み合ってないぞ!」 聞いてるよ。ちゃんと、全部。そして今の貴方の頭の中は私のことでいっぱい。私のことしか考えられない。どう言い包めるか、どう切り抜けるか、どうすればここから出られるのか。どれをとっても私の思考を考えて動かなければいけない。でもどれだけ考えたところで正解は一つだけ。 至福、恍惚、歓天喜地——。全てが今の私の為に存在する言葉。ふふふふふっ。 「聞いてるよ。それで……どうするの? 遼」 「どうもこうもないだろ! もううんざりだ、やめてくれ! お前とは二度と会いたくない!」 否定。遮断。拒絶。二度目の、三行半。 山のように堆く積まれた藁に投げ込まれた一本のマッチ。それは一瞬にして灰へと変わる。紛れもない事実。 つい数秒前までの私はそこにはいない。一人有頂天で舞い上がっていた私は、今まさに風に舞い散る哀れで儚い灰と化した。 壊れてゆく。私の心が。壊れてゆく。私の世界が。 ——壊さなきゃ。私の愛の為に。 「おい聞いてるのかユリ! ここから出せ!」 ……るさい……うるさいなぁ。私を否定する貴方の口なんて、いらない。いらない。 「いらない」 「……は?」 このコンテナには私を否定する声がよく響く。こんなところにはいられない。動揺して手が震える。膝が笑い続けてる。瞼の裏で明滅が繰り返される。 でも今は仕舞っておこう。もう少しだけ大事に仕舞っておこう。 今度はその口を、塞ぎにくるね……。 「おはよ、遼」 もう昨日ほどの元気はないみたい。私が来たらもっと喚くかなと思ったけど存外静か。ちょっと肩透かしだけど、都合はいいかも。 ダクトテープってどれくらいくっついててくれるんだろ。ま、貼ってみれば分かるか。 ——よしっ。 これで私を否定する口はなくなった。残念だなぁ。貴方の声、凄く好きだったのに。低くてよく通る品のあるバリトン。もう聴けないんだ。ただの呻き声になっちゃった。これじゃゾンビと変わらないなぁ。 「本当はこんなことしたくなかったんだよ……? でもこれで少しは私の話を聞いてくれる気になった?」 もごもごしながら必死になって首を横に振ってる。やっぱり可愛い。口は塞いでおいて正解だった。 でも……ここまでしても私の話を聞いてくれないなら、そんな耳も要らないよね。私を受け入れてくれない貴方の全ては除く。私の中の深い深いところにある愛はもう止められない。一度零したワインは決してグラスに戻らない。それどころかいつまでもずっと残り続ける。私から零れた愛はもう二度と消せないシミになって、貴方の遍く全てにこびりついて落とせないの。再び心から受け入れてくれた時に、また新たなワインが注がれる。私は、グラスは満たされる。 さて、その整った耳はどうしてあげようかな。同じようにテープで塞ぐんじゃ芸がないし、かといって切り落とすのは可哀想。せっかくの綺麗な耳だからね……そうだ。鼓膜。どうやったら破けるかな。 ——へぇ、結構簡単かも。今付けてるヘアピンでできそう。 じゃあ、ちょっと失礼するね。 「わっ、凄い血……大丈夫?」 こんなに大量に流れる血なんて見たの初めて。なんか……ゾクゾクする……。ちゃんと血は止めてあげるからね。これで私を否定するものがまた一つなくなった。うふふふふふふふっ。まだまだ愛してるよ。 「ねぇ、遼。私を見て?」 その漆のように奥ゆかしく艶めいた瞳をまた見せてほしい。その瞳に私を映してほしい。そこに映る私が見たいの。もう断れないよね? どうなるか、分かるでしょ? ——あ、そっか。聞こえないのかな。私の声はもう届かないんだ……。 肌つやの良かった頬は既にこけ始めてる。脂汗でぬるついたその顔を両手で優しく包む。 テープは一気に剥がした方が痛くないって聞いたことがあるけどどうなのかな。えいっ。 「があっ……! んっ!」 いつぶりかな。久しぶりに味わう貴方の唇。甘ったるくて少し酸っぱい。あと……ダクトテープの匂いがする。正直言って台無しだけど、今はそんなの気にならない。私の長い舌でしつこく絡めて離さない。でもやっぱりうるさいなぁ。抵抗するし、ずーっともごもご言ってる。 「っぷはっ、んぅ……そんなに私が嫌いなの?」 「……めろ、出せ……出せよ」 やっと私を見てくれた。真っ直ぐ、じっと。なのに、その眼はなぁに? 恐怖と、苦痛と、怨恨と、後悔と、嫌厭と、絶望。 オニキスのように美しかった虹彩の全てが深い負の感情で染まってる。そんな眼に私は映ってる。そんな眼で見ないで、勘違いしないで。今のこの場は、貴方が自分で撒いた種が大きく実った結果だよ。 ああ、そっか……じゃあこの眼も捨てちゃおう、ね。 もう見てくれないんだ。私のこと。 悲しい。哀しいよ。二度と私のことを見てくれないなんて。でもそんな眼で見られるくらいなら、貴方の瑪瑙が私のことを恨めしく見てくるのは辛いから。その方がずっと苦しいから。 「また……明日来るね」 まだ、愛していたいから。 あっ、テープ。 「ご飯だよ。ほら、口開けて? あーん」 手作りのお弁当だよ。大丈夫、毒なんて入れてないから。そんなことしたら死んじゃうもん。死んだらダメだよ。 良かった、ちゃんと食べてくれてる。好きだもんね、私が作ったビーフストロガノフ。でもその眼はやっぱり気に入らない。私の何もかもを否定するその眼。せっかくご飯食べさせてあげてるのに……美味しい? って、訊いても答えてくれないし。 ふふっ、お粗末様でした。さて——今日は、その眼をもらうね。今さっきまで牛肉を掬ってたこのスプーンで、つるっと。ああ……、オニキスでできた貴方の瞳がこの手の中に入るんだ。想像するだけで興奮しちゃう。これでもう絶対に蔑視されることはないもんね。 私のハンカチを口に詰めて、またまたテープで塞いでおいたから、準備はできた。 「それじゃあ……いただきます」 んんっ、結構力がいるんだ。しかも凄く痛そう……すぐ終わらせるね。 乳白色でふにふにしたタンパク質に埋められた小さなオニキス。血塗れの宝石。貴方の瞳。でも片方だけじゃ意味ない。ごめんね、また痛いかも……。 ……。 ——あれ……? ——何だろう、これ。 ——動かない。どうして? ——これは、何……? 私の目の前に、何かが椅子に座ってる。手脚は縛られ、口は塞がれ、耳からは大量の出血の痕、眼は抉り取られている。これはただ、肉が詰まっただけの人形。 私が愛した遼はどこにいったの……? さっきまでここに座ってたのに……。 ——ああ、シんだの? シんだらアイせないよ。だってこれはアナタじゃない。アナタをコロしたのはダレ? ねぇリョウ、ヘンジしてよ。ウゴいてよ。 こんなことなら、シットしてたホウがヨかった。もう、アイすることはできない。 まだ……いや、それはゼイタクか……ならせめて—— 「もうスコしだけ、アイしていたかった……」
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