2つの僕とハイヒール

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「チャリティーイベントだ。そんなに気負わなくても大丈夫。ランウェイをただ歩いて戻ってくればいい」 「は、はい……」  ショー当日の控え室に来ると、僕の緊張は一気に上がっていった。 「ハロー、リッキー。で、貴方が今日の飛び入りゲストさん?」 「はい、そうです。えっと、その、本日はその、よろしくお願いします!」 「ふふふ、可愛い〜。そんな緊張しないで、楽しんでね」  と言われても、こんなこと初めてだ。緊張しない方が難しい。最初は断るつもりだったのに、彼女の隣で歩けるという誘惑と彼の説得に負けて、結局この有様だ。彼が既に話を通してしまった(それを全部通訳してしまった)以上、もう後には引けない。  いつもこうやって流されてしまう。悪い癖だと思いながらも、直せそうにない。自嘲気味に笑って誰もいない楽屋の奥の個室に入り、溜息を押し込めるように、鏡から目を逸らしたままドレスを身につけた。 「よし、やるか」  リッキーさんが僕の元にやってきて、テーブルに化粧道具を広げた。僕を安心させるように、優しく肩を撫でる。 「大丈夫だ。俺が君を、そのドレスが似合うような美しい女性にしてみせよう。君を悲しませたりはしない。約束する」  俺が君をステージに無理やり引き上げた以上、責任取らないとな、と笑った。僕の熱い肌の上に、ひんやりとしたファンデーションが乗っかった。  何が起こっているかも分からないまま、時折言われる指示に従いながらじっと椅子に座り続ける。 「千晴はどうして女装をしようと思ったんだ? おそらく、周りの人には言ってないように思うけれど」  静かな部屋に彼の声が降りる。躊躇っている間も、彼の目はずっと真っすぐに僕を見つめ続けていた。 「自分が……分からなくて」 「分からない?」 「上手く言えないんですけど……僕はどちらかでいなくてはならないのが、本当に苦しく思うんです」  小学校の時、トイレや着替えが男女別なのが苦手だった。学校のトイレは使わなかったし、水泳の授業は何かと理由をつけて休んでいた。  天秤のように、男性である時の僕と女性である時の僕が交互にやってくる。それは状況、時間を問わず勝手に変わっていって、いつも僕を混乱させた。男の人も女の人も好きになったことはあるけれど、彼ないし彼女といても同じだった。  僕という1人の人間の中に、1人の男性と1人の女性が同時にいる。  僕の中の性別は、あまりにも流動的すぎるんだ。周りの人から見て、僕のこの感覚がおかしいということはよく分かっている。これがなくせたら、どれだけ悩まずに済むのだろう。 「僕は男でいたくもないし、女でいたくもない……変わり続けてしまうだけ。でも、どっちも、それは僕なんです」  誰にも迷惑はかけない。だからせめてそっとしておいて欲しい。 「でも周りの人から見ると、きっとそれは変なんでしょう。……今まで生きてきて、よく分かっていますから。だから……僕は自分を、隠して生きています。女装家という呼び名も、人を表すどんな呼び名も、僕には似合いません。……言葉で説明できないものを、多くの人は理解してくれませんから」  この感覚を知って、受け入れてほしいだけ。ただ、それだけなのに。 「LGBTと呼ばれる人たちですら僕を理解してくれないなら、僕は何なのでしょう? ……分からないんです、僕ですら」  ドレスの上に、水玉の染みが出来ていく。 「なら、分からなくていい」  リッキーさんはメイクをする手を止めて、僕の涙を優しく拭った。 「物事が全て言葉で説明できるものじゃない。よく言われるけど、ジェンダーというのはグラデーションなんだ。それは毎日新しく見つかって、これが自分に近いと思うものを皆が好きに身に着けている。今日こう思った自分も、明日は違うと思っているかもしれない。自分なんて、皆曖昧だ。それに毎日変わっていく。誰も分かりきっている人なんていやしない。そのくらい、皆も分かっていないのさ。……でも」  ブラシとスポンジを置き、優しく僕を抱きしめた。 「分からないものを分からなくても、受け止めることはできる。……君は1人じゃない。同じではないけれど、俺も近い悩みを抱えて生きてきた。君の感覚は完璧には分からないけれど、理解しようとすることは、できる。……人はそれを、愛と呼ぶのさ」  僕も彼の広い背中に腕を回して顔を埋めた。メイクしてくれたのにごめんなさい、と謝ると、いいさ、まだ時間はたっぷりあるからと僕の背を優しく撫でてくれた。  完成し、鏡の中を覗き込んだ僕は思わず自分自身に見とれてしまった。そこにいたのは憧れのオードリーヘップバーンそのものだった。 「どうだ? ティファニーで朝食は食べれそうか?」  キャッツアイとピンクリップ。上品なブラックドレスと真珠のネックレス、写真で見た彼女と僕が今同じになっている。 「はい。僕今、凄く……なんか、ごめんなさい、言葉にならないです。まさか本当になれるなんて」  喜んでもらえて何よりだと満足そうに微笑む彼の目の前で、僕はふわりとドレスの裾を翻した。 「千晴は俺と違って華奢だし、顔も中性的だから全く苦労しなかったよ。ドラァグクイーンになる気はなくとも、こんな風にオードリーの真似をインスタとか何かに上げてみると良いさ。皆君の魅力に気づくはずさ」  振り返った先で、彼が恭しく僕の手をとった。 「――――そうすれば、君はもう1人の君と一緒に、君を愛せるようになる。どうか、自分を愛してくれ。君を受け入れてくれる人が、きっといるから」  スポットライトがステージにさんさんと降り注がれている。アップビートの音楽に合わせて、僕のヒールの靴音が響き渡る。お客さんの目線に怯みそうになった時は、彼――いや今は彼女だ――を見た。  彼女は僕のオードリーに合わせたクラシックなツートンカラーのワンピースと白のハイヒールを纏い、軽やかにランウェイを歩いている。  しかし僕の心配をよそに、会場は皆歓声を上げていて、うっとりした目で僕らを見ていた。隠していたもう1人の僕に、皆が魅入っている。込み上げてくる熱に浮かされたまま、僕はステージの前まで歩いていき、彼女と向き合った。  その潤んだ目に映ったもう1人の僕は僕を見て、本当に嬉しそうに、笑った。
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