2つの僕とハイヒール

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 誰もいない夜のマンションの廊下を見て、ほっと胸をなでおろした。こっそりとドアを開けて家に滑り込み、伸びきった緊張の糸がほぐれていくのを感じながら、僕はするりとハイヒールを脱いだ。  大好きなパステルグリーンのフレアスカートを脱いで化粧を落とせば、いつもの僕が帰ってくる。カチリとスイッチの戻る音が脳裏に響いた。  リビングに戻ると、テーブルに置いていたスマホが光っている。僕の上司からだ。 『お休み中失礼します。社長から君に是非とも、という仕事です。詳細は直接聞いて欲しいとのことなので、聞いてみてください』  僕は首を捻った。社長直々のご指名。一体どういうことだろう? とりあえず言われたように社長にメールを送ると、僕の携帯に電話がかかってきた。 「やぁ、神山君。久しぶりだね。……日曜日の夜という、もっとも憂鬱になる時間に申し訳ない」 「丁度帰ってきたところだったので、構いません。むしろ雨月さんこそ、貴重なお休みなのにすみません。それで、僕にお仕事があると聞いたのですが……」  いいんだと言う彼女の後ろから、女の子の笑う声が電話越しに聞こえてきた。 「……煩かったらすまないね。仕事なんだけれど、今回うちの飛行機を使って、ちょっと変わったお客さんが来るんだ。彼のチケットの手配と通訳を頼みたい。通訳はあくまで周りの言っていることが理解出来ればプロでなくてもいいとのことだから」  チケットの手配は普段の業務だし、何の変哲もない仕事だ。変わったお客さんという点と、通訳をただの事務員に任せていいものかはさておいて。 「それを聞いた限りでは、そこまでこう、変わった仕事に感じないのですが……どうして僕に?」  しばらくの沈黙。ママ? というどこか怪訝そうな声が微かに聞こえた。 「そうだろう、そうだろうね。でもね、私はこの仕事は君じゃないと務まらないと思っているのだよ。……どうだろう、受けてくれるかな?」  その笑みが電話越しでも伝わってくるようだった。面接の時、怯える僕を宥めてくれたあの優し気な笑み。 「詳しいことは言えないと、そういうことですか?」 「……今教えてしまっては面白くないだろう? 人生には驚きが大事なんだ」  教える気はない、ということか。こうなると、聞き出そうとしてもはぐらかされるだけだ。僕が諦めて分かりましたと承諾すると、彼女は満足そうにありがとうと礼を述べ、電話を切った。  切る直前、あの女の子の、ママ変な顔してるー! と笑う声が電話口から聞こえてきた。
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