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「随分ひどい社長さんだな。俺はただ通訳できる人間を知らないかと聞いただけだったんだが」
大きなスーツケースを転がしながら、リッキーさんが笑った。彫りの深い美しい顔立ちと長身でスラっとしたそのシルエット、結わかれた白髪交じりの長い髪は、空港の出口の中で一際目立っていたけれど、それが、『変わったお客さん』ということではないことは確かだ。
「しかも本当は君、ただの事務員なんだろう? 悪いね、通訳までしてもらって……彼女への特別手当の支給を俺からも頼んでおくよ」
まるでハリウッド俳優のような微笑みが僕に向けられて、思わず目を逸らしてしまった。自分でも少し顔が赤くなっているのが分かる。
「いえ、そんな……! 仕事があるだけでもありがたいことです。しかし、リッキーさんはどうして日本へ? どういうお仕事をなさっているのですか?」
「え、待ってくれ。天歌さん、今回の仕事の詳細を伝えていないのか?」
はい、と頷いた僕を見て彼は肩を竦めた。
「そうかぁ……。なら千晴、仕事を増やすようで悪いんだけど、今日の夜、俺の仕事を見てみないか? 君にとってとても面白いものだと思うから」
チャットに送られてきた地図を頼りに建物の階段を下りていく。夜の新宿なんて来ることは早々ないし、裏路地に光る怪しげなネオンの時点で怯みそうになるけれど、来いと言われた以上行くしかない。階段を下りていく足が震えるのがはっきり分かった。階段を降りきり、勇気を振り絞ってドアを開く。
「いらっしゃ~い! あらお兄さん、ここは初めて?」
バーカウンターに佇む女性が声をかけてきた。おそらくバーのママという人なのだろう。派手なメイクとドレスは如何にも2丁目っぽいけれど、これが自分のスタイルだと感じさせる強さがあった。怯えきっている僕を見て心配そうな顔になる。
「ちょっと、大丈夫? リラックス、リラックス。とりあえず、せっかく来たからには飲みましょ。何飲みたい?」
「あ、いえ、そうではなくて……ええっと、その……僕はリッキーさんという方に会いに来たんですけれど……」
「リッキーに? 彼女なら奥の部屋にいるわ。まだ支度していると思うし、しばらくしたら出てくるから、ここで待ってたら?」
彼女?
「あ、えと、すみません、僕の言っているリッキーさんは男性なのですが」
「え? あぁ、そう、そうね。……ふふふ、そうね。でもまだ支度中だから、ちょっとここで待っててくれない? しばらくしたら出てくると思うから。その間は私とお喋りしてましょ。大丈夫。ここはそういうお店じゃないから。ただお酒飲んでお話する場所よ」
何かを隠されていることは感じたけれど、彼女の言葉に悪意があるとは思えなかった。実際ここにリッキーさんがいるみたいだし、支度中に押しかけるのも不味いだろう、そうですねとカウンターに腰かけた。
「お酒飲める? 飲めないならソフトドリンクもあるわ」
「あー、じゃあオレンジジュースを下さい」
「ふふふ、分かったわ。しかし、リッキーと貴方はどんな関係? まさか……」
「ち、違います、僕は彼の通訳なんです。あ、決してプロのというわけでなく、えっと……」
「あぁ、通訳さんなのね。助かるわぁ。私は英語全く分からないし。でも通訳さんがこんなところに何の用かしら?」
「いえ、僕はただリッキーさんに呼ばれたというだけなんです。どうして呼ばれたかも分からないのですが、仕事を見てみないかと言われまして」
瞬きをした彼女の長い睫毛が、鳥の羽のように揺れた。
「……貴方、普段は何の仕事をしているの?」
「え? いや、僕は事務職です。大したことはありません。ただの会社員ですよ」
「そう。それなら今から起こることは、貴方にとって、とっても面白いと思うわ」
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