1人が本棚に入れています
本棚に追加
本編
乾いた風が吹いていた。
上州特有の、空っ風と呼ばれる颪である。
身体を打つような、強い風。砂を巻き上げ、初冬の晴れ空を黄色く霞んだものにしている。
この風の影響か、朝から乾燥が酷く目が覚めたら喉が妙に痛かった。旅籠の女中の奨めで、塩水でうがいをしてみたが、ひりひりとする感覚に変わりは無い。
それに寒い。行き交う人は耐えるように前屈みになり、小走りで目的地を目指している。本当に忌々しい風だった。
(饂飩で温もるか、或いは人を殺すかせねばな)
百々目鈍蔵は、晦日川というさほど大きくはない川沿いを歩いていた。
襤褸の単衣に野袴。それと、煮しめたような色の首巻をして、大小を帯びている。伸びた月代と無精髭もあってか、どこからどう見ても鈍蔵は立派な痩せ浪人だ。
不潔な身形は、鈍蔵の主義ではない。立派な着物を着る財力はあるが、それでは破落戸がはびこる上州では悪目立ちをしてしまう。
上州勢多郡粕川藩の陣屋町。江戸から遥々こんな田舎まで来たのは、殺しの仕事を一つ請け負ったからである。
始末する相手は、粕川藩の豪農・仁井兵衛次郎という男だ。
仁井は伊部村の庄屋であり、広大な農地経営と共に、養蚕農家としても成功した男だった。
その男を何故に斬るのか? そんな事など、鈍蔵は知らない。知ろうとも思わない。殺しを生業とする始末屋は、理由など知るべきではないと思っている。理由の如何に問わず、殺す。それが玄人というものだ。中には、悪人しか殺らないという者もいるが、そんな感傷的な気分で仕事を踏む気は毛頭なかった。
鈍蔵にとって、人を殺せればそれでいいのだ。悪人だろうが善人だろうがどうでもいい。人を殺す。その崇高で尊い行為をするだけで鈍蔵は満たされ、その上に銭までもらえるのだから、これほど幸せな事はない。
生まれは、奥州仙台藩。着坐と呼ばれる、重臣の家系だ。父の川島豊前は奉行として藩政に参画し、尚太郎と名乗っていた鈍蔵は、名門の御曹司として、何不自由無い裕福な家庭で育った。
しかし、尚太郎こと鈍蔵は殺しが好きだった。
何故か? という理由を考えた事はない。子どもの頃から虫や動物を殺し、脇差を与えられると野良猫を斬り殺した。しかし、それが父に知れると、烈火の如く叱られ、激しい打擲を受けた。
「武士たる者が、弱きを殺生し如何とする」
父の言い分はそうだが、鈍蔵には理解出来なかった。武士の本分は、殺す事にあるのではないか。古来より、武士は殺し騙し奪いながら生き延びてきたのではないか。武士道とは、畜生が畜生ではないと思い込む方便に過ぎない。鈍蔵に言わせれば、
「武士たる者が、弱きを殺生せんで如何とする」
だ。
しかし、そんな事を父に言えようはずはない。言えば、座敷牢に閉じ込められて、殺せなくなる。それ以降は、父に知られぬように隠れて殺し続けた。
今川流の道場に足繁く通ったのも、如何にして殺すかに興味があったからだろう。竹刀の稽古だったが、真剣で相手を斬るつもりで立ち合い、一本を取る度に、斬殺された相手の姿を思い浮かべた。
剣は好きだった。天稟があると、自分でも思う。しかし、その腕前を隠す狡猾さも同時に持っていた。剣で名を上げると、目立つ。そうすると、殺しが出来なくなると考えたのだ。あくまで剣は、人を殺すという妄想をする自慰行為に過ぎないと考えていた。
そんな鈍蔵が人を初めて斬ったのは、家督を継ぐ直前の十八歳だった。斬った相手は、猪苗代忠之介という、同じ家格の子弟だった。忠之介は、口数が少なく目立たない存在だった自分を、初めて出会った十年前から侮辱していたのだ。
鈍蔵は、馬鹿にされても笑われてもぐっと耐えていた。内心で忠之介と取り巻き達を見下し、その鬱憤を小動物にぶつけていた。それが突然、限界を迎えてしまった。
思ってしまったのだ。朝起きると同時に、こいつを殺そうと。そう決めてしまえば、心が楽になった。
藩校・養賢堂からの帰り、人気の無い社で取り巻きを引き連れた忠之介を襲った。まず背後から取り巻き二人を始末し、振り返った忠之介を斬り倒した。だが、傷は浅かった。咄嗟にこれでは死なないと判断した鈍蔵は、馬乗りになるや転がっていた石を掴んで、何度も顔に撃ち落とした。
最初は抵抗したが、一発二発と放つ度に抗う力は弱まり、四発を越えると動かなくなった。
三人を殺し終えた時、鈍蔵の魔羅は怒張していた。
殺ってしまえば、他愛もない。あれだけ夢見た人殺しが、容易いものだったと感じたが、それは何物にも代えがたい快感でもあった。
人殺しというものは、何と甘美なものか。もっと殺したい。様々な殺り方を試したいという渇望が芽生えた鈍蔵は、そのまま逃走し仙台藩を出奔した。
それ以降、川島家がどうなったかわからない。家督は弟が継いだであろうが、猪苗代の御曹司を殺したのだ。それだけで、改易もありえる。
江戸へと向かった鈍蔵、それから殺しに殺しを重ねる毎日だった。銭が尽きれば殺し、飢えれば殺し、女を抱きたくなれば殺した。今思うと、始末屋という生業に巡り合えたのも、当然の縁だったのかもしれない。
また風が吹いた。身を切るような冷たさだ。もうすぐ冬が来る。幾ら大好きな殺しが出来るとはいえ、寒いのは好きではない。雪が降るまでに、仕事を済ませておきたいと考えている。
晦日川沿いに軒を連ねる飯屋の一つに、鈍蔵は入った。歯の抜けた老爺が、板場から顔を出して出迎え入れる。
「饂飩」
鈍蔵は短く言うと、土間席の一つに腰掛けた。
客は自分の他に、町人の二人組が向かい合って飯を食べているだけだ。昼餉のかき入れ時を過ぎたからだろう。夜になれば晦日川の対岸では百姓娘が春を売ろうと茣蓙を片手に立っていて、春を買う男達でこの辺りは別の活気で包まれる。
(女を買うより、殺った方が一層温もるというものだ)
どうしても抱きたいと思うなら、殺った後に抱けばいい。鈍蔵も何度か、そんな真似をした事がある。
一番最初に屍を抱いたのは、江戸の深川だったか。とある材木問屋の若旦那の妾を、仕事で殺した時だった。
若旦那の妾だけあって、色っぽい女ではあった。しかし、それとは別に何か惹きつけるものがあったのだ。例えば、右眼の下にある黒子。それが妹と同じだった。
深川の妾宅に足を踏み入れた時、女は鈍蔵を若旦那だと思って振り向いた。しかし、それが見ず知らずの浪人だとわかるや否や、その表情は戦慄し固まった。
その顔が妹に似ていたのだ。湯浴みをしていた妹を覗いた時、妹と目があった。その表情が同じだった。
鈍蔵は怒張していた。妹の名前を叫んで、女に飛び乗り首を絞めた。女が動かなくなると、鈍蔵は下帯に手を伸ばしていた。
後にも先にも、殺しの仕事で屍を抱いたのは、それ一回のみだ。後の三回は、全て趣味で殺した後のものだった。
「おまち」
老爺が饂飩を鈍蔵の目の前に置いた。
親指が汁に浸かっていたが、気にせずに箸に手を伸ばした。
(ほう……)
頼んだ饂飩は、生姜が効いていた。すりおろしたものを入れているのだろう。味は兎も角、身体は温まり喉の痛みは消えている。
「そう言えば、百姓どもが騒いでいるようだぜ」
無言で饂飩を啜っていると、三人組の武士が店に入ってきた。
まだ若い。三十路を迎えた自分よりは年下だろう。綺麗な羽織袴を纏っているところを見ると、この三人は粕川藩士であろう。三人は土間の奥の席に腰掛けると、饂飩と酒を三つ頼んだ。
「ああ、運上金の事だろ?」
「運上金ではないぞ、改料だ」
「変わらんさ」
鈍蔵は、暫く三人の話に耳を傾けた。
「しかし、今回は江戸の田沼様も乗り気なのだ。うちの殿様は田沼様とはご昵懇。幾ら仁井兵衛次郎の頼みでも、今回は首を縦に振らんよ」
仁井の名前が出て、鈍蔵は箸を止めた。
(これが、仕事に関わるかもしれぬな)
殺しの理由を聞く事は無いが、興味が無いわけではないのだ。
「しかし、御家は仁井に借財をしている。簡単には断れんだろう」
「そこだな、問題は。今すぐ貸した金を返せと言われたらひとたまりもない」
「粕川の百姓は、仁井に心服している。問題がこじれたら一揆になりかねんぞ」
三人の話を聞きながら、鈍蔵はある程度の話を把握する事が出来た。
養蚕が盛んな上州では、絹市に改料という名の運上金を掛けようとしていた。それに百姓達が反発。仁井が百姓を代表し藩に掛け合っているが、粕川藩主である大友親鎮は運上金導入を推進する田沼の子飼いで、交渉が上手く運んでいない。普通なら武士の威光でどうとでもなるが、大友家は仁井に莫大な借財をしている。そこで板挟みになっているというわけだ。
(粕川藩にとって、仁井は目の上のたん瘤というものか)
その仁井を殺す。依頼者は知らされていないが、鈍蔵にこの仕事を依頼したのは、嘉穂屋宗右衛門という老人だった。表の顔は両替商の隠居であるが、その実は両国一帯の裏界隈を統べる首領である。鈍蔵はこの嘉穂屋の世話になっていて、お抱えの始末屋として働いている。
その嘉穂屋が、田沼なり大友なりに依頼されたのかもしれない。
(まぁ、どうでもいい事だ)
理由はどうあれ、殺す事に変わりは無い。鈍蔵にとって、殺す理由よりも殺す方法の方が興味が強いのだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇
殺しの機会が巡ってきたのは、それから五日後だった。
仁井が、佐脇村の庄屋に会いに行く為に、僅かな供廻りで村を発ったのだ。鈍蔵は、その途中にある不動尊の傍で身を潜めていた。
護衛は、用心棒が二人。腕の程は、中の上というところらしい。鈍蔵は密偵を二人雇っていて、それなりには調べさせる。
元来の臆病さがある。だが、それ以上に死にたくないという気持ちが強い。それは死が怖いからではなく、もう人を殺せなくなるのが怖いのだ。
まだまだ、人を殺したい。試していない、殺し方もある。一方で、自分が殺される時はどんな快感が襲うのだろう? と、思う事がある。仕事には、危険は付き物だ。その危険が殺しの快感を高揚させる。だから、始末屋という稼業がやめられない。
鈍蔵は左右の手を擦り合わせて、更に息を吐きかけた。
この日も、猛烈な颪が朝から吹いていた。本当に忌々しい風である。不動尊を囲む背の高い芒が、忙しなく左右に揺れている。
上州の荒野だ。周囲には人家はなく、人通りも無い。
「百々目様」
鈍蔵は、不意に名を呼ばれた。
「吉次郎か?」
鈍蔵は密偵の名を呼ぶと、短い返事が返って来た。
「もうすぐ来ますぜ」
芒の中からの返事だった。
「数は?」
「用心棒が二人と、駕籠舁きが二人。それと奉公人が一人。」
戦えるのは、最初の報告の通り二人。しかし、全体では五人。まずは用心棒を斬って、そのあと三人を斬る。仁井は六十を越える老人なので、最後で構わないであろう。
「わかった」
「あっしらはどうしやす?」
「邪魔はするな。ただ、俺が危うくなれば、出て来て構わんぞ」
「へい」
殺しは趣味だ。故に邪魔されたくない。しかし、殺されたくもないので、密偵には万が一には助けろと言ってある。
(来たか)
駕籠舁きの掛け声が聞こえて来た。その調子から、急いでいる様子はない。
不動尊の陰から、顔を出す。もうすぐそこまで迫っていた。
また、風が鳴った。鈍蔵は、腰の長門守時光に意識を集中した。
嘉穂屋の世話になると決めた時に、与えられた業物だった。斬れば斬るほど、鋭くなる。人を斬るのが愉しくなる。そんな心地にさせてくれる、相棒と呼べる存在だった。
もう一度、風。鈍蔵は飛び出した。用心棒が柄に手を伸ばす。その時には、長門守時光を横薙ぎに一閃していた。
「貴様」
用心棒の首が宙に舞った。鮮血。降りかかるより先に、返す刀でもう一人の用心棒を袈裟斬りにしていた。
悲鳴。奉公人を始末し、駕籠を捨てて逃げようとした駕籠舁きを斬り捨てた。
ほぼ一息。思い通りに殺せたが、快感は味わえなかった。その分、仁井に楽しませてもらろう。この荒野では人が通る気配は無いし、この先でおあつらえ向きの廃寺を見つけていた。
「さて」
鈍蔵は、無造作に置かれた駕籠の垂筵に手を伸ばした。
「これは、どういう事だ」
駕籠の中が無人だったのだ。
その時、猛烈な風が吹いた。それと共に伝わる殺気。鈍蔵はゆっくりと振り向くと、こちらに向かって歩いてくる男の姿があった。
風に舞う、黒羅紗洋套。その隙間から、チラチラと朱鞘が覗く。
(あれが、噂の……)
以前、嘉穂屋に聞かされた事があった。隻眼で全身黒尽くめの凄腕の始末屋を、益屋淡雲という裏の首領が抱えていると。しかも、その凄腕は悪人しか斬らないという、えり好みをしているらしい。
(癪に障る男だな)
悪人しか殺さぬというのは。
好き嫌いは良くない。殺しは平等でないと、勿体ないではないか。悪人を殺すのは、さぞや快感だろう。犯した罪を後悔させながら殺すのが醍醐味だ。しかし、善人を殺す快感も、それと同等いやそれ以上のものがある。
奴に、教えてやらなければならない。善人を殺すのもいいものだと。いや、殺し方次第で極楽のような快感を得られると。
吹きすさぶ風の中で、人斬りが二人向かい合おうとしていた。
〔マーダー・イン・ザ・ウィンド 了〕
◆◇◆◇◆◇◆◇
この物語は、絹一揆を背景にその前夜を描いたものです。
楽しんでいただけたら幸いです。
最初のコメントを投稿しよう!