1人が本棚に入れています
本棚に追加
関ケ原の戦い後、斬首となった知られざる男
農民は、肝を冷やした。
突然、後ろから草臥れた侍が現れたからだ。
「そこなる人、こちらへ来られよ」
農民が振り向くと、ひと目で落人と分かった。
関ヶ原の戦い後、落ち武者狩りが始まっていた。
「我は小西摂津守である。先の戦いの敗将だ」
「それはいけません、早くお逃げくだされ」
小西行長は、静かに首を横に振った。
「もはや、わしは逃げる気はない。そなた、私を内府(家康)の所に連れて行き、褒賞を取られよ」
行長は戦い後、彷徨いながら伊吹山に潜伏していた。
いずれは、捕まる。どうせ捕まるのなら、せめてこの首を持って、民に報いたい、
そう行長は、考えてのことだった。
農民は、急な申し出に戸惑を隠せないでいた。
それを見かねた行長が、笑みを浮かべながらこう言った。
「わしはキリシタンゆえ、その神聖なる教えにより、自害はまかり通らぬ。わしを連れてゆけば褒賞があるはず。さぁ、遠慮はいらぬ、縄をかけてくれ」
躊躇う農民を行長は、根気強く説いた。
百姓たちが、二人の様子に気づき、何事かと、集まってきた。
第一発見者の農民は、林蔵主だった。
皆が集まってきたことにより、褒美の独り占めの欲がでてきた。
「ここでは人目があります。まずは、私の宿へ」
聞けば小西行長は、肥後半国の領主ではないか。
家康の元に送り届けようにも、万が一、途中で、奪い返されては、大変だ。
そこで林蔵主は、領主の竹中重門に届け出ることにした。
「なんと!そなたは西摂津守と言われるか。これは大変だ。不備などあれば、どのようなお咎めがあるか…。いずれにせよ、厄介な事よ、直ぐに手配を」
重門は、行長を馬に乗せた上、家臣の伊藤半右衛門に足軽数十人を添えて、
家康の元に届けさせた。帝のいい厄介払いだった。
一方、林蔵主は、褒美として、黄金十枚を受け取った。
それは、戦いからわずか、三日後の9月18日のことだった。
時は遡る…
和泉国堺の豪商・小西隆佐の次男として京都に生まれた小西行長は、隆佐の影響でキリシタンとなり、アウグスティヌスと言う洗礼名を持っていた。
黒幕となる堺商人・越後忠兵衛の商売敵だ。
天海にとっても、算術を用いた戦術は目障りな存在だった。
小西行長は、魚屋弥九郎という商人の養子となり、宇喜多直家の城下町・岡山に住んでいた。
「魚屋」とは、「なや」と読み、それは「納屋」であり、倉敷業を意味する。倉敷業は、金融業も営んでいた。
行長は、若くして宇喜多家中に自由に出入りし、軍用金の調達を担当していた。
羽柴秀吉が、三木城を攻めた。
その結果、宇喜多直家が降伏した時、使者として就いていた。
行長は、織田家の人質として、宇喜多秀家に付き添っていたのです。
秀吉は、他の武士にない、商売人の才覚、貿易の実績と海運に関する後ろ盾を持つ行長に「これは使える」と感じ、堺政所として、取り立てた。
この時、石田三成と職務を同じくするこれが、後の行長の運命を決める。
秀吉は、加藤清正や福島正則、蜂須賀小六など陸軍型闘将とは違う、国際的な視野を備える海軍型外交官、経済官僚を行長に感じていた。
織田家が、天下をほぼ手中にしていた頃、秀吉は、次なる野望達成のためには、武力の才能より、外交能力が必要だと感じていた。
そんな折に、本能寺の変が起き、信長が亡くなった。
秀吉が天下人になると、行長や三成への肩入れが一層強くなった。
面白くないのは、闘将たちだ。
闘将の中には、戦場で戦わず、食料、武器弾薬、軍需物資の輸送などの後方支援を行う行長に対し、「商売人の小倅が」と馬鹿にする者もいた。
小西行長は、実戦が不得手だった。
それが顕著に現れたのが、太田城の水攻め。
城を6里の堰堤で包囲し、紀ノ川の水を流し込み、城の周りを大きな人口湖とした。小西らは船で、土居近くに達したが、土居の中は見えなかった。
城中の者は、小西らの下方の攻めに対して、防御のため、上方から、火を放ったり、鉄砲、矢、石などの一斉攻撃を行った。
広大な城域を水責めにする労力に反し、呆気なく退却する羽目に。
武闘派には、拙劣な作戦を、馬鹿にされ、笑い者にされた。
しかし、秀吉は、行長に瀬戸内海の支配権を与えた。
秀吉としては、瀬戸内海での流通、通商を行長に任せ、貿易の利益を一手にする算段の方がこれからの幕府には必要だと評価した結果だった。
面白くないのは、現場で成果を上げても取り立て褒められず、失敗などしようものなら如何なる苦汁をなめさせられるか。
誰しもがやはり町人上がりに武士など務まるはずがないと高笑いしていたのも、足元を掬われるどころか、重職を手に入れた行長への嫉妬は計り知れなかった。
秀吉の目は、朝鮮に向けられていた。
行長が、朝鮮語が扱え朝鮮通であることを知っていた秀吉は、小西一族に朝鮮人参の買い付けを任せた。
秀吉は、何れ朝鮮が攻めて来るという情報を商人から得ていた。
ならば力がある内に一機に攻め落とし、不安を払拭しよう考えた。
九州征伐に成功し、上機嫌の秀吉の顔が曇る。
友好的に異国との交易を行うはずの港町の様子に秀吉は、長崎と茂木の港がキリシタン領、植民地になっていることを知り、憂いてのことだった。
激怒した秀吉は、直ぐ様、天正15(1587)年6月19日、伴天連追放令を発令。
薄々は感じていた。
しかし、恐るに至らずと放置していた。
それを目の当たりにして、秀吉は、愕然とした。
イエズス会が聖書だけでなく、日本の植民地化を企てていることを、実感せざを得ない情景が、そこに見たからだ。
秀吉は、国内のみならず、国外にも敵がいることを思い知った。命を受けても、宗教を捨てなかった高山右近は追放。キリシタン武将は、悉く教えを棄教した。
小西行長も、例外ではなかった。
小西行長は、信仰心というより、商売の利益に繋がるという打算で、キリシタンとなっていたことは、否めない。
利益を追求する行長は、秀吉に内密に、キリシタン擁護の姿勢を崩さず、自領に秀吉に追放されたキリシタンの高山右近を匿っていた。
一見、裏切りのように映るが、異国との戦いを避けるためだった。
更に言えば、秀吉の為、異国との交渉の糸口を繋げておく事の大切さを知っての事だった。
行長は汚名を浴びても、日本を救うのは、キリシタンとの友好だと考えていた。
しかし、行長の考えは、甘いと考えざるを得ない。
異国との武力の差がある以上、不利な交渉になる。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は、先の先を読んでいた。
大事になる前の小事。
情報を元に、キリシタンの強引な植民地計画を知っていた。
それゆえに、活動の活発化を目にした時に、火種を消し去るように、キリシタン排除に取り組んだのだ。
事実、後後のペリー来航は、アメリカから来たが実はペリーは、イギリスが植民地にしたインドの商社マンだった。
インドにアヘンを作らせ、それをアジアに蔓延させ、植民地にするために送り込まれていた。それを天下人となる者たちは、国家機密として知っていた。
一介の商人の行長には、目先の商売しか見えていなかった。
小西行長は、加藤清正と肥後領を南北で分け合っていた。
両者は、対朝鮮交渉で競い合っていた。
行長は、李氏朝鮮と結託し、加藤清正を滅ぼそうとするが、
李がそれを信じず、願いは叶わなかった。
ふたりは、キリシタンと天台宗の違い以上にうまが合わず、犬猿の仲だった。
行長は、明と秀吉の間に立ち、双方の降伏偽装を企てる。
明には秀吉が降伏したと告げ、秀吉には明が降伏したと告げた。
大阪での明との講和条約を迎えるも、見事なまでに決裂。
行長は、互いを敵視する中、同じテーブルにつかせ、和解させるという直接交渉に光を見出したが、その考えは甘かった。
結果、益々、加藤清正とは、講和条約や作戦面で対立の色を濃くしていった。
口先三寸で交渉する行長と、武断派との対立抗争が、深みに嵌っていく。
秀吉の怒りを買うも小西行長は、前田利家と淀殿の取りなしもあり、許されることになる。秀吉が死去すると、行長は、取次役として家康に近づいた。
まさに算術の成せるまま、損得勘定で行動に移す行長。
算術と義士のすれ違いは、埋まるどころか深みを増すばかりだった。
慶長5年(1600)の家康による会津征伐に際して、行長は参加の意を表明するが、家康には軽くあしわられ、上方残留を命じられる。
その時、自分が家康に信じられていない、軽んじられていることを悟った。
家康の元では、我が身は無き、と確信した。
家康は、武断派。三成、行長のような文治派を良しとしないことは、他の武断派武将と同じだった。
結果、関ヶ原の戦いでは石田三成と呼応し、西軍の将として参戦。
行長は、気を改め本戦では、東軍の田中吉政、筒井定次らの部隊と交戦する。
しかし、西軍にいた、東軍と通じていた武将たちが、小早川秀秋の寝返りを待つように、次々に反旗を翻す。
西軍の参謀的重鎮、大谷吉継が壊滅。
小西軍、宇喜多軍も崩れた。
小西行長は、彷徨いながら伊吹山に逃れた。
その後、自ら出頭し、家康の元へ。
10月1日、市中引き回しの後、六条河原において、石田三成、安国寺恵瓊と共に斬首された。
その際、行長はキリシタンゆえに浄土門の僧侶によって、頭上に経文を置かれることを拒否した。
ポルトガル王妃から贈られたキリストとマリアのイコンを掲げて、三度頭上に載せた後、首を打たれた。
処刑後は、首は三条大橋に晒された。
死に臨んで告解の秘蹟をキリシタンだった黒田長政に依頼するが、家康の命もあり断られた。
司祭も近づくことを許されなかった。
遺体は改めて、秘蹟を受けた上で、絹に包まれ、カトリック方式で葬られた。
家康を、豊臣・三成への思いで、敵に回した訳ではなかった。
自分の居場所を失い、西軍に活路を見出しただけだった。
多くの敗軍武将は、東軍の功績のあった武将を通じて、罪の減刑を受けた。
しかし、小西行長を助けようとする者は誰もいなかった。
出生・家柄、、誇り・絆を重んじる武士たちに受け入れられなかった。
計算高い行長の誤算は、目先の算術だけでなく、人間関係を築くことを怠ったこと。そこには算術だけでは解けない問題がある事に気づくのが遅かった。
絆を深めていれば、斬首は逃れられただろう。特に商才はあった。それを利用したい者はいたのに違いない。そこに活路があった。しかし、自分と言う商品を売る才能には些か考えが幼かったのが悔やまれる。そう、天海は思っていた。出来れば、傍において育ててみた、とも思いもした。だが、教えるとするには行長は育ちすぎていた、と天海は、三条大橋に晒された行長を憂いていた。
この世とは、人との繋がりありきで、動いている。
人の心を如何に動かせるか、共鳴を得るかで、物事の成果に大きな影響を及ぼす。
そのことを、行長は、自らの亡骸を魂として見た時、痛切に感じていただろう。
最初のコメントを投稿しよう!