さよなら七月七日

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 建築家の色川真澄はスタイリッシュで洗練されたデザインをするが、彼自身の住処となると目も当てられない凄惨さだった。汚いのだ、家の中が。物は散乱し、足の踏み場もない。脱ぎ捨てられた服はぐちゃぐちゃ。現に彼はチラシか何かの上に平気で座り込んであぐらをかいている。灰皿からは吸い殻が零れそうだ。俺はたまらずぼやいた。 「昔はもっとましだったのにな」  そのくせ、とある一角だけは神聖なまでに片付いているから奇妙だった。俺はそれも心底気にくわない。 「なぁ千秋」 「何?」  名前を呼ばれ、ぶっきらぼうに返す。すると真澄は何かを思案してから、ふっと俯いて口をつぐんでしまう。あぁまたか。いつもこうだ。 「言いたいことあるなら言えよ」  彼は優柔不断だ。十年前に大学で知り合った頃からずっと。同じ建築学部で、俺は真澄と同じ夢を追っていた。やつはアイディアが固まるのは誰よりも遅いのに、完成品は頭一つ抜けて質が高く独創的だった。  五年前、付き合い始めてからも、三年前、真澄の家に俺が転がり込んでからも、彼の性格は変わらなかった。真澄は物事を決めるまでに長い時間を要する。 「誰これ。なかなかイケメンじゃん。デートのお誘いかぁ。よかったな」  うなだれた彼がつけたスマートフォンの画面をのぞき込んで、俺はその痩せた背中に語りかけた。 「はぁ……」 「なんでため息ついてんの? 早くオーケーしろよ」 「千秋を裏切ることになる」  俺はぐっと息がつまった。……そうだな。いや、違うか。別にもう俺たちはそんな関係じゃない。好きにすればいい。  一つ屋根の下、同じ空間にいるのに。ある日を境に俺と真澄はまともな会話すらできなくなった。触れ合うこともなくなった。こんなんじゃいけない。本当はすぐにでも前を向いて、踏ん切りをつけて、一歩、進み出すべきなんだろう。例え互いの行く末が違う世界なのだとしても。  ……わかっちゃいる。わかっちゃいるんだ、頭では。だけど俺は目の前の男から離れらなくて、彼もまた俺に囚われたまま。 「なぁ真澄」  この家にいると楽しかった記憶が蘇る。二人で過ごした日々はかけがえのない思い出だ。上手くも下手でもない料理をして、酒を飲んで笑いあった。風呂掃除をどちらがやるかで小一時間もめた。ロマンス映画を見た後は、無性に気恥ずかしくなりながら互いを慈しんだ。キスなら何万回もした。肌を重ねることも好きだった。外面も内面も、見て欲しい部分も知られたくない秘密も、全部全部、曝け出して愛しあった。確かな時間がそこにはあったんだ。 「千秋」  もう呼ぶなよ! 痛くてたまらない。胸が軋んで音を立てている。呼吸ができない。苦しい。どうして、なんで、未だにこんなに鮮烈な感情を抱くんだ? 手を伸ばしたって、もう届かないのに。 「千秋」 「っ! なぁ真澄、聞いて!」 「ごめん千秋」 「謝るな! ……いいんだ。いいんだよ」 「千秋……俺」 「遠慮する必要なんてない。真澄の幸せが俺の幸せだから」  俺はとんだ大嘘つきだ。本当は永遠にそばにいて欲しい。 「ははっ。ほんっと優柔不断だよな、真澄はさ。そんなお前に俺からのサプライズだ」  愛してやまない相手に干渉できるのはたったの一回きり。覆されることのない取り決めだった。これが済めば俺の役目も終わる。 「真澄、覚えてる? 悩み事はよくこれで解決したよな」  俺はリビングの片隅にあるオーディオデッキへと近づいた。二人の好きな曲が雑多に入っている。ランダム再生をして最初に流れた曲が真澄のなら迷わず今すぐ実行。俺のなら三日間考えてから実行。つまるところ結局やるにはやるのだが、いつ動くかが大事だった。  気付いてくれるだろうか。わかってくれるだろうか。ランダムになんてしない。俺は震える手でリモコンのボタンを押した。突如、大音量が部屋の空気を震わせる。 「っ! 何だ!」  ビクッ、と真澄は肩を揺らした。驚かせてしまったようだ。刹那、彼の目が見開かれる。恐怖と不安と、一抹の期待の色がその瞳に宿った気がした。 「……千秋? 千秋なのか?」  彼の声は悲痛だった。 「千秋がやったのか? これは……俺の好きな曲だ」  千秋、千秋、と繰り返して、とうとう彼は泣きだしてしまった。  あぁ、神さまお願いだ。彼を幸せにしてください。俺が生涯で一番深く愛した人。誰より尊敬し、憧れた人。恋しくて恋しくて、だけどもう一緒に歳を重ねることの叶わない人。どうか、彼を泣かせないで。 「さようなら、真澄」  俺はいつまでも、きみを愛している。
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