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1-10 焦燥
「一体、どういう事なんですか?!」
病室の廊下で警部補は担当主治医に詰め寄った。
「あ・あの、私の専門は外科なので説明を求められても困るのですが…」
白髪交じりの男性医師は壁際に追い詰められている。
「それじゃあ、専門の医師をここに連れて来て下さいよ!あのままじゃ取り調べなんて出来っこないじゃないですか?!」
「そんな事言われましても本日は心療内科の医師が不在の日なので…」
「はあ?病院は24時間いつでも対応出来るものじゃないんですか?我々警察だって24時間いつでも対応できる準備をしてるんですよ?!」
「医者と警察を一緒にしないで下さい!」
「何だと!」
「警部補、落ち着いてください!すみません、先生。血の気が多い方なので…」
若い警察官は必死になって二人の間に入って止めに入った。
「と、とに角家族に連絡を取って下さい!私たちだって困っているんです。精神は幼児返りしてしまっているし、頸椎損傷と言う大怪我を追ってるので今コルセットで固定していますが、これから大きな手術をしなくてはならないので親族の同意書が必要なんですから!」
あの騒ぎから約1時間後―
病院の談話室で警部補とその部下はコーヒーを飲んでいた。
「それにしても長井には驚きましたね。自分の犯した罪を逃れる為に演技をしてるんでしょうか?」
部下は口を開いた。
「いや。それは多分無いな。とても演技している様には見えなかった。」
つい先ほどまでの長井とのやり取りを思い出すと苦々しい気持ちになってくる。
今から30分程前の事…
「長井、里中って男を知ってるか?お前の親友だと言ってるが?」
警部補は長井の枕元に椅子を持って来ると、そこに座り質問した。
「誰?里中って人?どんな人なの?親友って…お友達の事かな?」
「お前が出入りしていた病院のリハビリスタッフの男だ!ずっと嫌がらせの無言電話をかけていただろう?!」
「うう…このおじちゃん、怖いよお…」
長井は再び目に涙を溜めながら怯えている。
「それじゃ質問を変える。この人物は分かるだろう?お前がストーカーしていた女性だ」
里中が持っていた千尋の写真を見せると長井の目の色が変わった。
(やはり、今まで演技していたな?!)
「うわ~綺麗なお姉ちゃんだねえ。僕、大人になったらこのお姉ちゃんと結婚したい!ねえ~この写真僕にちょうだい。ね、いいでしょう?」
長井はニコニコしながらおねだりした。
大の成人男性の幼児退行は、警部補を含め他の警察官達にも奇異に映った。中には笑いをこらえてる警察官もいるし、顔をしかめている警察官もいる。警部補に至っては嫌悪感しか抱けなかった。
「くっそ!!」
警部補はいら立ちを隠せずに椅子から立ち上がると、部屋から出て行った。その後を一人の部下が慌てて追う。それが先程起こった出来事であった。
「いくら長井があんな状態になったとは言え、奴はストーカー行為だけでなく放火の犯罪も犯している。仕掛けられていた監視カメラにばっちり長井の顔が映し出されているからな。絶対に言い逃れは出来ん」
警部補はコーヒーを一気にあおった。
「でも、精神疾患があれば刑法で罰する事は出来ませんよ?」
「そこなんだよ…」
警部補は頭を抱えた。
「あの~これは自分の考えなんですけど…」
「ん?どうした?何か名案でもあるのか?」
「里中さんに長井と会って貰うのはどうですか?どのみち長井の目が覚めたら自分の所にも連絡して欲しいと彼、言ってましたよ。里中さんに会う事で元の長井に戻る事は考えられませんか?」
「ふ~む…試してみる価値はあるか。」
仕事が一段落し、遅めの昼休憩に入ろうとしていた里中を主任が呼び止めた。
「里中、ちょっといいか?お前に電話がかかってきているんだが」
「電話の相手って誰なんですか?」
里中は受話器を受け取りながら尋ねた。
「警察からだよ」
「え?」
(まさか長井の目が覚めたのか?)
逸る気持ちを抑えながら里中は受話器に耳を当てた。
「お電話替わりました、里中ですが」
「はい…はい。え?!…そうですか。分かりました。後程そちらに伺います。迎えに来てくれるんですか?ありがとうございます。連絡お待ちしています」
電話のやり取りをしている様子を主任はじっと見つめていた。里中が受話器を切ると尋ねた。
「警察の人、何だって?」
「長井の…目が覚めたそうです。俺にどうしても今日会わせたいって言ってきました。仕事が終わる時間に迎えに来るって言われました」
「そうか…」
「俺、まだ信じられないんですよ。あの長井がストーカー行為をしていた挙句の果てに、二度と歩けない身体になってしまうなんて。どうしてあんな事をしたのか
はっきりアイツの口から聞きたいんです。千尋さんにも怖い思いをさせ、俺にも嫌がらせの無言電話をかけてきてるのにどうしてもアイツを憎む事が出来なくて。
俺って変ですか?」
主任は黙って聞いていたが、やがて口を開いた。
「やっぱり里中、お前っていい奴だな。」
「え?」
「考えても見ろ、普通の人間だったら自分が親友だと思っていた相手にこんな裏切りの様な行為をされれば憎しみに替わると思うぞ?でもお前は、そうはならなかった。純粋な人間だって事だよ」
「い・いや…単純馬鹿なだけですよ」
里中はポリポリと頭を掻いた。
「里中、お前今日は早めに上がっていいぞ。警察にも連絡いれておいたらどうだ?警察の方でも早めに協力して欲しいと思っているだろうから。17時にはあがっていいからな」
「はい!ありがとうございます」
主任に言われた通り里中はあの後警部補に連絡を入れ、17時に仕事を終えると既に病院の前にパトカーが待機していた。
「里中さんですね?どうぞお乗りください」
運転していたのは初めて見る警察官だった。お礼を言って乗り込むとパトカーが走り出す。里中は窓の景色を眺めながら千尋の事を考えていた。
「すみません、電話をかけてもいいですか?」
里中は運転中の警察官に声をかけた。
「ええ、どうぞ」
里中は<フロリナ>のアドレスを開くと電話をかけた。何回かの呼び出し音の後、
「はい、フラワーショップ<フロリナ>です」
里中の聞き覚えの無い女性の声だった。
「山手総合病院のリハビリステーションスタッフの里中と申しますが、青山さんを御願いします」
「申し訳ございません、青山は本日お休みを取っております。何か急用でもありましたら伝言致しますが?」
「あ、いえ。大丈夫です。別に大した用事でもありませんので。失礼しました」
里中は電話を切ってため息をついた。
「まあ…昨日の今日じゃ無理無いか…」
「渡辺さん、さっき電話がかかってきてたみたいだけど何の電話だったの?」
接客を終えた中島が渡辺に尋ねた。
「山手総合病院の里中って人から千尋ちゃんの事を聞かれたの。お休みだから伝言があれば伝えますって言ったけど大丈夫ですって断ってきたけどね」
「え?里中さんからだったの?青山さんが休みだって事知らないから電話してきたのね。何か進展あったのかしら…」
「千尋ちゃん、ヤマトがいなくなってさぞ心配でしょうね」
ポツリと渡辺は言った。
「本当にね…」
「あ、店長こちらにいたんですね」
突然男性が顔を出してきた。新しく雇った店員で年齢は29歳。千尋のストーカー事件をきっかけに中島は男性を起用したのであった。
「ここの納品書で確認したい事があるのですが」
「分かった、原君。すぐに行くから」
「お願いします」
原と呼ばれた男性は、すぐ店の奥に顔を引っ込めた。
「原さんて中々働き者ですよね」
渡辺は言った。
「そりゃそうよ、私が面接して決めたんだから。さて、仕事に戻りますか」
「そうですね 」
その時、自動ドアが開いてチャイムが鳴った。
「「いらっしゃいませ!」」
中島と渡辺は声を同時に揃え、接客へと向かった。
一方、その頃里中はパトカーを降りて警察病院の前に立っていた。
「長井…」
「里中さん!お待ちしてました」
警部補自ら里中を出迎えに病院から出て来た。
「いや~すみません。わざわざご足労頂いて」
歩きながら警部補は言った。
「いえ、それより長井の目が覚めたって電話で教えて貰いましたが、どうですか?アイツの様子は」
「いや~それが実はですね…」
「どうかしたんですか?アイツ、千尋さんにストーカー行為をしていた事認めたんですか?それに自分がもう歩けなくなった事は話してあるんですよね?アイツが自分の罪を認めて改めるなら、俺は長井を自分の患者として受け入れてリハビリの訓練をさせたいと思ってるんです」
「…」
警部補は里中の話を黙って聞いている。
「どうしたんですか?何かありましたか?」
里中は警部補の様子がおかしい事に気が付いて声をかけた。
「里中さん、いきなり長井に会うと驚かれるかもしれないので、事前に伝えておきます。実は、長井は…」
「ガシャーンッ!!」
その時、長井の病室で激しくガラスが割れるような音が聞こえた。
「嘘だあああああっ!!」
長井の絶叫する声が聞こえる。
「おい、落ち着け!!」
「静かにしろ!!」
部屋の中では長井を必死でなだめようとしている声が聞こえる。
「嫌だあーッ!!僕、もう二度と歩けないなんて嫌だよーっ!!ウワアーンッ!!」
激しく泣き叫ぶ長井の声。
「な・何だ?あの鳴き声は長井なのか?!」
尋常じゃない様子に里中は驚いた。
「チッ!誰がしゃべったんだ?まだ内緒にしておけってあれ程言ったのに!」
警部補は忌々しげに舌打ちをすると急いで長井の部屋のドアを開け放した。
慌てて里中も警部補に続く。
そして目に飛び込んできた光景を見て里中は愕然とした—
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