1-11 それぞれの思い

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1-11 それぞれの思い

床には割れた花瓶の破片と花が散らばり、びしょ濡れに濡れている。 ベッドの上には顔を真っ赤にして涙でぐしゃぐしゃになりながら泣きじゃくっている長井がいた。周りにいる警察官達は引っかかれでもしたのか顔や手首などに赤い筋があり、血が滲んでいる。 「皆出て行ってよーっ!うわーんっ!ママーッ!!どこにいるのーっ」 「な・長井…?お前、一体どうしたんだ…?」 里中はゆっくりと長井に近づこうとすると、今までにない程の憎悪のこもった目で睨まれた。 「誰だ!お前は!僕の前から消え失せろっ!!」 言うと長井は手元にあった時計を里中に向けて投げつけた。咄嗟によけた時計は激しい音を立てて床に落ちる。 「だ・駄目です!里中さん!ここは一旦引きましょう!」 呆然とする里中の腕を引っ張ると警部補は強引に部屋の外へ連れ出した。 「すみません!警部補!自分の見込み違いでした!」 里中に会わせてみたらどうかと提案した警察官が頭を下げた。 「むう…。いや、気にするな。長井の今の状態は誰の手にも負えないだろう」 警部補は腕組みをしながら言った。 「どういう事なんですか?長井に何があったんですか?説明して下さいよ!」 里中は警部補に問い詰めた。 「実は医者の話によると長井は幼児退行を起こしてしまったらしいんです」 「幼児退行?」 「原因はまだ分かっていませんが、例えば強いストレスやショック等の様々な原因により発症すると言われている精神疾患です。長井の場合、歩道橋から落ちて頭部を強打したのが原因か、もしくはその前に何か強烈なショックを受けて、あのような状態になってしまったのか…。とに角まともに事情徴収出来る状態じゃないんです。おまけに誰がしゃべったか分からないが、二度と歩けない身体になったと本人に告げたようだし。こちらとしては長井が元通りになってから話すつもりだったのに」 警部補は深いため息をついて、里中を見た。 「あなたに会わせれば、長井が元に戻るかと思ったのですが、逆効果だったみたいですね。かえって興奮させてしまったようだ。先程医者に注意されましたよ。大事な手術が控えているのにこれ以上患者を混乱させるなって」 「…」 里中は黙って話を聞いている。 「とりあえず、長井の両親とは連絡が取れましたよ。実家が北陸のようで明日にはこの病院に着くそうです。」 「長井の両親には全て話したんですか?」 「ええ、ストーカー行為を行って放火をした事も、歩道橋から落ちて頸椎を損傷して二度と歩けない身体になった事も全て合わせて。でも青山さんの事は話していませんよ。プライバシーの問題がありますからね」 「そうですか…」 「とりあえず、別の班が長井のアパートからPCや携帯を押収したので色々調べ上げていきます」 「俺は長井には…?」 「もう会わない方がいい、と言うか会わないで頂きたい。長井の反応次第では捜査に影響が出る可能性があるので。…こんな言い方をして気に障るかもしれませんがあなたに出来る事はもうありません。今までご協力ありがとうございました」 警部補と部下は頭を下げた。 「…」 ここまで言われては里中には返す言葉は無かった。 「俺…帰ります」 里中は背を向けて歩き出した。 「送りますよ」 若い警察官の申し出に首を振った。 「悪いけど一人で帰らせて下さい」 長井のあんな姿を見るのは正直辛かった。一刻も早く病院を立ち去りたかった。里中は逃げるように病院を後にしたのである。  夜の帳が下りて来た。 すっかり暗くなってしまった部屋で千尋は膝を抱えて座ってる。警察官が帰った後、千尋は必死でヤマトを探し回った。長井が倒れていたという歩道橋の下にも行ってみたし、初めてヤマトと会った場所もくまなく探した。そして保健所まで探しに行ったが、結局ヤマトを見つける事は出来なかった。もしかすると自分が不在の時に家に帰ってきているのではないかと思い、急いで帰宅してみれば予想は見事に覆された。  目の前にはヤマトの餌と水が置かれている。 「ヤマト…」 千尋は今日1日一切食事をとっていなかった。祖父が亡くなってから1日たりとも側を離れなかったヤマトがいない。胸にぽっかり穴が空いてしまったかのようだ。好きな料理を作る気力も残っていなかった。 「どこへ行ってしまったの?ヤマト…あなたまでいなくなったら私本当に独りぼっちだよ…」 千尋は肩を震わせて泣き続け、やがて疲れ果ててそのまま眠りについてしまった。 「う…ん…」 眩しい朝日が千尋の顔に当たった。 「え?」 千尋は慌てて飛び起きると自分の今の状態をぼんやりと考えた。 「確か、昨夜はヤマトが帰って来るのをこの部屋で待っていて…それでそのまま眠ってしまった…?」 時計を見ると6時を指している。床で眠ってしまった為、身体中がズキズキと痛む。 「…取り合えずシャワー浴びよう…」 千尋はノロノロと起き上がり、着替えを自分の部屋から取ってくると脱衣所で服を脱ぎ、熱いシャワーを浴びて着替えた。 「食欲…無いな」 昨日から何も口にしていないが、何かしら食べないと。そう思った千尋はバナナをカットしてガラス容器に入れると冷蔵庫から無糖のヨーグルトに蜂蜜をかけた。 「いただきます」 手を合わせ、ゆっくりと口に運ぶ。たった一人きりの食卓がこれ程寂しいものだとは思わなかった。 「私って…こんなに寂しがりやだったんだ」 千尋はポツリと呟いた。本来なら今日も仕事を休んでヤマトの行方を捜したかった。けれどもいつまでも店を休んで職場の皆に迷惑をかける訳にはいかない。 それに働いていれば寂しさも紛れる。 「今日は出勤しよう」 千尋は簡単な朝食を済ませ、片付けを終えると中島の携帯にメッセージを送った。 《 本日は出勤します。ご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ございませんでした ≫ (お弁当、作り損ねちゃったからコンビニに寄ってから出勤しよう) 家の戸締りをすると千尋は 「さ、行こう。ヤ…」 そこまで言いかけて口を噤んだ。つい、いつも通りにヤマトに声をかけてしまった事に気が付いた。 (いけない、今ヤマトはいないのに。しっかりしなくちゃ) 千尋は頭を振ると、職場に向かった。 「青山さん、本当に今日無理して出勤しなくても良かったのよ?」 出勤してきた千尋に中島は心配そうに言った。 「そうですよ、私もいるんですから今日1日お休みした方が良いと思いますよ?」 新しく入ってきた原も声をかけてきた。 「いいえ。家に一人でいても気が滅入るだけだし、ここで皆さんと働いてお客様達と接する方がずっといいんです」 「そうなの?青山さんがそこまで言うなら私たちは何も言う事は無いけど?」 中島と原は顔を見合わせて頷いた。 「はい、もうストーカー事件も解決したので大丈夫です。接客業もしますので、またよろしくお願いします」 「それじゃ、来週からまた山手総合病院の生け込みの仕事に行ってもらっても大丈夫?」 中島は遠慮がちに言ってみた。 「はい、全然問題ありません。里中さんにもご迷惑おかけしてしまったようなのでお詫びもしたいですし」 千尋は里中が長井から毎晩嫌がらせの無言電話を受けていたのも聞かされていた。 「病院には私から連絡をいれておくわね。来週からまた青山さんが行きますって」 「はい、お願いします」  その後、パートの渡辺は本日休みの人なっていたので千尋はその分も接客やら配達等で退勤時間まで一生懸命働いた。常連客は久々に見る千尋の姿に喜び、多めに商品を購入していく客もあった。  1日の業務が終わり、シャッターを閉めた後中島は千尋に尋ねた。 「青山さん、今日はこの後どうするの?」 「本当はすぐにでもヤマトを探しに行きたいところですが、家に帰ってヤマトを待ちたいと思います。家に戻ってきた時私がいないとヤマトが寂しがるので」 「そう…」 中島は何かを思い詰めた様子だったが、やがて言った。 「ねえ、青山さん。ビラを作ってみる気はない?」 「ビラですか?」 「うん、ビラ。ヤマトの写真入りのビラを作るのよ。この犬を探しています、お心当たりの方は連絡を下さいって。連絡先は<フロリナ>にして。この店にもビラを貼ってあげるから」 「いいんですか?」 「勿論、だってヤマトはこの店のマスコット的存在だったんだから。他にも得意先のお店とかにお願いして貼らせてもらうのよ」 千尋の表情がパアッと明るくなった。 「店長、それすごく良いアイデアですね!是非お願いします!」 「任せて、知り合いの人でDTPデザイナーの人がいるからビラを作ってもらえないか頼んでみるね。それじゃ、帰りましょうか?」 「はい!」  中島は千尋と別れた後里中に電話をかけた。何回かの呼び出し音の後、里中が電話に出た。 「はい」 「もしもし、中島です」 「こんばんは。連絡くれたんですね。どうですか?千尋さんの様子は?ヤマトは見つかったんですか?」 「それがまだ見つからないのよ。でもヤマトを探すビラを私が知り合いに頼んで作って貰おうかと思ってその話をしてみたらすごく喜んでくれたの」 「…俺にもヤマトを探すの手伝わせて下さい」 「大丈夫なの?長井の面会に行くんじゃなかったの?」 「もう長井とは会いません」 「どうして?何があったの?」 「あいつ…頭がおかしくなってしまって。もう俺が誰かも分からなくなっていました。それどころかすごく憎まれているようで警察からも長井とは今後会わないように言われました。俺がいると余計長井の具合が悪化するって」 「そうだったの…」 「時間が取れる限りヤマトを探す手伝いをしたいので、ビラが出来上がったら俺にも分けて下さい。お願いします」 「本当にお願いして大丈夫?」 「はい!うちの病院の患者さん達もヤマトに会いたがってるので。でも、絶対千尋さんには内緒にしておいて下さいね。気を使わせたくないので」 「分かった、それじゃビラが出来上がったら連絡入れるわね。じゃ、また」   中島は電話を切ると夜空を見上げた。 「もしかして、里中さん…青山さんの事好きなのかな…?」   4日後ビラは完成した。 プロが作ったビラだけあって、素晴らしい出来だった。 千尋をはじめ、店長・渡辺・原はお店にやって来る客にビラを配ったり、取引先の店にビラを貼ってもらうお願いをして回った。 一方、里中も千尋には内緒でビラを配るのを手伝っていた。 誰もがヤマトは必ず見つかると信じて疑わなかった。 けれどもヤマトが発見される事は無かった—   
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