2-1 止まった時間が動き出す

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2-1 止まった時間が動き出す

 12月に入り、世間はクリスマス一色に染まっていた。 <フロリナ>でもクリスマス用にアレンジされた植木鉢や小ぶりなもみの木、ゴールドクレスト、リース等が店頭に並び、それらを買い求める客で店内は賑わいを見せ、 千尋をはじめ店員たちは対応に追われていた。  ようやく客足が途絶えたのは午後1時を回っていた。 「青山さん、原君、遅くなったけど昼休憩に入っていいわよ」 「え?俺も青山さんと同じ時間帯に昼休憩入っていいんですか?」 原は意外そうに言った。 「大丈夫よ、気にしないで行ってきて」 「良かった~腹が減ってどうしようもなかったんですよ。助かります!」 言うが早いか、原はエプロンを外すとすぐに外へ食事をしに行ってしまった。 「店長はどうするんですか?」 千尋は尋ねた。 「あ~私は昼休憩はいいわ、でも3時のおやつ休憩は多め長めに取らせてね」 「それじゃお昼行ってきます。休憩室にいるので何かあったら呼んでくださいね」 「あら、いいってば。お昼休みはしっかり休んで。そうじゃないとブラック企業なんて世間で言われちゃうから」 中島は冗談めかして言った。 「はい、では遠慮なくお昼休憩取らせて頂きます」 くすりと笑うと千尋は休憩室へ入っていった。 休憩室は広さ6畳ほどの部屋で、木目調の丸い食卓テーブルセットと食器棚が置いてある。壁際にはソファベッドも置かれて居心地の良い空間になっている。電子レンジやポット、ガス台に流し台もあるのでちょっとした料理も出来るので非常に便利である。 千尋はヤカンでお湯を沸かすと、食器棚からペーパーフィルターとドリッパー、それに昨日コーヒーショップで挽いてもらったコーヒーをセットしてお湯を注いだ。部屋中にコーヒーの良い香りがする。 「そうだ!店長にもコーヒー淹れて持って行ってあげよう」 食器棚に置かれている中島のコーヒーボトルを取り出すと千尋は慎重にコーヒーを注いで蓋を閉めた。店の様子を覗いて見ると中島は丁度接客中だったので千尋は一度顔を引っ込めた。そしてメモを書いた。 <コーヒーを淹れたのでお手すきの時にどうぞ  —青山> メモとコーヒーボトルを店内に置かれているデスクに置くと、休憩室に戻った。今日のランチは手作りのサンドイッチである。バゲットにレタスやハム、キュウリを挟んだもの、もう一つはスクランブルエッグを挟んだバゲットだった。 「いただきます」 千尋は手を合わせると食べ始めた。  ヤマトが失踪して2か月が経過していた。 ビラの効果も空しく、一向にヤマトの情報は入って来ない。千尋は一時は食欲が無くなり急激に痩せてしまったが、周囲の人々に支えられ、時間と共に少しずつ元気を取り戻してきた。ヤマトのいない生活に慣れてはきたものの、時々どうしようもない程、寂しくなってしまう。 「寒くなってきたな…ヤマト、何処かで凍えてたりしてないよね…?」 千尋は窓から見える、すっかり葉が落ちてしまった木々を見ながら溜息をついた。  この2か月の間に様々な事があった。千尋をストーカーしていた長井の元へ両親は事件後、警察に呼ばれて上京してきた。特に母親は変わり果てた息子を見て、その場で泣き崩れてしまったと言うその後、息子の手術に必要な書類の同意書にサインをし、無事に手術が終了すると長井を車椅子に乗せて地元北陸へ戻って行った事を千尋は警察官から聞かされた。結局、長井は重度の精神疾患で責任能力が無い。と言う事で罪に問われることは無かった。警察の話によると、未だに長井は精神状態が回復する事は無いばかりか、ますます意思疎通が出来なくなってきていると言う。しかも白い犬に対して異常なほどの恐怖心を抱いているらしい。 (一体、ヤマトとあのストーカー男性との間でどんな事があったんだろう…。あんな状態で無ければ人づてにヤマトの事を知る事が出来たのに) 時々、千尋は考える。あの時自分にもっと勇気があればヤマトがいなくなってしまう事態にならなかったのでは無いかと。 「ヤマト…」 千尋はポツリと呟いた。 「里中、クリスマスイブの日、何か用事あるか?」 仕事が終わり、ロッカールームで着替えをしていると、後から入ってきた近藤に声をかけられた。 「何すか?先輩。別に用事なんか無いですけど。って言うかそれ分かってて聞いてますよね、絶対!」 里中は仏頂面で言った。 「いやあ~実はこの日、彼女とデートなんだ。悪いけど俺と遅番変わってくれないかと思って。お前、確かこの日は早番だったよな?やっぱりクリスマスイブって特別なものじゃん?昨日奇跡的にお洒落なイタリアンの店の予約を取る事が出来たんだよ!この店、すごく人気あるんだ。彼女に予約取れた事話したら大喜びしてたぜ。男なら彼女と二人でロマンチックなクリスマス祝いたいって誰だって思うだろう?な?頼むよ」 パンッと近藤は手を合わせ、里中を拝むような態度を見せた。 「…じゃ、条件があります」 渋々里中は言った。 「ん?何だ?条件って?」 「明日の夜、俺に酒奢ってくれたら替わってあげますよ!」 「な~んだ、そんな事か。いいって、いいって。俺とお前の仲だ。好きなだけ奢ってやるよ!」 「いいんですか?先輩そんな事言って。俺、浴びるほど飲みますよ?」 「おう!望むところだ!」 有頂天になってる近藤を尻目に里中は深いため息を吐いた。 「あ~俺も彼女欲しい…」  正直な所、里中は千尋に自分の思いを伝えて、願わくば彼氏彼女の関係になれないかと切望している。けれど長井からのストーカー被害のせいで、もしや男性恐怖症になっているのではないかと思うと、以前のように積極的に千尋に声をかける事が出来なくなっていた。友人にその事を話すと、千尋の大切な犬がいなくなってしまったのだから慰めてやればいつか自分に気持ちが向いてくれるのではないかと言われた事もあるが、それは千尋の弱さに付け込んでいるようで嫌だった。 「イブの日に男と居酒屋で飲むのも空しい…。チキンとシャンパンでも買って一人さみしく酒でも買って部屋で飲むか。う~何だか余計空しくなってきた。さっさと帰ろう!」 バタン!着替え終わると、ロッカーを閉め里中はロッカールームを後にした。  通用口を抜けて病院の外へ出た時である。 「あの~ 」 突然里中の目の前に男が現れた。 「うわあッ?!」 突然現れた男に里中は驚きのあまり、締まりのない声をあげてしまった。 「な・な・何だ?いきなり!突然現れて!お前、誰だ?」 まだドキドキする胸を押さえながら里中は男に言った。 「え…と僕はここの病院の守衛をしている者です。あなたに謝りたい事があって。」 「謝りたい事?」 里中は守衛の顔をまじまじと見て、思い出した。そして… 「あ~っ!お前、一度だけ千尋さんの事について俺に聞いてきたことがあった奴じゃないのか?」 「はい、そうです…」 男はうなだれている。 「俺に声をかけて来たって事は何か話があるんだろう?」 「…どうしてもあなたに謝っておきたい話があって」 「謝りたい話?」 「実は、長井さんに脅されて花屋の女性の情報を漏らしていたのは僕なんです」 「何だって?」 里中は守衛の男から突然長井の名前が飛び出してきた事に緊張が走った。 「一体、どういう意味なんだ?」 「実は僕、長井さんとは昔からの知り合いで…色々便宜を図ってくれてたんですよ。僕っていかにも駄目人間に見えるじゃないですか?と言っても中身も本当に駄目人間なんですけどね。この仕事を紹介してくれたのも長井さんのお陰なんです」 里中は一言も聞き漏らすまいと耳を傾けている。 「そんなある日、長井さんに言われたんです。病院に花を持って来てくれる女性は何処の誰なのか教えろと・・・。ほら、業者の人達も守衛室で受付する為に名前を書くじゃないですか?それで僕に聞いてきたんです」 里中は黙って聞いている。 「そこで僕は彼女がいつここに来ているのか、どこから花を届けに来てくれているのか調べて長井さんに報告していたんです」 「…俺の事を長井にしゃべったのもお前の仕業なのか?」 「い・いえ!それは絶対に違います!あなたの事は偶然駐車場にいる花屋の女性と会ってるのを長井さんが見つけて、嫉妬にかられたんだと思います。今まであんな恐ろしい目をした長井さんは見た事がありませんでした」 「そうか、やっぱりあの視線は長井だったのか。でも、どうして今頃になってそんな話を俺にしたんだ?」 「僕。今月いっぱいで仕事を辞める事にしたんです。実は長井さんの件で警察の人が何度もやってきて…職場の人達にも長井さんが犯罪者で、僕は長井さんの紹介で働いている事も知られてしまったんです」 「…自分の意志で仕事やめるのか?」 里中の質問に男はビクリと肩を震わせた。 その様子から、円満退社をするわけでは恐らく無いのだと言う事が分かった。 「ここの仕事辞めたら次はどうするんだ?何か当てはあるのか?」 余計なおせっかいだと自分では思っているが、どうしても聞いておきたいと思った。 「自分の実家に戻ります。僕、長井さんと同じ高校卒業してるんですよ。うちの家、 定食屋をやってるんですよ。そこの手伝いでもしようかと思ってます。最後に迷惑をかけてしまったあなたにどうしても謝っておきたかったんです。本当にすみませんでした。」 男は深々と頭を下げた。 「…そっか。頑張れよ。それと…長井によろしくな」 里中は清々しい笑みを浮かべて言った。 ****  時刻は夜の23時半。 「フワア~ッ」 ベッドに寝そべって先程まで友人の香織と携帯でメッセージのやり取りをしていた千尋は大きな欠伸をした。完全な一人暮らしとなってしまった千尋にとって高校時代からの親友の香織はかけがえのない存在である。彼女のお陰で寂しい夜を迎える事も無くなった。 「明日も早いし、もう寝よっと」 電気を消して千尋は眠りについた。  千尋の家の明かりが全て消えるのを見届けている若い男がいた。長身で細見の体形の男は背中に大きなリュックサックを背負っている。そして優しいまなざしで千尋の部屋を見つめていたが、やがて口を開いた。 「…千尋、やっと君に会える日が来たよ。でもいきなり君を尋ねちゃうと、きっと怖がらせてしまうだろうから明日、会いに行くよ。お休み、千尋。君が素敵な夢を見れますように…」  そして夜の街へと消えて行った。
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