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2-2 戸惑い
朝—
いつものように千尋は台所に立ち、お弁当の準備をしている。時刻は7時、今日は遅番の日なので、普段よりは朝が遅めである。冷凍にしておいた焼きおにぎりをレンジで解凍し、冷ましておく。アスパラと色を添える為に、人参を茹でてる間に卵を手早く溶き、水・めんつゆ・だしを加えてよく混ぜ、フライパンで器用にだし巻き卵を作り、皿に移す。それらを冷ましている間に朝食を食べる事にした。
最近千尋の朝は和食からパンに切り替わっていた。新しく商店街にコーヒーショップがオープンし、そこで挽いてもらったコーヒーを毎朝ドリップして飲むのが習慣となっていた。その為に朝食は自然とパンを食べるようになったのである。千尋が特に好きなコーヒーはコロンビアである。甘い香りとコクが特に気に入っている。トーストにサラダ・コーヒーと簡単な朝食を食べ終わると、お弁当を詰めた。
「さて、そろそろ行こうかな」
千尋は時計を見ると立ち上がった。戸締りを確認し、玄関のカギを閉めると千尋は職場へ向かって行った。
千尋が去った後をじっと見つめている人物がいた。昨夜千尋の家を見つめていた男である。
「…ごめん、千尋」
男は言うと、千尋の家の門を開けて中へと入っていった。
「それじゃ、配達行ってきますねー」
千尋は荷物を抱えると言った。
「はい、気を付けて行ってきてね。」
中島に見送られると千尋は軽トラックに乗り、出発した。今日は千尋の外回りの日である。届け先は全部で10か所。12月にもなると注文が増えて件数が多いので時間が結構かかってしまう。その為、今日はお弁当持参で外回りをする事になった。
「え…と、最初のお客様は…」
千尋はお届け先住所をナビに打ち込んだ。
「よし、それじゃ行こう」
ルートが設定すると千尋はアクセルを踏んで車を走らせた。
千尋が全ての配達を終えて店に戻ってきたのは午後4時を過ぎていた。
「ただいま戻りました。」
「お疲れ様、千尋ちゃん。」
出迎えてくれたのは花の手入れをしていた渡辺だった。
「お店、混みませんでしたか?」
「うん、忙しかったけど大丈夫だったわよ。店長も原君もいたしね。それよりも、千尋ちゃんがいない時に男の人が尋ねて来たわよ」
「男の人?私にですか?」
そこへ接客を終えて中島がやってきた。
「すっごく格好いい若い男性だったわよ~。いつの間に彼氏なんて作ってたの?」
「え?ちょっ、ちょっと待って下さい。私彼氏なんていませんし、大体私を訪ねてくるような男の人の知り合いなんていませんよ」
千尋には全く身に覚えが無い。
「ま…まさか、またストーカー…?」
千尋は2か月前の事件を思い出し自分の両肩を抱きかかえた。
「う~ん…。でもそんな風には見えなかったけどねえ」
渡辺は首を捻った。
「どんな人だったんですか?」
千尋は2人に尋ねた。
「感じのいい青年でしたよ。ニコニコしていて。青山さんが今は外出していると教えたら、すごくがっかりした顔をしていましたよ」
そこへ花の仕分けをしていた原が口を挟んできた。
千尋はますます訳が分からなくなった。特に親しくしている男性など特にいないし、心当たりも全く無い。
「う~ん、青山さんが知らないって言うなら、何だったのかしらね?まあいっか。皆仕事に戻りましょう」
店長の言葉に、皆それぞれ持ち場へと戻って行った。
午後5時半—
里中は近藤と居酒屋に来ていた。
「ほら、お前との約束通り今夜は俺が奢ってやるから好きなだけ飲め!」
近藤は機嫌良さそうに言った。
「それじゃ、俺遠慮なく飲ませてもらいますからね。あ、つまみも勿論先輩が奢ってくれるんですよね?」
「ああ、いいぞ。遠慮するな」
「はい、それじゃ…」
里中はメニューにざっと目を通すと手を挙げて大きな声で店員を呼んだ。
「すみませーん!!注文いいですか?」
「はい、お待たせしました」
学生バイトと思わしき男性がオーダーを取るハンディーを持ってテーブルにやってきた。
「え~と…まずはジョッキで生ビール。あと鶏のから揚げと揚げ出し豆腐に枝豆そして揚げ餃子にジャガバター、フライドポテトお願いします」
オーダーを受けた店員が去った後、近藤は言った。
「おい…お前そんなに頼んで食べきれるのか?」
「食べれなきゃ注文なんてしませんよ」
「いや、それにしても…そんな身体の何処にあれだけの量が食えるんだ?」
「好きなだけ注文していいって言ったのは先輩じゃないですか」
「いや、確かにそうなんだけどさあ…」
「先輩は何も食べないんですか?」
「え?!お前、あれ一人で食う気だったのかよ?てっきり俺とお前の2人分だと思っていたぞ?」
「まあ、俺はそれでも構わないですけど?でも先輩、俺が頼んだメニューでもいいんですか?」
「ああ、俺は好き嫌い無いからな。でも酒は注文するぞ」
そして手を上げると近藤は店員を呼んで言った。
「生ビールグラスで」
「…先輩」
「うん?」
「もしかして、アルコール苦手ですか?」
「ハッハッハッ…何を言い出すんだ?俺はアルコールは得意だ!」
それから約1時間後—
「確かに俺の彼女は可愛くていい子なんだけどさー。ちょっとだけ贅沢な所があるんだよ。デートの時お金出すのはいっつも俺だし…まあ、それはアレだな。男の方が金を出すのは当然かな?とは思ってるよ。でも毎回高級な店で食事したがるのはどうかと思わないか?…あ、彼女のいないお前に聞いても分からないか…」
たった1杯の生ビールで近藤はすっかり酔っぱらってしまい、顔を赤くしてブツブツと愚痴ばかり言っている。
「先輩…からみ酒かよ…。あーもう面倒だなあ。確かに今の俺には彼女はいませんけどね」
何杯目かの酎ハイを飲むと里中はグラスを置いた。時刻を見るとまだ19時を過ぎたあたりだ。里中はハア~とため息をつくと呟いた。
「…千尋さん、まだ仕事中かなあ…」
午後8時になったので千尋は店のシャッターを下ろした。店内に残っているのは同じシフトの原である。
「原さん。戸締り終わりました」
「うん、こっちも全部終わったよ。お疲れ様」
「はい。お疲れさまでした」
「あ、電気は僕が消して帰るから青山さんは先に帰っていいよ」
「お願いしていいんですか?すみません、それではお先に失礼します」
千尋が店の外に出るとリュックサックを背負った若い男が店の前に立ち、看板を見上げている。スラリとした体型はまるでモデルの様なたたずまいを見せていた。
(え…?誰だろう、あの男の人…?うちの店に用があるのかな?あ・原さんの知り合いかも)
千尋は恐る恐る声をかけてみる事にした。
「あの・・・・。」
千尋が近づいて声をかけると男性は弾かれたようにこちらを見た。
男は千尋の顔を見た途端、目を大きく見開いた。
自分を見た時の男の表情の変化に気付きながらも千尋は話しかけた。
「ひょっとしてこのお店で働く原さんのお友達ですか?もうすぐ原さん、出てくると思いますけど、呼んできましょうか?」
男は黙って千尋を見つめていたが、やがて徐々にその顔には笑みが浮かんできた。
「…?あの、どうされましたか?」
「会えた…」
男の口が開いた。
「え?」
「やっと、君に会う事が出来た。…千尋」
まるで子供の笑顔のように、ニッコリ笑った。
「どう…して私の名前を知ってるんですか?」
「僕の名前は渚…間宮渚」
「間宮…渚…?」
千尋は名前を口にして渚の顔を見上げた。
****
「ほら!先輩、しっかり歩いてくださいよ!」
里中はすっかり酔い潰れてしまった近藤に肩を貸して夜の街を歩いていた。
「う~ん‥‥もう飲めない…」
むにゃむにゃと呟き、殆ど眠っている状態の成人男性に肩を貸すのは容易ではない。
「全く!たかだかあの程度の酒で酔うなんて信じられないぜ」
ぶちぶちと文句を言う。
結局あの後ビールで気分が良くなったのか、里中が止めるのも聞かずに近藤は日本酒やらハイボール等を飲んでしまい、完全に潰れてしまったのである。そこで里中は悪いとは思ったが近藤の上着をあさり、財布を見つけると会計をしてしまった。
「勝手に支払いしてすみません」
里中はレシートの裏にメモを書くと近藤の財布に戻し、カウンターで酔いつぶれている近藤の肩を揺さぶった。
「ほら、先輩。帰りますよ」
「んあ?」
近藤は頭を上げた。
「しっかりして下さい、帰りますよ。ほら、立てますか?」
近藤の腕を掴んで立ち上がらせた。
「うん、うん。俺は大丈夫だ。一人でお家に帰れるのだーっ!」
店内に酔っぱらった近藤の声が響き渡る。一緒にいる里中は恥ずかしくてたまったものではない。
「分かりましたから、そんな大声で喚かないで下さい。ちゃんと聞いてますから」
「うん、うん、さすが俺の後輩。聞き訳がよろしくて結構である!」
赤ら顔でうなずく近藤を見て里中はもう二度とこの男とは一緒に酒を飲むのはやめようと心に決めたのであった。
近藤の肩を貸して歩きながら居酒屋での恥ずかしい事の顛末を思い出し、里中は頭を振り、記憶から追い払おうとした。
「俺一人じゃ先輩家まで運べないぞ…。大体先輩が何処に住んでるかも知らないしなあ…」
里中は酔っぱらっている近藤を近くのベンチまで何とか連れて行き、座らせると何か近藤の住所が分かる物が無いか荷物を調べ始めると免許証が出て来た。
「うん、多分住所は免許証に書かれている通りだろうな。」
里中は通りに出てタクシーを探し始めると、運よく一台のタクシーが走ってきた。
「よし、誰も乗っていない。あれに先輩を乗せてしまおう」
パッと右手をタクシーに上げると、幅寄せしてタクシーは里中の目の前で止まった。ドアが開いたので里中は言った。
「すみません。今から乗せる相手を連れてくるので少しだけ待ってもらえますか?」
「いいですよ」
運転手は快く返事をしてくれた。
里中は急いで近藤の元へ戻ると気持ちよさそうにウトウトしている。
「ほら、先輩!立って下さいよ!」
必死で両手を掴んで立ち上がらせると、半ば近藤を背負うような形で里中はタクシーまで連れて行った。何とか近藤を乗せると彼の免許証をタクシー運転手に見せた。
「すみません、この男性をここの住所まで送ってもらえますか?」
「はあ…分かりました」
明らかに気乗りしない感じで運転手は答えた。
確かにタクシー運転手にとっては酔っ払い相手は厄介だろう。
「すみませんが、よろしくお願いします。財布、握らせておくんで」
「先輩、財布持っていて下さいよ、降りる時ちゃんと支払いして下さいね!」
「ん…お、おう。大丈夫大丈夫…」
近藤は目を閉じたまま頷いている。
「それじゃお願いします。」
里中は頭を下げると、タクシーのドアが閉まり、走り去っていった。
「ふう…やっと終わった。」
厄介な近藤をタクシーに乗せると安堵のため息をついた。そこでふと気が付いた。
「あれ?ここって千尋さんが働いている店の側じゃないか?え‥と、確か店の場所は…!」
里中は目を見張った。
そこには千尋が見知らぬ若い男性と見つめあっている姿があった。
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