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2-5 コーヒーの味と花の香り
渚と同居し始めてから数日が経過していた。買い物や料理、部屋の掃除等は渚が全てやってくれるので、思っていた以上に渚との生活は快適な暮らしであった。
最も、洗濯だけは千尋が担当している。家の事は全てやると渚は言ってきかなかったが、若い男性に自分の下着まで洗濯をしてもらう訳にはどうしてもいかない。必死で言い聞かせて洗濯当番だけは死守したのであった。
「おはよう!千尋。今朝のメニューは千尋のお気に入りのコーヒーに野菜スープ、そしてフレンチトーストだよ」
朝、開口一番渚が起きて来た千尋に笑顔でかけた言葉である。
「おはよ…。え?渚君、今朝本当にパンにしたの?」
千尋は渚が用意した朝食を見て言った。
「うん、だって千尋が今迄食べていた朝ご飯ってコーヒーとトーストだったんでしょう?昨日商店街のコーヒーショップで買って来たんだよ。このコーヒーは女性に人気があってね、甘みのあるブレンドミックスで飲んでみるとビターチョコの風味を感じられるんだ。ほら、飲んでみて」
コーヒーカップに注がれたコーヒーを一口飲んでみる。
「ん、美味しい!お砂糖もミルクも入っていないのに少し甘く感じる
」
千尋は驚いた。
「でしょう?良かった、喜んでもらえて」
そして渚もコーヒーを飲んだ。
「やっぱり、カフェで働いてただけの事あるね。私が淹れたコーヒーより全然美味しい。凄いね渚君は」
「そんな事無いよ。千尋だって凄いよ。僕は花の事はちっとも知らないけど、花に関する知識は僕なんか足元にも及ばないもの。ねえ、気づいてた?いつも花に囲まれてるからかな?千尋からは花のように良い香りがするって事」
渚は千尋のすぐ側まで顔を寄せると目を閉じてス~ッと匂いを嗅いだ。
あまりにも距離感が近かったので千尋は焦った。
「ちょ、ちょっと渚君…!」
「アハハッ!やっぱり千尋からは花の香りがするよ」
渚は笑いながら言った。
「そ、そんな事無いから。シャンプーの匂いじゃないの?って言うか渚君てすごく鼻が利く人なんじゃない?」
千尋は両手で頭を押さえると言った。
「うん?確かに僕は普通の人よりも鼻が利くかもね。あれ?もしかして千尋、照れてる?顔が赤いよ?」
「だ、だって急にあんな事するから…」
そんな様子の千尋を渚は愛おしそうにじっと見つめている。
「な・何?」
急に真剣な顔つきになった渚の様子に千尋は戸惑った。
「何でもないよ。冷めないうちに食べよう?」
次の瞬間にはその表情は消え、いつもの渚に戻っていた。
「う、うん・・・・」
二人で向かい合って食事をしながら千尋は言った。
「渚君、今日も<フロリナ>に一緒に行くの?」
「うん。いつも通り送っていくよ。ついでに1時間程千尋の手伝いもするし」
同居し始めてから毎日、渚は千尋と一緒に<フロリナ>で1時間程ボランティアで働いていた。
「あのね、今日は山手総合病院にお花の仕事で出かける事になっているから午前中はお店で仕事はしないのだけど‥‥」
「もしかして車で出かける?」
渚は口にしていたフレンチトーストを飲み込むと尋ねた。
「うん、軽トラに荷物載せて運転していくけど?」
「じゃあ僕が運転するよ。力仕事もするし」
「え?渚君。病院にも付いて来るの?」
「迷惑…かな?」
「そんな事無いけど…。でもいいの?そこまでしてもらっても」
「嫌だなあ、僕がそうしたいだけなんだから。千尋は全く気にすることは無いよ」
リハビリステーションで里中は患者のデータをPCに打ち込んでいた。そこへ、丁度マッサージを終えて手の空いた近藤がやってきた。
「里中、今日は水曜日だから千尋ちゃんがここに来る日だな」
近藤がニヤニヤしながら里中に話しかけて来た。
「…そうですね」
里中は上の空で返事をする。
「何だよ、その気のないセリフは。って言うかここ最近、お前様子が変だぞ?心ここにあらずって感じで。何かあったのか?俺で良かったら相談に乗るぞ?」
「先輩、実は…」
里中が口を開きかけた時である。
「おはようございまーす」
千尋が元気よく挨拶をしてリハビリステーションにやってきた。その隣にはカートを押した長身の男がいる。
「あの男は…!」
その顔に里中は見覚えがあった。
(
数日前に千尋さんと花屋の前で見つめあっていた男だ!)
「あれ~誰だ?あの男。新しい花屋の店員かな?それにしても高身長だし、ルックスもいい男だな。まるで芸能人みたいだ。な、お前もそう思わないか?」
お気楽そうな近藤の物言いが何故か癪に障る。現に近藤の言う通り、周囲にいる女性陣から注目を浴びていた。
「俺、ちょっと行ってきます!」
「え?お・おい。どうしたんだよ里中」
近藤が止めるのも聞かず里中は二人に近づくと声をかけた。
「こんにちは、千尋さん」
「あ、こんにちは」
千尋はペコリと頭を下げた。
「こんにちは」
渚も千尋にならって里中に挨拶をしたので、近藤は渚の方を見て言った。
「初めまして、俺はここのスタッフの里中と言います。いつも千尋さんにはお世話になっています」
「里中さんて言うんですね。僕は間宮渚です。よろしくお願いします」
渚はいつものように人懐こい笑顔を浮かべた。
(ちっくしょ…。確かに負ける…)
渚の身長は里中よりも10㎝は高いだろうか。当然見上げる形になってしまう。しかも外見も申し分ないときているので嫌でも劣等感を感じてしまう。
そこへ主任がやってきた。
「ああ、青山さん。本日もよろしくお願いします」
「こんにちは、野口さん。12月になったので今日からクリスマスをイメージした飾りつけにしていこうと思ってるんです」
「それは素敵ですね。患者さんやスタッフ皆楽しみにしてますよ。ところで…こちらの方は?新しい店員さんですか?」
「僕は…」
渚が言いかけると、それを制するように千尋が代わりに答えた。
「え・ええ。そんな所です。運搬作業を手伝ってくれたんです。渚君、この方はここリハビリステーションの主任で野口さん」
「初めまして」
渚が頭を下げた。
「ああ、こちらこそよろしく。…おい、里中。お前いつまでそうしているんだ?早く仕事に戻れ」
主任はいつまでもその場を動こうとしない里中をじろりと見た。
「あ、す・すみません!すぐ戻りますんでっ!」
里中は慌てて持ち場へと戻って行った。
患者のリハビリ器具を取り付けながら里中はフロア内で花の飾りつけをしている二人をチラチラ見ている。よく観察してみると飾りつけをしているのは千尋のみで渚は千尋に花やリボンを手渡しているだけである。
(あの渚って男…役にたってるのか?)
「…君。ねえ、里中君っ!」
突然里中は患者の中年女性に声をかけられた。
「は、はいっ!何でしょう?」
里中は慌てて女性に返事をした。
「ねえ~どっちの腕に器具巻いてるの?取り付けてもらう腕は右側なんだけど?」
見ると、本来右腕に装着しなければならないリハビリ器具が左腕に付けられていた。
「うわあっ、す・すみません!すぐにやり直します」
焦る里中に女性は言った。
「ふふふ…そんなにあの二人が気になるの?」
「え?な・何言ってるんですか?」
里中に顔に冷汗が流れる。
「隠さなくてもいいわよ~。里中君があのお花屋さんの女性に気があるのは皆知ってるんだから」
「う…バレてましたか」
「まあね~あなたの態度あからさまだもの。それにしても一緒に来ている若い男の人一体誰かしらね。私が後20年若かったら口説けたのに…。あ、勿論里中君も捨てたもんじゃないから、何せ一部のお祖母ちゃん達から可愛がられてるじゃないの」
何が楽しいのか女性はニコニコしながら饒舌にしゃべっている。
「はあ~っ。」
里中はため息をつくのだった…。
遠目から里中や千尋達の様子を患者のマッサージを終えた近藤が見ていた。
「ふっ、後輩思いの俺が何とかしてやろうじゃないか」
患者を見送ると近藤は千尋達の方へ行き、声をかけた。
「お疲れ様、千尋ちゃん」
「あ、こんにちは。近藤さん」
丁度千尋が生け込みの仕事を終了したところであった。
「うん、いいねえ~。このお花の飾りつけ。まさにクリスマスって感じがする」
赤い薔薇やゴールドに染められたマツカサを取り入れた生け込みはとても美しかった。
「ところで、君は誰なんだい?」
渚の方を向くと尋ねた。
「僕は間宮渚。今千尋の家で一緒に暮らしてます」
千尋が止める隙は無かった。
それを聞いて流石の近藤も驚いた。
「え?えええっ?!一緒に暮らしてる?千尋ちゃん、確か一人暮らししてたよね?」
「は・はい…。そうでした。以前は」
「何?それじゃ本当に一緒に暮らしてるわけ?この男と?」
近藤は千尋と渚の顔を交互に観ながら尋ねた。
「はい、そうです。今は僕が千尋の代わりに家事をやってますよ」
すると渚が答えた。
「あ、もしかして親せきかな~なんて」
「違います、親戚じゃないです」
「じゃあ、全く赤の他人…?」
「は・はい、そうなんです…」
千尋は困ったように返答した。
「え~と、渚君だっけ?どうして千尋ちゃんと一緒に暮らしてるんだ?」
近藤はじろりと渚を見た。
「おい、近藤。お前首を突っ込すぎだろ?」
そこへ主任が現れた。
「あ・主任・・・・」
「青山さんと彼の事にお前は関係ないんだから詮索するのはやめるんだ。それより、もうすぐ次の患者さんが来るんだから準備してこい」
「は・はい!」
近藤は慌てて持ち場へと戻って行った。
「すみませんね。里中も近藤も悪い奴らじゃないんですが」
「いいえ、いいんです。全然気にしてませんから」
千尋は荷物を手に取った。
「行くの?千尋」
「うん、終わったから戻ろうか?」
「それじゃ、失礼します」
千尋が主任に挨拶すると引き留められた。
「ちょっと待って下さい。はい、これどうぞ」
千尋に2枚の券を渡してきた。
「これは?」
「実はこの病院のレストランが新しく改装されたんですよ。そのオープン記念として病院スタッフには無料のコーヒー券が配られたんです。良かったら二人で帰りに寄ってみたらどうですか?」
「でも、貰う訳には…」
「大丈夫、実は役付きのスタッフは無料券が冊子で配られてるんですよ。まだ沢山あるので遠慮しないで」
「千尋、貰っておこうよ。二人でコーヒー飲んで帰ろ?」
渚は笑顔で千尋に言った。
「うん…。そうだね」
千尋も見つめ返し、主任にお礼を言うと二人並んでリハビリステーションを後にした。
それを遠くで眺めていた里中と近藤。
「…おい、里中。あの二人中良さそうだな」
「そんな事無いと思いますよ。別に普通じゃないですか?」
ムスッとした顔で里中は答える。
「だけど、あんな至近距離で見つめあったりするか?あれはどう見ても怪しいぞ?う~ん、俺はお前と千尋ちゃんの仲が進展するのを応援してたんだけど、あの男、ちょっと話してみたら悪そうな奴には見えなかったなあ。しかも愛嬌もあったし。あの二人意外とお似合いかも…っ!」
近藤は里中が物凄い目で睨んでいるのに気が付いて、口を閉じた。
「先輩・・・・一体どっちの味方なんですか?!」
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