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2-8 月明かり、濡れた瞳
「おはよう、青山さん」
11時、遅番の中島が出勤してきた。
「おはようございます。店長」
千尋は花の世話をしながら挨拶をした。
「あら?今朝は渚君の姿が見えないわね?いつも遅番の誰かが出勤してくるまでにはお店にいるのに」
「実は渚君、新しい仕事が見つかって本日から仕事始まったんです」
「え~そうなの?仕事何処に決まったの?」
「それが、何と山手総合病院にあるレストランで働くんですよ」
「え?まさかあの病院のレストランで?一体どういう経緯でそうなったの?」
「この間、病院に生け込みの仕事に行ったときにリハビリステーションの野口さんからコーヒー券頂いて二人でレストランに行ったんです。その時に人手不足で困っている話を聞いて、その場で面接して採用されたそうですよ」
「ふ~ん、それじゃ今日は初日ってわけね?」
「はい。…上手く行ってるといいんですけど」
千尋は新しい職場で働いている渚に思いをはせた。
****
「おい、里中。今日の昼飯どうする?」
昼休憩に入ろうとする里中に近藤が声をかけた。二人でお酒を飲みに行って以来、何かとつるむ中になっていた。
「う~んと…特に考えてないすけどね」
「それじゃ、新しく院内に出来たレストランに行ってみないか?ほら、職員割引がきくし」
そこへ同じリハビリスタッフの30代の女性職員が声をかけて来た。
「あ、お二人ともレストランに行くんですか?私もさっき行って来たんですよ。何でも今日から若い男性が働いているらしくて、ものすごーくイケメンなんですって。院内の女性職員達が騒いでました。私はあいにくその男性に会う事が出来なくて残念だでしたよ」
「へえーっ。そうなんだ。でもヤローには興味ないなあ。どうせなら若くて可愛い女の子が良かったのにな」
女性職員が去った後、近藤は言った。
「何言ってるんすか。先輩、彼女いるじゃないですか。いいんですか、そんな事言って」
「バッカだなー。勿論俺は彼女一筋だよ、でも目の保養とする分にはいいんだよ」
「まあ、イケメンはどうでもいいですけど新メニューは気になりますよね。行きますか?先輩」
「おう!行ってみるか」
「うっわ!なんじゃこりゃ。すげー混んでるな」
レストランのテーブル席は満席だった。しかも良く見ると女性客が多い気がする。
「ふーん、皆そのイケメンとやらに興味があって来てるのかな?うちのスタッフが多いじゃないか。女ってすげーな」
「そうですね。あ、先輩。あそこのテーブル空いてますよ」
何とか席を確保すると二人はメニューを見た。
「お、本日のAランチって中々いいんじゃないか?ほら、ハンバーグセットで700円だってよ」
「あ、それいいっすね。じゃ俺もそれにします」
里中は店内を見渡して、一人の男の店員を見つけたので声をかけた。
「すみませーん!」
呼ばれた店員はすぐに二人のテーブルへやってきて言った。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?」
「あ、お前は…!」
里中は店員の顔を見て思わず指さしてしまった。
「君は…千尋ちゃんと一緒にいた間宮君…?」
****
「千尋ちゃん、今日も渚君の手作り弁当なの?」
千尋と一緒にお昼休憩を取っている渡辺が声をかけた。
「はい、渚君自分の分はいらないのに、わざわざ私の分だけ作ってくれたんです」
「あらま、自分の分はいらないってどういう事?」
「レストランで働いている人たちには、まかないがあるそうなんですよ」
「へえ~羨ましいわね。ところで、今日は渚君迎えに来てくれるの?」
「今日は私の方が帰りが早いので買い物して先に家に帰るつもりです」
「それじゃ、今夜の夕食当番は千尋ちゃんなの?」
「はい、最初は渚君食事は全部自分で作るって言ってたんですけど、どちらか早く家に帰れた方が食事を作るって事に決めたんです」
「ふふふふ…」
渡辺が意味深に笑う。
「な、何ですか?」
「もう、完全にのろけね。それは。いや~千尋ちゃん、愛されてるわ~」
「そんなんじゃ、無いですよ!私と渚君の間には何もありませんってば」
千尋は顔を赤らめて抗議した。
「そうかなあ~。誰の目から見ても、少なくとも渚君は千尋ちゃんに好意を抱いてるわよ?それとも千尋ちゃんは渚君に好かれると迷惑なの?」
「そんな、迷惑だなんて思った事無いです」
「嫌いじゃないんでしょ?渚君の事」
「はい…」
「だったら何も問題無いじゃない?渚君に思われて悪い気はしないんでしょ?」
千尋は頷いた。むしろ渚に好意を寄せられるのは嬉しい。けれど…渚は時々どこか遠い目をする時がある。近くにいるのに二人の距離は離れているように感じる時もある。
千尋は思った。多分、渚には深入りしない方がよいのだと心の中で警告している。後で自分が傷つくのでは無いかと…。
****
食事を終えて里中と近藤は職場に戻りながら話をしている。
「それにしても驚いたな。まさかこんな場所で偶然会うなんて」
「…はい」
里中は神妙な顔で頷いた。
「まあ、ライバルが同じ病院内で働いているのはお前にとってはあまり穏やかな気持ちには慣れないかもなあ?」
近藤はニヤニヤしながら言った。
「先輩、面白がってませんか?」
「そもそも、お前がもっと早く千尋ちゃんに告っていれば、間宮君と一緒に暮らす事にはならなかったんじゃないかな…っとやべっ!」
近藤は慌てて口を押えたが手遅れだった。
「先輩…
」
里中の瞳が鋭さを帯びた。
「ヒッ!」
近藤は小さく悲鳴を上げる。
「一緒に暮らしてる…?一体どういう事なんですか?な・ん・で、先輩がそんな事知ってるんですか?!」
近藤は里中の気迫に押されながら焦っている。
「お、お、落ちつけ?別にあの二人が一緒に暮らしてるって事隠してたわけじゃないぞ?ただ…」
「ただ?俺に言わなかったってだけですよねえ?」
里中は近藤を壁際まで追い詰めると言った。
「知ってる事、全部教えて貰いますよ?」
「わ、分かったって…」
(うう~この俺が男から壁ドンされるなんて…)
「はあ~ッ」
里中はもう12回目の大きなため息をついている。
(まさかあの二人が同棲していたなんて…。もう俺、告白する前から完全に失恋しちゃったわけか?こんな事なら今の関係が壊れたって千尋さんに告白しておけば良かった…)
そんな里中を見た主任は近藤に尋ねた。
「里中の奴、一体どうしたんだ?近藤、何か知らないか?」
「主任、男には誰にも言えない心の悩みってものがあるんですよ。…どうか今日1日里中の事、そっとしておいて下さい」
「そ、そうか…?」
「・・・・」
退勤後、里中は寒空の下、職員通用出口で渚が出てくるのを待ち伏せしていた。こんな事をしていても無意味な事は分かっていたが、どうしても確認しておきたい事があったのだ。暫く待っていると渚が出て来た。
「おい、お前!」
里中は渚の前に立ちふさがると言った。
「…少し、時間くれるか?」
「あれ?えっと、君はさっきの…?」
渚は首を傾げた―。
二人は人気の無い公園に来ていた。里中は口火を切った。
「俺はリハビリステーションスタッフの里中だ」
「うん、そうだったね。ところで僕に何か用なのかな?悪いけど、千尋が家で待ってるからあまり時間はとれないんだ」
何気なく言った渚の言葉は里中の神経を逆なでした。里中はグッと両手を握りしめると言った。
「やっぱり、二人は一緒に暮らしてるのか?」
「そうだよ。今は一緒に暮らしてる。僕が料理担当で千尋は掃除と洗濯担当だよ?千尋はね、すごく僕の料理を褒めてくれるんだ。だからもっともっと美味し料理を作って千尋を喜ばせたいと思ってるよ」
「俺は…お前よりもずっと前から千尋さんの事が好きだった。俺だって、彼女の事喜ばせたいよ。くっそ、俺の方が早く出会っていたのに」
「君も千尋の事好きだったんだ。僕も千尋の事が大好きだよ。一緒だね?」
渚はさらりと笑顔で言った。
「お前なあ、自分で何言ってるか分かっているのか?」
「うん、良く分かっているつもりだけど?」
「く…」
(何だ?こいつの思考回路は少しおかしくないか?)
里中は唇を噛んだ。
「もう、帰っていいかな?千尋が家で待ってるから」
渚は踵を返した。
「お、おい!待てよ!まだ話は終わってないぞ!」
里中が渚を引き留めようとすると、渚の足がピタリと止まった。
「…悪いけど、あまり待てないんだ」
渚の口調が突然変わった。
「え?」
振り向いた渚の顔からは表情が消えていた。
「僕には、君と違って時間が無いんだ。だから、少しでも長く千尋の側にいたい」
「え?お前一体何を言ってるんだ?」
「僕にとっては君の方が羨ましいよ。だって…僕にはあまり彼女と一緒にいられる時間が残されていなんだから…」
月明かりを背に、渚の瞳は涙で濡れているように見えた。
「!お前、何言って…」
里中は突然の渚の話に驚いた。
「それじゃ、里中君。また明日ね」
次の瞬間渚の顔からは悲しみの表情が消え失せ、いつもの笑顔に戻っていた。
今度は渚が帰るのを里中は引き留める事が出来なかった—。
「あいつ、一体何言ってるんだ?」
渚の去って行く後ろ姿を見ながら渚は呟いた。その物言いはまるでもうすぐ自分はこの世界から居なくなってしまうような言い方に思える。
(何処か身体の具合でも悪いのか?そんな風には見えなかったし…それともあれか?千尋さんの事が好きなのに、もうすぐ結婚しなければならない相手がいるとか?
だとしたら、不誠実な奴じゃないか)
里中は勝手に自分の中で妄想を繰り広げていた。
「…どうせ同じ職場で働いているんだし、暫くあの男の様子を伺ってみるか。どうしてあんな言い方をしていたのかも気になるし。いっその事、今日の会話の内容千尋さんに話してみるか…」
でも、もし千尋が間宮の事を好きだったとしたら?もうすぐ間宮が自分の前からいなくなってしまうと言う話を聞かされたら千尋に悲しい思いをさせてしまう。
「どうすりゃいいんだよ…」
里中は月を見上げて呟いた―。
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