1-3 ドッグセラピー

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1-3 ドッグセラピー

 それは今から約2月前の事。 初めて千尋が生け込みの仕事で病院に出掛ける時に、ヤマトは荷台にあっと言う間に飛び移ってしまったのである。いくら荷台から降ろそうとしても、ちっともヤマトは言う事を聞かない。そこで千尋は仕方無く、病院まで連れていく事にしたのである。 (病院に着いても荷台の上に乗せとけばいいよね) けれどそれは甘い考えであった。  山手総合病院に到着し、千尋が軽トラックから降りた途端にヤマトも荷台から飛び降りてしまったのである。しかも、リードを口に咥えて『早く自分を連れていけ』と言わんばかりの勢いで嬉しそうに尻尾を振っている。 「う~ん…病院の敷地内にヤマトを繋いでおいても大丈夫かな・・?」 リードを装着し、キョロキョロ見回していると駐車場の左隅の方に木々が生えている。 (あそこに繋いでおけばいいかな?) ヤマトを連れてその場所へ行き、リードを手ごろな枝に括り付けた。 「それじゃ、いい子にしててね」 ヤマトに言い聞かせ、病院へ歩いて行こうとするとキャンキャンと大きな声で鳴き始めた。 「ちょっと、ヤマト!お願いだから吠えないでよ!」 慌ててヤマトの側に駆け寄ると千尋は言った。ヤマトはリードが付いているにも関わらず、必死に前に歩き出そうとする。 「だ・駄目だってば!ヤマト!病院に連れていける訳無いでしょ?お願いだから大人しく待っていてよ」 必死でヤマトの体を押し戻そうとしても、体の大きいヤマトを千尋の細腕で動かす事は不可能である。 「はあ~。記念すべき初めての日だって言うのに・・・。このままじゃ約束の時間過ぎちゃうよ」 額を押さえながら溜息をついた。 「もう・・・仕方ない。電話で連絡してみよう」 スマホを取り出すと千尋は仕事を受ける前に聞いていたリハビリステーションの受付に電話をかけた。 数回の呼び出し音の後 『はい、リハビリステーション受付です』 男性の声が電話口から聞こえてきた。 「あの、すみません。私本日そちらに花の生け込みをさせて頂くことになっている<フロリナ>の青山と申します」 『ああ・・確か今日からお花を飾って下さる方ですね』 「はい、実は困った事がありまして…」 千尋は言いにくそうに言葉を濁した。 『どうされたんですか?』 「犬が…私が飼っている犬が病院までついてきてしまってるんです」 『はあ?犬ですか』 「どうしても私から離れないので、病院の中に入れなくて困っているんです。一度犬を連れてお店に戻ってもよろしいですか?犬を置いて改めて伺いますので」 『え・・と、少々お待ちください。確認を取りますので』 すぐに電話の保留音が流れ始め、数分後また受話器から男性の声が聞こえて来た。 『今、そちらに行きますので待っていて貰えますか?』 「はい、では私は駐車場の右手木の下にいます。大きな白い犬を連れていますので。よろしくお願い致します。」 そして電話を切った。 数分後、名札を下げたポロシャツスタイルの若い男が小走りでこちらにやってくるのが見えた。ハアハア息をつぎながら千尋の前に来ると声を掛けてきた。 「あの、青山さんでしょうか?<フロリナ>のお店からいらっしゃった?」 「はい、そうです。お忙しい所申し訳ございませんでした」 「とんでもないです!でもこんなに若い女性だったとは思いませんでした。あ、自己紹介がまだでしたね。俺は里中裕也といいます!ここの病院の理学療法士をしています!23歳、若さと元気だけが取り柄です!よろしくお願いします!」 里中は大きな声で、大げさな動作で頭を下げた。 「青山千尋です、こちらこそどうぞよろしくお願い致します。まだまだ経験不足ですが、一生懸命頑張ります」 笑顔で挨拶した。 「あ・・・え、と・・。それでこの犬ですか?青山さんについて来たのは」 里中は千尋の足元に座っているヤマトを見た。 「はい、そうなんです。普段は聞き訳がいいんですけど、どうしても言う事を聞いてくれなくて」 「大丈夫!俺に任せて下さい!」 里中は胸を張るように言った。 「青山さん、実はこの病院のリハビリステーションは中庭に面しているんですよ。リハビリに来られている方々に中庭を楽しんでもらおうと言う事で、中庭に出入り口があるんですよ。そこから入れば病院の中を通らずに行けます。それに青山さんの側を離れないなら、中庭にリードで繋いでおけばいいんじゃないですか?…と、俺の上司が言ってました。」 「いいんですか?本当に?」 「はい、大丈夫ですよ!」 ニカッと里中は笑った。 「あ・・・それじゃ私荷物を取りに行かないと」 「俺、荷物持ちますよ。青山さんは犬をお願いします。ところで犬の名前は何て言うんですか?」 「ヤマトです」 「へえ~ヤマトかあ。何か戦艦ヤマトみたいでカッコいいですね。ちなみにオスですか?」 「はい、亡くなった祖父が付けてくれました」 千尋はヤマトを連れて里中を自分が運転してきた軽トラックに案内した。 「すみません、こちらの荷物になるのですが…。今台車を出しますね」 千尋が選んだ大輪の花や飾り、活性剤等が詰まれている。 「あ、俺がやりますよ」 里中は注意深く荷物を台車に積み、 「それじゃ、案内しますね」 「お願いします」 ヤマトを連れて千尋は後に続いた。  山手総合病院は市内一を誇る大病院で救急指定病院にもなっている。実は千尋の祖父もこの病院に通院しており、搬送されたときもこの病院であった。 最初、この病院の生け込みの仕事の話を中島に持ちかけられた時には躊躇したが、いつまでも祖父の死を引きずっていては前に進めないと思い、気持ちを切り替えて引き受ける事にしたのである。それに、ある意味この仕事は千尋にとってチャンスでもあった。いずれは独立を考えており、どうせなら生け込みの出張サービスの仕事をやりたいと考えていたのだ。 病院の裏手に周り、歩く事数分。裏手に広い中庭が現れた。木々が生え、芝生が敷き詰められている。更には花壇まであり、ヒマワリやペチュニア等夏の花々が咲いていた。 「すごい・・・。この花壇の世話は誰が?」 千尋は感嘆の声を挙げた。 「う~ん。多分ここの病院には色々な業者が出入りしてるからなあ…。誰がやってるんだろ?」 里中は頭を捻った。 「すごく、丁寧に植えている。きっとプロのお仕事の人か、ガーデニングが得意な人が育てているのかもしれませんね」 「そうなんですか?俺、植物の事全く知らなくて。あ、ここが入り口ですよ。青山さん、犬はここの庭の木の下に繋いでおいたらどうですか?ここからなら外の様子が良く見えるので安心ですよ」 里中は手頃な木を見つけて指さした。 「ありがとうございます」 千尋は礼を言い、ヤマトのリードを木の下に括り付けた。 「いい子で待っててね」 今回はヤマトは聞き分け良く、木の下に寝そべった。 「大丈夫そうじゃないですか?」 ヤマトの様子を見て里中が言った。 「はい、ありがとうございます」 そして里中は目の前のガラス張りのドアを開けると荷台を部屋に入れて 「さ、どうぞ」 千尋を招いた。  リハビリステーションは大きな掃き出し窓があり、とても広い部屋であった。スタッフは殆どが男性で、女性の姿は数名だったが全員里中より年上に見えた。 ここにいる患者の殆どは老人ばかりで、マッサージや歩行訓練を受けている。 「実は俺が一番下っ端なんですよね。毎日先輩たちに駄目だし食らってますよ。でも、お年寄りの人達にマッサージをしてお礼を言って貰えると、ああこの仕事をして良かったなって思うんですよ」  その時、年老いた女性が声をかけてきた。 「まあ、随分可愛らしい女の子ねえ。裕ちゃんの彼女かい?」 「え?あの、私は…」 「うわっ!山本さん、何て事言うんですか!この人はお花屋さんですよ!」 里中は手を振りながら慌てて言った。 「あら、そうなの?ごめんなさいねえ。勘違いしちゃって」 山本と呼ばれた女性はすまなそうに千尋に言った。 「初めまして、青山千尋です。今日からここのお花を生けに来ました」 千尋は女性に挨拶をした。 「よろしくね。綺麗なお花楽しみにしてるわ」 言うと女性は去って行った。 「貴女が青山さんですか?」 不意に背後から声をかけられた。振り向くと、そこに30代後半と思える男性が立っていた。 「あ、主任。そうです。この人が『フロリナ』のお店から来た青山さんです」 「初めまして、青山千尋と申します。これからどうぞよろしくお願い致します」 里中に紹介されて、慌て自己紹介して頭を下げた。 「よろしく、私がここの主任をしている野口です。貴女にお願いしたいのはメールでもお伝えしていましたが受付のカウンターに花の飾りつけをして頂きたいのです。花瓶はこちらで用意してありますので、後はお任せします」 「はい、大丈夫です」 ここの仕事が舞い込んできて直ぐに千尋はメールで説明を受けていたので、するべき事は頭に入っている。 「ほら、里中。いつまで突っ立ってるんだ?早く仕事に戻れ」 野口は未だに側にいる里中に言った。 「患者が待ってるだろう?」 「す・すみません!それじゃ青山さん、失礼します!」 「いえ、ありがとうございました。里中さんのお陰で助かりました」 「それじゃ、また!」 里中は踵を返すと仕事へ戻って行った。 (そうだ、ヤマトを連れてきている事を改めて言わなくちゃ) 千尋は野口に向き合うと言った。 「すみません、ご連絡行ってると思うのですが…実は今こちらの中庭に犬を連れてきておりまして。ご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ございません」 すると野口は意外な言葉を口にした。 「いやあ…そんな事ありませんよ。実はリハビリの一つとして、ある計画を立てていた所なんですよ」 「計画?」 千尋が首を傾げると 「ドッグセラピーってご存知ですか?」 「はい、確かお年寄りや障がいのある方々に寄り添ってあげる犬の事ですよね?最近介護施設等で取り上げられているのをニュースで見ました」 「そうなんです。当院でもドッグセラピーを検討している最中でドッグセラピーを探していた所なんです。ほら、あの人たちの様子を見て下さい」 野口は中庭の方を見た。千尋も中庭を見ると、お年寄りたちが窓辺の側で、何やら笑顔で見ている。視線の先にはヤマトがいた。 「あ…」 「ほら、皆楽しそうでしょう?ここには身体が不自由なお年寄りだけではありません。認知症を患っているお年寄りも多くいます。あそこにいる人たちは殆どが認知症の方々ばかりで、表情も乏しかったのですが、あんなに楽しそうな笑顔をしています。あの人たちの笑顔を見るのは初めてですよ」 「そうだったんですか」 「どうでしょう?これからも青山さんが花の飾りつけをする日には犬を連れて来てくれませんか?セラピードッグとして。お願いします」 野口は頭を下げた。 「あの、私の犬は特に何の訓練も受けていないのですが大丈夫ですか?」 「ええ、上には私がかけあいますので…という事は引き受けて下さるんですか?」 「どのみち、多分ヤマトは私がここの病院に来る時についてきてしまうと思うので、病院側から受け入れてもらえるのはありがたいです」 野口の提案を断る理由は無い。むしろ千尋にとっても好都合な話しである。    その日のうちに話はとんとん拍子に進み、後日ヤマトは改めて病院側からの依頼でセラピードッグとなった。  これが2か月前、ヤマトがセラピードッグとなった経緯であった。
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