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3-7 月に願う
真夜中―
千尋は自分の部屋で小さな寝息をたてて眠っている。
一方の渚は千尋から借りた部屋のベッドの上で起き上がり、窓から見える月に右手をかざし、呟いた。
「千尋…もしも君を好きだと言ったら、君は僕を受け入れてくれるのかな…?」
勿論その問いに答える者は誰も無く、渚はいつまでも月を眺めていた—。
千尋がいつものように朝の6時に起きてみると、珍しく渚が台所にいない。
「あれ?珍しいな…。いつもならとっくに起きてるはずなのに。様子を見にいこうかな」
千尋は渚の部屋の前に来ると、遠慮がちに声をかけた。
「おはよう、渚君。起きてる?」
けれども返事が無い。一瞬ためらったものの、千尋はそっと部屋の戸を開けた。
「入るね…?」
部屋に入ると渚はまだ布団の中で眠っていた。が、どこか様子がおかしい。近寄ってみると真っ赤な顔をし、呼吸も荒かった。
「渚君…?ひょっとして熱でもあるの?」
そっと額に手を当てると、燃えるように熱い。
「!酷い熱…!」
千尋は慌てた。
(どうしよう…。とにかく頭を冷やしてあげないと)
祖父は冷凍庫に常に氷枕を用意しておく人物だった。千尋もそれに習い、常に氷枕を冷やしておいたので、すぐに台所に取りに行き、タオルでくるむと渚の所へ急いで戻った。熱でうなされている渚の頭を持ち上げ、枕を入れ替える。そして顔の汗を濡らしたタオルでよく拭いた。身体中も酷い汗をかいている。
千尋は一瞬躊躇したが、決心すると渚のパジャマのボタンを外していく。
前をはだけると、上半身酷い寝汗をかいている。まずは胸から腹にかけて清潔なタオルで汗を丁寧に拭きとった。
「背中も拭かなくちゃ。ごめんね、渚君。横向きになってもらうね」
千尋は何とか渚の肩を持ち上げて横向きにさせ、背中の汗も拭き取っていると、渚がぼんやり目を覚ました。
「あ…」
渚は熱に浮かされた瞳で千尋を見ている。
「気が付いた、渚君。あのね、悪いけど一度身体を起こせるかな?汗が酷いから着替えたほうがいいと思うから」
「うん…」
渚は返事をすると、何とか身体を起こした。
千尋は素早くパジャマを脱がせると、上半身の汗を全て拭き取り、新しいパジャマを着せると、すぐに渚はベッドに倒れ込んでしまった。汗を拭いてパジャマを取り換えたお陰か、渚の呼吸が楽になってきた。本当はズボンも取り換えるべきなのだろうが、流石にそこまでは無理なので替えのズボンはベッドの下に置いた。
(ここに置いておけば、具合が良くなった時に自分で履き替えるよね)
千尋は時計を見た。時刻は朝の8時である。
取り合えず、このような状態の渚を置いて出勤出来るはずは無い。
店長の中島に今日は渚が熱を出したので看病をする為仕事を休ませて欲しいとメールを打った。
「渚君の職場の電話番号は…」
ネットで検索してみると病院のホームページとレストランのページもあった。
しかしまだこの時間は空いていない。
「9時過ぎたら電話してみようかな?」
再度渚の様子を見に行くと、大分楽になったのか呼吸が楽になって眠っている。熱の具合を見る為、額に手を当ててみた。
その時—
渚の瞼が動き、目が開いた。そして千尋を見つめると嬉しそうに顔をほころばせて言った。
「さ…咲…。夢みたいだ…。もう一度君に会えるなんて…」
そして再び眠りについてしまった。
「え?」
千尋の胸がドクンと鳴った。
(誰?咲って?)
渚の部屋を出ても、先程の渚のセリフが頭から離れない。熱に浮かされて誰かと勘違いしているのだろうか?それにしても一度も聞き覚えのない女性の名前を嬉しそうに言った渚の顔が脳裏から離れない。
「いけない、こんな事で考え込んでちゃ。とにかく渚君に何か食べて貰わないと」
台所へ行き、お米を研ぐと小さな土鍋を取り出して千尋はお粥づくりに取り掛かった。土鍋でお粥を作っている最中に渚の職場にも電話を入れて熱が出た為に仕事を休ませて欲しいと連絡をした。
それから約30分後―
千尋は出来上がったお粥と薬と水をお盆に乗せて渚の部屋へ再び行った。
渚は相変わらずベッドで眠っている。
「渚君…?」
千尋は枕元に座って声をかけてみた。
「う…ん…」
渚は目を開けて、千尋を見た。
「大丈夫?お粥作ってきたんだけど食べられる?」
「あ…ごめんね。…迷惑かけちゃったね…」
渚は弱々しく笑った。
「具合、どう?何か口に入れないと薬飲めないと思って」
「大丈夫、起きれるよ」
渚はベッドから身体を起こすと壁に寄りかかった。
「一人で食べられる?」
「うん、大丈夫だよ」
渚はお盆を受け取りお粥を口に運んだ。
「ありがとう、美味しいよ。千尋」
弱々しくも笑顔で言った。
「良かった…。汗が酷かったから上だけ着替えさせてしまったのだけど、後で下も着替えたほうが良いからね。取りに行くから置いておいて」
「着替えまでさせてくれたんだ。ごめんね、迷惑かけて」
「迷惑なんてそんな事言わなくて大丈夫だからね?汗酷かったから、何か飲み物買って来るから待っててね」
「ありがとう、それじゃ頼むね」
渚は赤い顔で言った。
「うん、それじゃ行ってきます」
千尋は渚の部屋を出て行った。
1時間後—
千尋は買い物から戻り、買い物袋から飲み物や食べ物を出して冷蔵庫にしまうと渚の様子を見に行った。渚はベッドで眠っていた。千尋が作ったお粥はきれいに食べられ、用意した薬も飲んでいた。
「あ、着替えもしてくれたんだ」
足元には先程来ていたパジャマが置かれている。
千尋は渚の額に手を当ててみると、先程よりも熱が引いているように感じた。
「良かった…。少しは楽になったみたい」
千尋は渚の着替えを持つと部屋を後にした。
その後、千尋は家事をしながら時折、渚の様子を見に行ったが、ずっと渚は眠り続けている。渚の寝顔を見ながら千尋は呟いた。
「渚君…疲れが溜まっていたのかな?」
その時である。
「え?」
千尋は目を疑った。一瞬だが、渚の身体が透けて見えたからである。
「??」
驚いて数回目を擦ってみたが、別に渚の身体には異常は見られない。
「あれ…?私の目がどうにかなっちゃったのかな?私も疲れてるのかな?」
時計を見ると、そろそろ12時になろうとしている。
「あ、お昼ご飯の用意しなくちゃ」
千尋は渚の部屋を後にすると台所へと向かった。
お昼ご飯はうどんを作ってみた。そっと渚の部屋を覗くと、渚は起きていたのか声をかけてきた。
「あ…千尋…」
「あのね、お昼ご飯にうどん作ったんだけど食べる?」
「うん、食べるよ。千尋のお陰で大分身体が楽になったよ」
渚は起き上がると言った。
「それじゃ、ここに置くね」
千尋は渚のベッドのサイドテーブルにうどんと薬を置いた。
「後で取りに来るから、食べたらゆっくり休んでね」
千尋が部屋を出て行くと渚は独り言のように言った。
「ありがとう、千尋…。大好きだよ…。千尋も僕と同じ気持ちでいてくれたなら、もう思い残す事は何も…」
夕方になる頃には渚の熱はすっかり下がり、起き上がれるようになっていた。
「渚君、無理しちゃ駄目だってば」
「大丈夫、大丈夫。だって熱ももう下がったんだから。それよりごめんね。今日は千尋まで仕事休ませて」
「そんな事は気にしなくていいから。部屋でゆっくり休んでてよ」
千尋が言うと、急に渚が真剣な顔をした。
「でも…僕は少しでも長い時間、千尋の側にいたいんだ…。迷惑かな?」
「え?」
突然千尋の視界が遮られた。気が付けば千尋は渚の胸の中に抱え込まれていたのである。
「な、渚君…!」
その時、千尋のスマホが鳴った。
「!」
弾かれたように渚は千尋から離れた。
「あ、私…電話出るね」
千尋もバツが悪そうに言うと電話に出た。相手は店長の中島からだった。
「…はい。あ、もう大丈夫です。本日は急にすみませんでした。はい、明日は必ず。…それでは失礼します」
電話を切ると渚が声をかけてきた。
「今の店長さんから?」
「うん、明日は出勤出来るかどうかの確認の電話だったよ」
「僕はもう大丈夫だから千尋は構わず仕事に行きなよ」
「渚君は休まないと駄目だよ?」
「ええ~大丈夫だよ。千尋は心配性だな」
「だって…渚君にもしもの事があったら…」
その後の言葉は小さすぎて渚の耳には届く事は無かった。
「本当に大丈夫だから。多分知恵熱のようなものかもしれないし」
渚は冗談めかして言った。
「それじゃ、明日の朝も熱が無かったら出勤って事にしてくれる?」
「分かったよ。千尋がそうして欲しいならね」
千尋が時計をみると、夕方の6時になろうとしていた。
「そろそろ、晩御飯の支度しようかな。食事は私が作るから渚君は何もしないんだよ?」
「別に大丈夫なのに…」
「いいから、隣の部屋で休んでて」
「はいはい」
渚は苦笑するとリビングへと移動した。
それからほどなくして料理が完成した。今夜の食事は病み上がりの渚を考慮して作られた薬味たっぷりの卵粥と大根とレンコンのみぞれスープ。よく祖父が千尋が風邪を引いた時に作ってくれた料理である。
「渚君…御飯出来たよ」
渚はリビングのソファで転寝をしていた。
「…もしかして寝ちゃったの?」
「!」
千尋はそこで再び息を飲んだ。またしても渚の身体が一瞬透けて見えたのである。気が付けば千尋は渚に駆け寄り、手を握りしめていた。
「え?な・何?どうしたの?千尋」
驚いたのは渚である。転寝をしている所に急に千尋に手を握りしめられたのだから無理はない。
「あ…な・何でもない…」
「千尋?どうしたの?顔色が悪いよ?」
渚が心配そうに千尋の頬に触れた。
「だ、大丈夫だから。ちょっと渚君が一瞬消えて見えたような気がして…。アハハ…そ、そんな訳無いのにね」
千尋は笑ってごまかしたが、何故か渚は辛そうな顔で俯いている。
「え?ごめんね!渚君。別に傷つけようと思って言った訳じゃ…」
渚は顔を上げると、千尋の手をしっかり握りしめて意味深な事を言った。
「大丈夫、僕はそう簡単には消えたりなんかしないよ」
「え?それってどういう意味なの?」
けれど、渚はそれに答える事も無く、いつもの笑顔で言った。
「早く千尋の作った料理食べたいな」
「そ・そうだね。冷めないうちに食べたほうがいいかもね」
そして渚は千尋の作った薬膳料理を残す事なく全て食べ終えたのであった。
片付けをやると言って聞かない渚を無理やり風呂に入らせ、あがった後はすぐに部屋へ戻すと後片付けを始めた。明日の朝の朝食とお弁当の準備をし、お風呂からあがったのは夜の10時を過ぎていた。
寝る前に千尋は渚の部屋の戸をそっと開けてみると、穏やかな呼吸で眠っている。その様子を見届けた千尋は自室に移動した。ベッドに入った千尋はしかし、中々眠る事が出来なかった。渚が透けて見えた事、そして意味深なセリフ…。
何故だかどうしようもない不安がこみ上げてくる。千尋はカーテンを開けた。今夜は綺麗な満月であった。
「渚君…いなくなったりなんかしないよね…?」
祈るような気持ちで月を見上げるのだった—。
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