3-8 心通じ合う二人

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3-8 心通じ合う二人

 千尋は夢を見ていた。 それはいつの事なのかは分からない遠い記憶―。 千尋の側には子供のころからの幼馴染、将来を約束した相手がいた。彼と会う場所はいつも決まっている。それは二人だけの秘密の場所。待ち合わせ場所に行くと、決まって先に来ているのはいつも彼の方。そして千尋がやってくると振り返り笑顔で言うのだった。 「待っていたよ、僕の大切な———」  彼と二人きりで過ごす時間はとても幸せだった。こんな時間がいつまでも続くとあの頃の千尋は信じて疑わなかった。けれど、残酷な運命が彼を千尋から永遠に奪い去ってしまった—。千尋は泣いて神に祈った。 どうか、もう一度だけ彼に会わせて下さいと―。 ピピピピ… 目覚ましの音で千尋は目が覚めた。 「あ…もう朝だ…」 千尋はまだ虚ろな目で天井を見ている。何故か頭がズキズキ痛む。その時になって自分が今迄泣いていた事に気が付いた。 「え…?私、何で泣いてるの…?」 千尋の頬は涙で濡れていた。何故かとても悲しい夢を見ていた気がするのに、ちっとも思い出せない。 「どうしちゃったんだろう?とにかく、顔を洗ってこなくちゃ」 泣いて赤くなった目を渚に見られでもしたら、心配されるに決まってる。  千尋は渚に見つからないように洗面台に行くと顔を洗い、手早く化粧を済ませると台所に行った。渚はもう起きていて、料理をしている。 「あれ?おはよう、千尋。いつの間に起きていたの?」 「う・うん。おはよう。ちょっと先に顔を洗っておきたくて」 「ふ~ん…あれ?千尋。何だか目が赤いように見えるけど、どうかした?」 渚は心配そうに千尋の顔を覗き込んだ。 「大丈夫だってば、何でもないから」 千尋は恥ずかしそうに渚から顔を背けて言った。  季節はもう3月になっていた―。 ****  朝食を食べ終え、食後のコーヒーを飲んでいる時に渚が言った。 「ねえ、千尋。今日は何の日か知ってる?」 「今日?え~と…?あ、もしかして…」 「そう、3月14日。ホワイトデーだよ」 「そっか。あれからもう1か月経つんだね~」 「うん、今夜は楽しみにしていてね。その前に、これ」 渚は言うと小さなケースを取り出して蓋を開いた。そこには小さな花を模った紫色のピアスだった。それはとても可愛らしく、一目で千尋は気に入ってしまった。 「渚君…これを私に?」 「うん、千尋に似合うかなって思って選んだんだ。気に入って貰えたかな?」 「勿論!こんな素敵なピアス、本当にありがとう。嬉しい」 千尋は笑顔で礼を言った。 「う・うん。気に入って貰えたなら良かった」 渚は顔を赤くして照れたように言った。 千尋は早速その場でピアスを付けてみた。 「どうかな?」 「うん、すごく似合ってるよ。一生懸命選んだ甲斐があったよ」 渚が装飾店で一人、ピアスを選んでいる姿を想像して千尋はクスリと笑った。 「あ、そう言えば渚君は今日は仕事休みだったっけ?」 「うん。千尋は早番だったよね?帰りは迎えに行くからね」 「ありがと」  いつものように千尋を花屋まで見送ると、渚は家に帰らずに駅に向かった。 バスに乗って着いた先は国立総合病院である。帽子とマフラーで顔を隠すと渚は慣れた足取りでいつものように病室に向かう。周囲に人が居ないのを確認すると素早く中に入った。ベッドには、渚と瓜二つの男性が眠り続けている。身元は相変わらず不明扱いにされている。渚は独り言のように話しかけた。 「…本当にごめん…。でも、もう少しだけ…。本当に後少しだけで構わないから、君が目覚めるまでは彼女の側にいさせて欲しいんだ…」 渚は自分の右手を見た。その手は微かに消えかかっている。 「くっ…!」 渚は唇を噛み締めると、踵を返し誰も廊下に居ない事を確認すると左手でドアを開け、素早く病室を後にした。  そこを一人の女性看護師がたまたま目撃していた。 「あれ?あの部屋から出て来た男の人…まさか目が覚めたのかしら?」 慌てて病室へ行ってみるも、相変わらず男性は眠りについている。 「おかしいな~私の勘違いだったのかな…?」 渚は足早に病院を出ると近くのベンチに腰を下ろし、深呼吸した。 その時である。 「おい」 聞き覚えのある声に渚は顔を上げた。 「お前、一体どういう事だよ…?」 そこにいたのは祐樹であった。 「千尋さん。これ、受け取ってください!」 里中は千尋にラッピングされたB5サイズ程の箱を差し出してきた。 今日は山手総合病院の生け込みの日で千尋はリハビリステーションに来ていたのだ。 「え…?里中さん?急にどうしたんですか?」 千尋は目を白黒させた。 「やだな~何言ってるんですか。この間バレンタインでチョコくれましたよね?それのお返しです!これ、有名なスイーツ専門店のクッキーなんですよ。千尋さん、甘いお菓子好きですよね?昨日1時間並んで買って来たんですよ~。俺で最後の1箱だったんですよ?やっぱ、俺ってついてるのかな~」 里中は一気にまくし立てた。 「あ・ありがとうございます…」 千尋は里中の気迫に押されながら箱を受け取った。 「あれ?千尋さん。今日は素敵なピアスしてますね~。うん、よく似合ってますよ!」 (こんな細かい所まで気が付く男、これって好感度あがるんじゃね?) 里中は内心ほくそえんでたが、千尋の返答で落ち込むことになるのだった。 「本当ですか?このピアス渚君からのホワイトデーのお返しなんです。私もすごく気に入ってるんです」 「あ、そ・そうだったんですね…。は・は…うん。さすが間宮はいいセンスしてますね」 (自分の恋しい女性が他の男の事を喜んで話す。これって俺はもう見込みゼロって事なのか?) 「それじゃ、俺仕事に戻るんで…」 里中はがっくり肩を落とすと仕事に戻って行った。  夜、仕事が終わり店を出ると渚が店の前で待っていた。 「お疲れ様、千尋」 「うん、ありがとう」 並んで歩きながら千尋は渚に話しかけている。 「でね、里中さんもこのピアスすごく褒めてくれて、お店に来た若い女性のお客さんからは『このピアス、何処で買ったんですか?』なんて尋ねられたりしたんだよ?」 「うん…」 渚の返事はどこか虚ろだった。 「渚君、どうかしたの?」 千尋は渚の様子がおかしい事に気が付いた。 「大丈夫、何でもないから」 でも明らかに元気が無い。 「けど…」 「うん、本当に大丈夫だってば。それより今夜のディナーは期待しててね。ちょっといつもより頑張ったから」 渚が明らかに話を終わらせたいのが分かったので、千尋はそれ以上追及するのをやめた。  渚の言った通り、今夜のメニューは素晴らしいものだった。 ローズマリーの焼きサーモン・ホワイトソースのラビオリ・ホタテとパセリのソテーに地中海風のシーフードサラダ。味付けも最高で、まるで一流レストランのようなディナーだった。渚は始終笑顔だったが、時折悲し気な瞳で千尋を見つめた。その度に千尋は思った。 (渚君、どうしてそんなに悲しそうな顔を見せるの…?)  豪華ディナーの後は二人で後片付けをした。千尋が食器洗いで渚が片付ける係を担当した。千尋が洗い物をしている時である。突然ガシャーンッ!!派手な音を立てて食器が割れる音がした。 「渚君?!」 千尋が慌てて振り返ると、そこには割れた食器を呆然と見つめる渚の姿があった。 「大丈夫?!渚君、怪我してない?」 「あ・ああ…千尋。ごめん。食器割っちゃって。ちょっと手が滑って」 そう答える渚の顔は真っ青である。 「何言ってるの、食器なんかどうだっていいよ。それより顔色が悪いけど本当に大丈夫なの?」 「大丈夫だよ、割れた食器片づけて来るから千尋は洗い物の続きしてて」 「うん…。分かった」  再び千尋は残りの食器洗いを続けた。渚が背後でカチャカチャ食器を片付けている音が聞こえている。千尋が食器洗いを終えて振り向くと、丁度渚が廊下から出て行くところだった。その時である。 「!」 渚の身体がス~っと色が抜けていくように透けていき、フッと姿が掻き消えたのである。 「渚君?!」 千尋は悲鳴のような声を挙げた。 「何処?何処に行ったの?!」 千尋は必死で家のあちこちを探し回った。けれども渚は見つからない。そして最後に渚が使っている部屋の戸を開けた。しかし、何処にもその姿は無かった。 「渚君…」 千尋は呆然とその場に座り込んでしまっていた。一体、どれ程の時間が経過しただろう…。それはたった30分だけの事だったかもしれないが、千尋には永遠に長く続く時間のように感じられた。その時である。背後から声をかけられた。 「千尋…」 千尋は弾かれたように顔を上げると、そこには申し訳なさそうな顔をして立っている渚がいた。 「!」 千尋は何も言わずに渚の胸に飛び込んだ。 「ち・千尋…?」 渚は戸惑いながらも肩を抱いた。 「好き…なの」 千尋は渚の胸に顔をうずめたまま言った。 「え?」 「私、渚君が好き…。だから、何処にも行かないで。お願い…一人にしないで。ずっと私の側にいて…?」 千尋は泣いていた。 「私…!」 そこまで言うと千尋の口は塞がれた。渚が口付けてきたのである。そしてゆっくり渚は唇を離した。千尋は涙を浮かべた目を見開いて驚いたように渚を見つめている。 「僕も、千尋の事が大好きだよ。もうずっと前から」 そして強く抱きしめると、再び口付けした。千尋は渚の背中に腕を回して瞳を閉じた。 2人は無言のまま、深い口付けを交わす。やがて長いキスが終わると渚は遠慮がちに言った。 「今夜は…ずっと僕の側にいてくれる?」 千尋を見つめるその瞳はいつにもまして、熱を帯びていた。 「私も、今夜は渚君の側から離れたくない…」 千尋は涙で濡れた瞳で渚を見つめ、そっと目を閉じると渚は再び唇を重ねた。  その夜― 二人は渚の部屋で初めてお互いの気持ちを確かめ合った。 何度も何度も互いの名前を呼びあい、愛を交わす二人を月明かりが優しく照らしていた—。
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