3-9 最後の手紙

1/1
前へ
/45ページ
次へ

3-9 最後の手紙

 翌朝―   千尋は欠伸を噛み殺しながら台所でお湯を沸かしていた。今朝目覚めた時、千尋は自分の置かれている状況を全く理解出来ていなかった。何故なら、昨夜は【自分の部屋で寝た】はずなのにそこは祖父が使用していた部屋のベッドだったからである。しかも千尋は下着すら身に付けていなかった。 「おかしいな…?昨夜何があったんだっけ?確か、仕事に行って里中さんからホワイトデーのお返しを貰って、そしてその後は…?」 そこから先の記憶がすっぽり抜け落ちている。いや、それどころかここ数か月の記憶が断片的に途切れている。何か重要な事を忘れている様なのに、それが何なのか全く思い出せない。こんな状況ではまともに食事を作る気にもなれず、コーヒーだけ飲んで仕事に行こうと千尋は思った。  ドリップしたコーヒーの良い香りが漂い、千尋はマグカップにコーヒーを注ぐ。 「あれ?」 そこで千尋は気が付いた。 「どうして2つのカップにコーヒー淹れてるんだろう…?」 自分は祖父が亡くなり、ヤマトも姿を消してからずっと一人で暮らしていたはずだったではないか?更に気になるのが、このマグカップ。どう見てもペアカップに見える。 「何で私、このカップを持ってるんだろう?」 その時、ズキンと千尋の頭が痛み、ある記憶が頭に浮かんだ。それは千尋が誰かと向かい合ってコーヒーを飲んでいる映像だった。けれども男性の顔はぼやけていてその顔までは分からない。 「何…?今の記憶は…?」 大切な記憶、絶対忘れてはいけない記憶だったのではないか?でもそれを思い出そうとすると頭痛がより一層酷くなっていく。千尋はコーヒーを飲み終えると、洗面台へ行き鏡を覗き込んだ。頭痛のせいで顔色が悪いのではないかと思い、それを確かめたかったからである。鏡を覗き込んで千尋はある事に気が付いた。 「あれ…?こんなピアス、私持っていたっけ…?」 千尋は自分の耳に着けてあるピアスにそっと触れた。その時である。 《一生懸命選んだ甲斐があったよ》 優しげに話しかける男性の声が頭に響いた。 「うっ…!」 激しい頭痛が千尋を襲う。無理に何かを思い出そうとすると頭が締め付けられるように痛み出す。 「考えるのやめよう…」 千尋はため息をつくと出勤の準備を始めた。 ****  今朝の千尋は遅番の出勤だった。 「おはようございます」 裏口から入ると店長の中島が花の水替え作業を行っていた。 「おはよう、青山さん。あら?どうしたの?!顔色が悪いじゃない」 「はい…。ちょっと朝から頭痛がしていたので」 「え?大丈夫だったの?仕事に出てきて、お休みしても良かったのよ?」 「いえ、大丈夫です。むしろ仕事していた方がいいんです」 「そう?ならいいんだけど…」 中島は怪訝そうな顔をしたが、それ以上追及する事は無かった。  午前中、千尋は一生懸命働いた。接客や花の配達、品物チェック等々…。やがてお昼休憩の時間がやってきた。 「店長、それではお昼休憩取ってきます」 千尋はショルダーバッグを下げると言った。 「あら、珍しい。今日はお弁当じゃなかったの?作って貰わなかったのかしら?」 「え?作ってもらうって…誰にですか?」 千尋は小首を傾げた。 「あら、そう言えばそうよね…。青山さん一人暮らしだったものね。作って貰える訳無いか。どうしてそんな風に思っちゃったのかなあ?失礼、どうぞお昼行ってきて」 中島は手をヒラヒラ振って言った。 「う~ん。店長も今日は何だか様子がおかしかったな?一体どうしちゃったんだろう?」 千尋は商店街を歩きながら呟いた。そして、はたと足を止めた。そこは洋食亭だった。 「あ、ここで今日はランチ食べようかな?」  店内へ入ると、お昼の時間のピークを過ぎた頃なのか意外と空いていた。千尋がテーブル席に座ると女性店員がメニューを持って来て言った。 「いらっしゃいませ、ご注文がお決まりでしたらお呼び下さい」 「それじゃ、え~と…」 千尋はメニューを開いた。その時、またある光景が頭に浮かんだ。 ≪ねえ、千尋はいつも何を食べてたの?≫ 「それじゃ、オムライスで」 千尋は無意識のうちに口に出していた。 「かしこまりした。オムライスですね?では少々お待ちください」 言うと、店員はメニューを下げて去って行った。 1人になった後、千尋は思った。 (私、どうしちゃったの?何故勝手に言葉が出ちゃたの…?)  だがしかし、注文したオムライスは美味しかった。会計を終えて職場に向かいながら歩いていると、いつも誰かが隣を歩いていたような感覚が蘇ってきた。 (そんなはず無いのに) 千尋は頭を振り、おかしな記憶を追い払おうとしたのであった。 ****  1日の仕事を終えて、シャッターを閉めた千尋は店の前に立っている男性を見た…気がした。 「?」 錯覚かと思い、目を擦ってもやはりそこには誰もいない。大勢の人が行き交っているだけであった。 「ただいま…」 千尋は誰もいない真っ暗な家に帰ってきた。 「う~寒い」 ぶるっと凍える身体を震わせ、家の明かりを灯すと千尋は家中の雨戸を閉めて回った。ストーブをつけ、手を洗うと呟いた。 「今夜は何にしようかな…。何だか久しぶりに料理を作る気がする…え?」 何故、料理を作るのに久しぶりと思うのだろう?自分は毎日食事を作っていたのでは無いか?千尋はズキズキ痛む頭を押さえながら考えた。そしてふと、今朝祖父の部屋で目が覚めた事を思い出した。もしかするとそこへ行けば、訳の分からない記憶も頭痛の原因も解明されるのではないか?そう考えた千尋は祖父の部屋へと向かった。  部屋に入ると、当然のことながらひっそりと静まり返っている。 けれども…。千尋はクローゼットを開けた。 「!」 そこには見慣れない若い男性が着るような上着や洋服が吊り下げられている。 シャツやボトムス等も祖父が着用していたものではない。 「え…?一体、これは誰のなの…?」 千尋は思わずヘナヘナと座り込んでしまった。  その時である。静かな部屋に突然スマホの着信を告げる音楽が鳴り響いた。 「キャッ!」 千尋は突然の音楽に驚き、肩をすくめた。 「な、なに…?このスマホの音は…?私のじゃない」 一体どこから聞こえてくるのか?千尋はスマホを探すと、ベッドサイドのテーブルの引き出しから鳴っている事に気が付いた。恐る恐る引き出しを開けると、見知らぬスマホから着信を知らせる音楽が鳴り続けている。相手は…。 「橘祐樹?誰なの?」 けれど怖くて携帯に出る事が出来ない。そのうち、相手も電話をかけ続けてるのが面倒になったのか、それとも留守番電話に切り替わったのか、音がやんだ。それから程なくして今度はメールの着信を知らせる音が鳴った。 「メールだけなら…いいよね…?」 千尋は恐る恐るメールを開いた。 『おい、どういう事なのかちゃんと説明しろ。渚の目が覚めたと病院から連絡があったぞ。お前もしかして本当に消えてしまったのか?もし消えていないなら俺に連絡よこせ』 「え…?渚…?」 渚—どこかで聞いたことがある名前だ。その名前を呼ぶだけで胸が締め付けられるような切ない気持ちがこみ上げてくる。 「この人は渚っていう人物を知ってる…?渚…」 すると突然千尋の目から涙が溢れて来た。渚という人の事を知りたい、会って話をしてみたい。スマホを手に取ると、先程のメッセージの相手に千尋はメールを打った。 『初めまして、私は青山千尋と申します。このスマホの持ち主である渚という人物の事でお話聞かせて頂けませんか?よろしくお願い致します』 すると間髪入れずにすぐに携帯が鳴った。今度はすぐに電話に出た。 『もしもし、青山さん?俺は橘祐樹と言う者です』 若い男の声が受話器越しから聞こえて来た。 「はい、青山です。あの、橘さんにどうしてもお聞きしたい事があるのですが、渚と言う人物をご存じなんですか?」 『え?!まさか、本当に…!』 相手がかなり衝撃を受けている。 「橘さん、教えてください」 千尋は食い下がる。 『え~と…。かなり込み入った話になるので青山さんがよければ何処かで会って話したいんだけど…大丈夫ですか?』 「はい、大丈夫です」  祐樹は地元駅前にあるファミレスを指定して来た。一番窓際の奥のテーブル席で待つように言われている。先程から千尋は落ち着かない様子でファミレスの窓の外を眺めていた。そして暫くすると、突然声をかけられた。 「青山千尋さんですか?」 顔を上げてみるとそこには茶髪に髪を染めた男性がそこに立っていた。 「は、はい。青山です」 千尋は頭を下げた。 「ふ~ん…。今までとは全く違うタイプなんだな。初めまして、俺は橘祐樹です。座ってもいいかな?」 「あ、はい。どうぞ」 祐樹はソファに座ると千尋をじっと見た。 「な・何ですか?」 「本当に間宮渚の事覚えていないんですか?」 「間宮…渚…」 やはりその名前を言葉にするだけで胸がざわつき、どうしようもなく切ない気持ちになって来る。再び千尋の目に涙が浮かんできた。 「ちょ…ちょっと、どうして泣くんだ?」 慌てるのは祐樹の方だった。 「ごめんなさい、すごく私にとって大切な人だったのかもしれないけど、どうしても思い出せないんです」 「そっか…それじゃこれを読めばもしかして何か思い出せるんじゃないかな?」 祐樹は自分の荷物から封筒を手渡してきた。 「これは?」 「君が知ってる渚から預かっていた手紙さ。大丈夫、俺は中身は見てないから。渚と約束したからな」 「今、見ても?」 「ああ、元々君当ての手紙だから俺の事は気にせず読むといい」 千尋は震える手で封を切ると手紙を取り出した。 ****  千尋へ 今、この手紙を読んでいるって事は、もう僕は千尋の前から消えているんだろうね。この身体は病院で眠り続けている本来の「間宮渚」と言う人物のものなんだ。どうしても千尋の側にいたくて、この人の身体を勝手に借りちゃったけど、もう限界みたい。きっと、彼が目覚める時僕は消えてしまうと思う。 短い時間だったけど、千尋と過ごした日々は僕にとっては毎日が幸せだったよ。 さようなら。本当に千尋の事が大好きだったよ。 ヤマト 手紙には…そう、記されていた―。
/45ページ

最初のコメントを投稿しよう!

112人が本棚に入れています
本棚に追加